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2010年長崎UBF、ペテロの手紙第一、その3 --> 問題紙

生ける石

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御言葉:ペテロの手紙第一、2:1-12
要 節:ペテロの手紙第一、2:4「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」

2009年度の教皇ベネディクト十六世の168回目の一般演説で、パウロの死について触れ、AD64年7月ごろネロにより斬首刑に定め、その後すぐに処刑されたのだと推定しています。ペテロがこの手紙を書いたのはAD64年ごろとされています。書かれた場所はローマ(バビロン、5章13節)です。5章12節を見るとこの手紙は、「私の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、」とありますので、シルワノが代筆していたのです。このシルワノはパウロの忠実な同労者であり、テモテとともにテサロニケ教会を開拓した人物です。パウロにとってテモテとともに異邦人宣教に同労していたパウロの側近中の側近です。この手紙が書かれたAD64年ごろは、ローマに大火事があり、その責任をクリスチャンが負わされたとされています。当時のローマの皇帝ネロによって、クリスチャンへの猛烈な迫害が始まったのです。大火事の原因をクリスチャンに負わせ、多くのクリスチャンが犠牲となったとされています。当時、ローマに幽閉されていたパウロも、ネロの迫害により首がはねられ処刑されたのです。使徒ペテロ伝の中にはこのローマを訪れていたペテロはパウロよりも早かったことを記録しています。また、パウロの処刑時に、ペテロは十字架にさかさまになり同じ時期に、殉教されたと記録されています。

ペテロはネロの迫害が厳しくなるにつれ死が近づいたことを感知していたことでしょう。パウロが開拓していて愛していたガラテヤの教会などに急いで手紙を書く必要を覚えました。ペテロは、ネロのクリスチャンに対する迫害は、いずれ、ギリシャやトルコ、イスラエルまで及ぶだろうことを、予感しました。ペテロは、パウロの同労者シルワノに命じて、手紙を書いたのです。そしてこの手紙を持たせたのです。ガラテヤをはじめ、いずれも今のトルコ周辺国家、ポント、カパドキヤ、アジヤ(小アジヤ)、ビテニヤなどの都市をこの手紙をもって回るようにと命じたのです。この後、ペテロは使徒パウロとともにローマで処刑されたのです。この緊迫感の中で、ペテロの手紙は書かれたのです。

しかし、私たちが勉強した1章の言葉を見るかぎり、ペテロは死に対する恐れや心配は見えません。むしろ、感謝と賛美に満ち溢れています。「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」このような大変な時期、このような死を目前とした緊迫したとき、ペテロはポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤの信者たちとともに、信仰により得られた勇気と、栄に満ちた喜びに踊っていたのです。ペテロの喜びは信仰の結果であったのだと、ペテロは自ら証言しています。さらに1章最後のところでこう記録しています。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」ペテロは彼らを脅かし、彼らの上に君臨し、彼らの命を吹き飛ばしそうとしているローマ皇帝ネロのことを、草のようで、草の花のようであるとしています。彼らの人生を左右しているような政治権力、組織、人間が作り上げた力を、草のようで、その栄は花のようにしおれ、散るとしています。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない、と叫んでいます。それはペテロの心の確信のためでした。イエス・キリストへの信仰の結果、ペテロは恐ろしい状況の中でも、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっていたのです。それはペテロだけでありませんでした。この手紙を受け取っているポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していた信者たちの同じ体験だったのです。

ペテロはこのような話をしてから、続けて今日の御言葉の話を続けています。2章1-3節の御言葉をご覧ください。「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」この手紙を受け取る信者たちは今、悪意に満ちていました。悪意とは、相手に不幸・苦痛を与え、傷つけようとする心を指します。彼らを迫害し、彼らの命を狙っている人々への悪意に満ちていました。こまかしに満ちていました。ごまかしとは、人の不利益になるような事をしながら、気付かれないように取りつくろうとすることです。当時の信者たちは彼らに迫害する人々にごまかしをしていました。偽善に満ちていました。うわべを飾っていました。迫害する人々へのねたみと悪口に満ちていました。ペテロはその彼らが「イエス・キリストの御霊」に満ちている者として、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てるように勧めています。むしろ、そのような肉の欲求に従わず、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めるよう勧めています。それによって成長し、完全な救いを獲得するよう求めています。なぜでしょうか。なぜ、迫害する人に迎え討ってはいけませんか。なぜ、迫害する人に当たり前のようなこと「悪意」を持ってはいけないし、ごまかしと偽善、妬みと悪口をしてはいけませんか。それは私たちをほろびに至らせる道だからです。獅子のように、私たちを食いつくそうとする勢力に誘惑されるパターンだからです。それは神様から頂いた御霊は好まない、むしろその御霊に戦いを挑む勢力だからです。私たちは積極的に、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めるべきです。それによって、聖霊の魂が成長するからです。魂の喜びが満ち溢れるからです。完璧な救いが獲得できるからです。生きている間、救いを体験的に手にすることができるからです。しかしながら、ペテロはそれ以前に、思い出すことがあると、語っています。「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっていたのです。」私たちが御言葉を好む必要がありますが、それ以前に、私たちに与えられた主の慈しみ深いかかわりを思い出し、感謝と賛美を捧げるべきなのです。

コリント人への手紙第一、1章26節から29節にはこのように記されています。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」昨年暮れ、私の友人がはるばる長崎まで尋ねてきました。そして、私にいました。「あなたの下の下の下の下のレベルの英語の参考書を見せてくれ!あなたが当時、見ていた英語の参考書のレベルの低さに、私は唖然としていました。」今もそうですが、私は彼に比べられない人かもしれません。この世において彼は認められた社会人であり、多くの部下を指揮いるある会社のトップに座っています。しかしながら、私の心の中には、彼を見るたびごと、神様の私への関わりと祝福を思い出します。神様の私の人生に下さった慈しみ深さのため、心深いところからの喜びがあります。私のような罪びとが、私のようなレベルの低い人が、私のような弱く取るに足りない人が、彼の訪れを堂々と迎えることができたのも、一方的な神様の慈しみ深差のためだからです。ペテロは言います。「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっていたのです。」信者は誰でも、確実な主の慈しみ深さを味わっています。その味わった喜びと感謝を、思い出すべきです。そのことへの感謝と賛美を怠ってはいけません。

4節でペテロはつづけて言っています。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」慈しみ深い主についてペテロは、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石であると、しています。私たちはだれかに選ばれて生きる存在です。ある人は監督に選ばれて、会社に選ばれて、ある人は高校や大学に選ばれて、国に選ばれて、生きています。そのために私たちは選ぶ組織や人の目をうかがいながら生きています。私たちを選ぶ組織や人は私たちの人生を保証したり、食べ物を保証したり、生活を保証したりするからです。しかし、ペテロはそのように、主に選ばれる人になるよう勧めています。なぜでしょうか。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。

石は一般的に死んだ状態、廃墟の姿を描くときに用いられます。石ごろや瓦礫山は廃墟となった荒れ地を表現するときに使います。石は死んだものの象徴だからです。しかし、ペテロはこの石でさえ、神に選ばれると、生ける石として復活することを証言しています。人には捨てられたが、神には選ばれた生ける石、このイエス・キリストに来るよう、勧めています。私たちは国に選ばれて、30年ほど働くと、捨てられます。人に選ばれても、そう長くないうちに、捨てられます。いやむしろ、しばらくの間に捨てられることもあります。私お選ばれて三年で捨てられた経験を持っています。人に選ばれても捨てられる時が来ます。しかし、神に選ばれると、捨てられることがありません。いやむしろ、神に選ばれるとますます生き生きとして成長します。死んだ石が生ける石になります。それは神様だから与えられる確実な約束です。

5-6節をご覧ください。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』」ペテロはこの手紙を読んでいる信者たちも、イエス・キリストのように神に選ばれた「生ける石」として、神の家に築きあげられるよう、求めています。神に選ばれた生ける石として、霊のいけにえを捧げるよう勧めています。信者はどのようにして生ける石として生まれますか。ペテロは聖書にこう記録されたのだと、その秘訣を教えています。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』彼に信頼を置くもの、彼に信頼するもの、になる時、私たちは失望されることのない、生ける石として生まれ変わるのです。死んだ石が、生ける石として、霊の家に築きあげられるようになるのです。シオンに置かれた選ばれた石、尊い意志であるイエス・キリストに信頼を置く時、決して私たちは失望することがないのです。それでは、失望されることのない条件としてペテロが神にささげるようにしている、霊のいけにえとは何でしょうか。

詩編の51:17節は次のように、霊のいけにえについて説明しています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。 」ペテロは信者の姿が、砕かれたたましい、砕かれた悔いの心、謙った姿であるとしています。生けにえ、とするとき私たちは何か、形のあるものをささげなければいけないという気持ちになります。いけにえを捧げるとした時、私たちは形あるものを思い出したりします。しかし、神様はそのようなことを求めません。神様はそのようなものを、いくらでも簡単に手にすることができます。神様はそれらよりも、まず第一に、私たちの砕かれた心をお求めになります。罪を告白する素直な心です。神様はそのような姿をさげすまれません。神様はそのような形以上の形を、祝福されます。そのような人々として信者たちを選び分けられています。信仰に世界に私たちを導いています。神様の前では、純粋さと素直さと純真な心が最高の捧げものです。真実と清めと感謝の心と、砕かれた心が、神様によろこばれる最高の捧げものです。

ペテロはさらに、信者のことを指して言っています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」神の民、神の特別な存在、神の選ばれた種族、国民、所有、これは驚きです。私たちには、極めて素晴らしい目標が与えられています。それは神の民にふさわしい市民として成長することです。またそのために信じ従うべき極めて素晴らしい御言葉という宝が与えられています。どんなに幸せなことでしょうか。

汚れを知ることのない、乳飲み子のように、本当に疑うことなくお母さんのおっぱいを慕い求める赤ちゃんのように、今週も御言葉をこそ開き、また心に覚えながら、歩みたいのです。目の前には、華々しいものがいっぱい見えます。自分を見るとなんと醜く見えることがあります。しかし、見えるところによって歩むのではなくて、見えない神とその約束、何よりもこの御言葉に従ってこそ道を決め歩むのです。神様はそのような人々を求めます。ペテロは今の時期、そのような姿を持った信者になるよう願っています。今週も、神様の前に立つ信者になれますよう祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23