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2010年長崎UBF、ペテロの手紙第一、その8 --> 問題紙

堅く信仰に立って

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御言葉:ペテロの手紙第一 5章5節~5:14節
要 節:ペテロの手紙第一、5章9節 「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」

先週の御言葉で、ペテロは教会の長老たちに、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」と勧めていました。今日の御言葉でペテロは、教会の若い人たちに話をかけています。ペテロは若い人たちに、何をお願いしていますか。若い人たちに伝える神のメッセージが何でしょうか。今日の御言葉を通して私たち、若い人たちが、神様からのメッセージを耳にしますよう祈ります。

5節の御言葉をご覧ください。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」ペテロは若い人たちに、長老たちに従うように勧めています。これを見ると、当時の教会の若い人たちは教会の長老たちに対して反発が強く、文句が多かったようです。ペテロはその彼らに、長老たちに反発したり逆らうより、その話が少々間違っているように見えても、従順するようにと勧めています。自分の好みに合わないことがあっても、自分の考え方を主張するより、長老の話を優先するようにと話しています。それはなぜでしょうか。間違っているのは間違っていて、失敗は失敗として区別すべきではないでしょうか、と私たちは言いだしたくなります。しかし、ペテロが年寄りではなく長老を特定し、従うようにと話をしていることを見ると、基本的にその人生を神にささげる決心をしている人を、神様の働きが潜んでいる人として認めるように、と言っているように思われます。長老たちには神様がその行いの中にかかわりをお持ちだからです。すべての人が神様に従順する必要があるように、神のしもべ、長老たちに若い人たちは従う心を持つべきです。長老を認めることは、神様を認めることにつながるからです。

もうひとつは、神様は心を高ぶるものを敵対され、へりくだるものに恵みをおあたえになるからです。神様は神を神として認める人を祝福されます。この神様は謙虚なために、自己主張をすることがなく、強引さが少ないところか、ほとんど強引に引き寄せることがありません。そのため、この神様には心がへりくだらない限り神様の恵みを見つけることができません。神様の恵み、神様の祝福はイエス・キリストのように、神様の前で、心をヘリ下らせる人々に与えられます。心高ぶり、自己主張が多い人に、世の祝福はあっても神様の恵みはありません。世の祝福があっても、神様の祝福がなければ、その人生は本当の意味で栄えません。形は栄えても、心は神様の恵みに満たされないからです。神様の恵みは、神様の祝福は、世の人々から受け取る賞賛と感心以上に優れたものです。

10年以上も前の話ですが、長崎UBFが個別に夏の集まりをしたことがありました。それを聞いていた本部の長老から「反省文」を書いて送るようにと言われました。結果的には勝手なことをしてないので、反省文は書かなくて済んだのですが、私には心にしこりが残りました。そんな判断をするのは現地がわからない、日本の事情がわからないためだと、思うようになったからでした。その後も、私は本部の長老たちに従う気持より、文句が多かったことに気づかされます。今日のペテロの話を持って、考えてみると、私は長老の言動に神様の働きや神様の動きを認めてない、ペテロ時代の若い人であったことを、反省するようになります。主のしもべには主の働きが潜んでいて、少々間違いがあるとしても、若い人たちは従うべきです。その時に、神様の恵みが訪れるからです。神様の恵みは自己主張をするひとより、へりくだる人に与えられるからです。ペテロは6節を持って、その結論を言いだしています。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」神の力強い御手とは、強力な神様の力強さを意味します。

アブラハムには一人の約束の息子がいました。イサクでした。信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。一番厳しく、苦しい時、アブラハムは約束として受け取ったイサクを、神にささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、そのイサクを、神様の要求があった時、愚かに見える神様の指示があった時、アブラハムはイサクをささげものとして、神にささげたのです。なぜでしょうか。彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えたからです。ペテロは私たちに言っています。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」長老の話に従順することは愚かに見えるときがあります。聖書を通じて聞こえてくる、神様のかすかな要求の声を、私たちは無視したくなる時があります。しかし、私たちが神の力強い御手を信じて、その下にへりくだるとき、私たちはちょうどよい時に、私たちを高ぶらせる神に出会います。神様は人生の劇的な演出家だからです。私たちの神様は、不思議でいっぱいな方です。この方に従順する人に、その人生は栄えます。

また、ペテロは若い人たちにお勧めしています。7節をご覧ください。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」若い人には思い煩いも多いものです。若いから受ける恵みですが、そのわずらいを若い人たちは自分たちの力で何とかして見せようとします。思い煩いを、自分の手で解決して見せようと、考えます。若いから特に、体でぶつけてみようとする気持ちがあります。怖いもの知らずの働きぶりが、若い人たちの生き方です。しかし、ペテロは若い人たちに、特に、教会の若い人たちに言っています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」様々な悩みを自分で解決しようとするより、神様にパスする、ゆだねるところで成長することを願っています。思い煩いを自分の手で解決しようとするより、神様にゆだねる人になるように勧めています。しかも、いっさい神にゆだねなさい、と勧めています。英語ではCastとあり、神様に投げつけるようにと、自分に回ってきた思い煩いのボールを、神様に投げつけるようにと、言っています。理由は何でしょうか。神が若い人たちの思い煩いを心配してくださるからです。神様が解決策を見出してくださるからです。神様がケアーしてくださるからです。

ここで私たちは、私たちが信じる神様は、ケアーする神様であることを学びます。ペテロが経験した神様、ペテロがお勧めする神様はケアーする神様、思い悩みをいっさい、心配して、その解決策を見出してくださる方である、ということです。身近なところで私たちはいろんな思い煩いがあります。私には日本生活の20年を迎えて、伸び悩むキリストの弟子要請への思い煩いがあります。増えてくる仕事、期待にこたえられるかと、いう心配もあります。成長する子供たち一人一人に見合ったケアーができるかと、心配する心もあります。しかし、ペテロはこのような多くの問題を抱えている教会の若い私たちに言われます。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」私たちの仕事ぶりは、自分で抱える悪い癖があります。自分でやってしまえば済む、と考えることが多いです。確か、そうすることで得られるものも多いです。ノウハウを積むことになりますし、その分、能力も増します。しかし、若い時、わたしたちはもうちっと神様のノウハウを学ぶべきです。神様に思い煩いをパスして、料理をしてくださる神様、力強い御手の神様を体験すべきです。神に相談し、神に持ち出し、神の解決策を耳にすべきです。ペテロは若い人たちが、思い煩いを、自分で抱えることなく、神にゆだねるようにと勧めています。神様の不思議な解決を体験するように勧めています。力強い御手の神様は、奇跡を生むからです。

私は今日のメッセージを書きながら、自分の思い煩いを自分で抱えることなく、神様にゆだね、神様の不思議な解決を体験しようとする気持ち、これが神様の教会の若い私たちへの切なる願いであることを悟るようになりました。私にはちょっとしかことを、神様にゆだねることは責任回避のように感じたりします。私が何とかして問題の解決策を見せないと、と思われるときがあります。しかし、ペテロは言います。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」信者は神様の心配を感じ取る人です。信者は神様の解決を見つける人です。信者は神様の、私の人生のかかわりを、常に体験する人です。私たちが神様の導きを肌で感じながら生きる、良い信者、良いクリスチャンとなりますように祈ります。

信者にとって目を覚ますべきものがあります。それは私たちの敵、悪魔です。悪魔は吠えたける獅子のように、食いつくすべきものを探し求めながら、歩きまわっています。その対象について、ペテロは信者が悪魔の的であり、餌食の対象であることを指摘しています。餌食にならないためには、堅い信仰が必要です。堅い信仰とはどんなことがあろうとも、イエス・キリストが私たちの味方であり、助け主であり、牧者であり、カウンセラーであることを信頼することです。どんなことがあろうとも、信者である私たちを誘惑し、滅び失せることはできない、ことを信頼することです。当時の信者は、信者だからということだけで苦しみと悲しみに出会っていました。獅子の餌食になりました。しかし、信者としての救いとお選びは、後悔がなく、失敗がないです。10節をご覧ください。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」

しばらくの苦しみとは、人それぞれですが、神様はその人にふさわしい苦しみを通して、完全にします。信仰を強め、心も体も強くし、不動のものとすることが神様の訓練の理由です。私たちは今の苦しみと悲しみを、神の目で見るべきです。そのとき、わたしたちに神様が何を強くしようとすのかが、何を訓練しておられるのかが見えてきます。どんなところで完全なものにしようとするのか見えてくるものがあります。どんなことで堅くたたせようとするのか、どんなことで強くし、不動のものとしようとするのかかすかに見えることがあります。私は最近、神様が私に鋭い判断力を求め、確実で素早い実行力を求めていることを感じ取ります。会議のリーダーとしての力も訓練されていること、英語やプログラミングへの挑戦も、その一つであると、見えています。すべての面において目を配る力を養おうとしています。神様にゆだねるべきです。神様に解決策を求めるべきです。神様に頼るチャンスです。私は神様の不思議な解決と神様の不思議な力、神様の不思議なアドバイスを受けるチャンスです。私たちが今、私たちに求める神の声を聞き取ることができますように、また、助けて下さる神様を体験する教会の若者となりますように祈ります。

最後に、ペテロは祈ります。11節、「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」神様の支配が私の人生に、私の友人の人生に、私の家族に、私の隣人に広げられますように祈ります。神様のご支配が世々限りなく、続けられますように祈ります。12節から14節には、信者同士のあいさつ、口づけを進めるペテロの声があります。信仰は確か、個人的な活動ですが、信者同士の交流はそれを勇気づける不思議な力があります。私たちが、信者同士の活動を喜びを持って参加できますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23