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2010年長崎UBF、ペテロの手紙第一、その2 --> 問題紙

聖なるものとされなさい

Messenger:MSN.David

御言葉:ペテロの手紙第一、1:10-25
要 節:ペテロの手紙第一、1:15「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」

信仰の世界は不思議です。それはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっているからです。この手紙を書いたペテロはとても真面目な人間でした。漁師として夜通し働く人間でした。幸せは自分の手でつかむべきだと思っていた人間でしたし、人には優しくいくら疲れても人から頼まれると拒否できない人間でした。責任感が強く、自分がやるべき仕事をまじめに遂行する人間でした。一度の人生を意味ある人生にしていきたいと強く望んでいた人間でした。

しかし、彼はイエス様に出会ってから徹底して、自分の姿に絶望しました。相当、自分には可能性があるのだと思っていたのでしたが、イエス様が十字架の上で死なれるとき、苦しみと悲しみに悶えておられるイエス様とともに、悲しみました。何の力にもなれず、遠く離れたところでイエス様の十字架の死を見守るしかなかった自信、しかも、師匠、イエス様は知らない人間であると、人々の前で公然として否定する自分の姿が明らかになった時、悲しみは絶頂に達していました。その後、ペテロはイエス様の死がこのような自分のためであることを悟った時、しかも、イエス様が復活され、40日間、彼らとともに居られ、天に召されてから、祈りの中で受けた聖霊の望む体験をした時、彼は信仰の世界について目が覚めました。彼は自分がやるべきことが分かる人生になりました。彼は人生を通して燃える新の目標をつかむ人となりました。神様の使命を全うし、与えられた命と人生を、神様の栄光のために生きることができました。

私たちも一回の人生を、意味ある人生として飾りたい願いがあります。ペテロは今日の御言葉を通してその秘訣を教えています。今日の御言葉を通して、ペテロの秘訣を学びますよう祈ります。

10-12節をご覧ください。この救いについて、預言者たちは熱心に尋ね、細かく調べ、救いのためのキリストの苦難と時期を預言しました。これが旧約聖書です。それらのことが、自分たちのためではなく、後に来る信者たちのための奉仕であるとの啓示を受け、熱心に取り組まれたのです。一方、新約聖書に現れる福音を語る人々は、天から送られた聖霊によって、私たちに「福音と救い」を告げ知らせることになりました。ペテロはこの救いが「御使いたちもはっきり見たいと願っていたもの」と表現しています。聖霊によって伝えられる「この福音」は御使いたちもはっきり見れなく、はっきり見たいと切に願っていたものでした。しかし、ペテロの時代、信者たちはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びを体験していました。これは、信仰の結果でした。

ペテロはその信者たちに言います。13-15節、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」ペテロは「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」と言われます。その理由について、16節を見ると、「『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」とペテロはその聖でなければならない理由を説明しています。これは旧約聖書の、レビ記に記録されたもので、ペテロはその言葉を引用しています。

聖でなければならない、この聖、とはどんな意味でしょうか。昨晩、聖書勉強のときに、サラが「聖」ってなんですか。との質問がありました。聖、さとしとも呼ぶ、この言葉の意味には、取り分けるという意味があるそうです。例えば、洗濯に使う洗剤は服についている余分な汚れと服を取り分ける役割をしているように、また、純金を精錬して作るときに、金以外のものを溶かして落とし、純金だけを取り分けるという意味があるのです。

ペテロの時代、まさにこの世からクリスチャンが取り分けられる必要がありました。ペテロの時代の社会雰囲気はすごいものであったことが、記録に残されて伝えられています。信者たちが散らばって生きていた異邦の世界には、私たちを驚かせています。例えば食についての記録には、孔雀の脳が最高の珍味として紹介されていたり、ナイチンゲールという鳥の舌が紹介されたりしているそうです。今でもある国では生きているお猿さんを円卓の真ん中に掴んでおき、頭をその場で割り、生きたままの脳を食べる料理が最高の珍味として知られているようです。また、当時は10人目の夫を持った金持ちの女性が登場したり、5年のうちに7人目の夫をもった女性などの記述が平気で出てくると研究者たちは伝えています。中には、23人目の夫と結婚した女性が誇らしく出ていて、彼女はその夫の21人目の妻であるという記録もあると伝えています。男女の関係ばかりではなく、同性愛、子供への性的虐待などごく日常茶飯事のことく記録されているようです。

どうせいずれ死ぬ運命なのだから、人もまた犬と変わらずに死ぬのだから、だとしたら犬のように生きてはいけないだろうかと人々は思っていたことでしょう。犬や豚と変わらない私たちの人生の旅であれば、同じことでいいのでは、と思っていたことだと理解できます。体の快楽を求め、その快楽に明け暮れよう、というのが当時の人々の生活の中にしみ込んでいた哲学だったのです。そのような異邦の世界に生きるクリスチャンが、クリスチャンとして自覚をもって生きるためには、この世の中から分離される必要がありました。

「なぜ」私たちが聖である必要があるのか、生意気でわがままな生き方をしてはならないのか、聖でなくてはならないのかという疑問があります。なぜクリスチャンは聖でなくてはならないのかについて、ペテロは16節で記録しています。それは「神が聖であるから」です。ではなぜ、神が聖であれば、私たちも聖でなくてはならないのかということです。私たちが聖でなくてはならない理由がありますか。林桂司牧師はその理由について次のように語っています。

第一の理由は、救われたクリスチャンが神様のご用に用いられるためです。

信者の第一の人生の目標は、神様の栄光のために生きることです。神様の御用のために用いられることです。もし本当にクリスチャンが神様のご用のために用いられたいと願うなら、それにふさわしい道具にならなければなりません。18-19節をご覧ください。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」銀や金はその性質を変えにくい金属として人々に愛されています。3000年たっても、ピラミッドから発掘されるものを見ると、当時のそのままの輝きを保った金の細工が発見されたりするのです。これはその純度が高いからです。救われた人は、本当に尊い働きのために用いられる、神様のために用いられるのだから、低俗なものの考え方や習慣、欲望に流されるままというような生き方からは、解放されていなければならないのです。だから、聖でなければならないと言う事なのです。

第二の理由は、聖でなければ聖である神様とコミュニケーションがとれないからです。

神は、出エジプト記でモーセを呼びます。そして、私に近づくよう呼びかけました。神がモーセに、その秘められた計画を明らかにするためでした。モーセとコミュニケーションをとるためでした。「モーセ」「モーセ」と神は語りかけられたと記録されています。モーセは答えました。「はい。ここにおります。」その時、神様は、モーセにこう言われます。「あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」と。神様とコミュニケーションを始めるために、神様は、聖であることを認識するように、また、それにふさわしい姿を求められました。

私たちが聖くあろうとすることは、無駄ではありません。私たちは、考えるかもしれません。クリスチャンになると、何か不自由になるような気がする。あれはだめ、これはだめ、クリスチャンになると息がつまりそうだと。聖さの中身については、2章以下を見ると、悪口言ってはいけない、ごまかしてはだめ、人に悪意をもってはいけない、夫としてはこう、妻としてはこうと、具体的に書かれています。好色や、情欲、酒飲んで騒ぐこと、そういうことは、もう十分でしょう、と記録しています。新しい聖い生き方をしなさいと言います。息がつまりそうです。

しかし、聖さを身につけることは、神様との交流を盛んにすることであり、神様との交流が盛んになるほどに、幸せという事においても、嬉しいということにおいても、愛されているという人生の満足ということにおいても、本当に満たされてくることを経験するのです。しかし聖さに踏み出すことを躊躇している人は、聖い生き方を軽くみているような人は、神様から受ける多くの恵みを失っているのです。いやむしろ、そのような生き方から来る苦しみと息がつまりそうな気持ちのため、人々はさまよい、悲しみ、死の影にさいなまれているのです。自分勝手な生き方がどれだけ人を傷つけ、悲しませているのか悟らなければいけません。聖でなければならない神様の声は、従順な子供のように受け取るにふさわしい価値があります。

第三の理由は、聖であろうとすることは、神の国のため、神に会うための準備だからです。

17節をご覧ください。ペテロは言います。「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」と。地上にしばらくとどまっている」間に備えるのです。神を恐れ、聖くあろうとする期間は、そう長くはありません。「しばらく」なのです。神の国では聖い事が普通なのです。このしばらくの間に、そこの住人にふさわしい姿になるために備えるのです。21節「あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」とあります。

ペテロは、クリスチャンが神様によって特別扱いされた凄い存在なのだということを強調しています。今は目に見えないように思うけれど、いずれ明らかになる日が来ると言います。ペテロは神の国を思って酔っぱらっています。神に会う日を思って普通でなくなっています。クリスチャンは神の国を思って酔っぱらっている人です。

マザーテレサの下を、ある一人の修道士が尋ね、マザーテレサの働きの中で、ある部門で働く人となりました。彼は、彼の上司が、彼のやることにいちいち文句をつけ、やりたいことを規制することに腹をたてていました。彼は、テレサ女史に直接、言いました。「私はハンセン病の施設で働いていいます。私は、ハンセン病の人たちと共に生きることをこそ望んでいるのです。私のすべての努力を、そのために使いたいのです。」と。彼は、きっとテレサ女史が自分の気持ちに同意してくれるだろうと思ったのかもしれません。しかし、彼女は彼をじっと見つめこう言ったそうです。「あなたの使命は、ハンセン病の人たちのために身を献げることではなくて、キリストに結びつくことが、あなたの使命ですよ。」と。

私はほぼ毎朝、英語のDaily Breadで一日を始めていますが、著者のSarah Barry宣教師の文書はいつも、イエス・キリストにすがり、イエス・キリストを賛美し、イエス・キリストを知ることが最も大事で、知識の根本であると言っています。そのパターンが不思議になるぐらい、いまむしろ、違和感さえ感じる時があります。しかし、今日のメッセージを準備しながら世に染まっている自分自身について悔い改める心が生じています。私がキリストに結びつくこと、キリストに習うこと、キリストを知ることから成長すべきです。また、その中で満たされる喜びを体験すべきです。

信者の最大の目標は、神に会うことであり、神の国に入ることであり、神様と語り合うことです。天と地を創造され、今もなお、その主権とご計画通りにこのすべての世界を動かされる神様の願いに従って生きることです。そのキリストに結び付くために、私たちは聖でなければならないです。神様とコミュニケーションを取るために、私たちは聖でなければならないのです。私たちの人生は神にかかっています。私たちが人生を計画し、進んでいても、その道を開くのは神様です。神様と一緒に人生を歩むために、神様は私たちに求めています。

15-16節を読んで終わります。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23