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2010年長崎UBF、ペテロの手紙第一、その1 --> 問題紙

生きた望み

Messenger:MSN.David

御言葉:ペテロの手紙第一、1:1-9
要 節:ペテロの手紙第一、1:3「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」

今日からペテロ牧者の手紙を勉強することになりましたことを、感謝します。ペテロは初代教会の柱のような存在でしたが、教会組織を運営する教会のヘッド、あるいは教会を治めていた人ではなく、その時代に生きていた信者たちの牧者であったのだと、UBFの前の代表であるMother Sarah Barryは評価しています。ペテロはAD.64年ごろ、この手紙をバビロン、すなわちローマで書いたのだとされています。後にはパウロと一緒にこのローマで処刑されたのだと伝えられています。ペテロが残した手紙、二通はそのような時代を反映していますし、この時代を生きている信者たちへのメッセージが込められています。ペテロの手紙を通して、人々の牧者・ペテロの信仰を学びますよう祈ります。

今日のタイトルが「生きた望み」となっています。「living hope」です。死んだ望みというものがあるから「生きた望み」というものがあります。望みではあるけれど、確実でないもの、これが死んだ望みですが、生きた望みとは確実なもの、生きているもの、必ず実現するものです。なぜなら、神様がその望みのかじを取っているからです。ですから、その望みのことを「生きた望み」というのです。今日の御言葉を通して、この「生きた望み」を学びますよう祈ります。

1章1節をご覧ください。ペテロはまず、自分がこの手紙を書いてあることをこの手紙の受信者たちに伝えています。「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、」とあります。この手紙は前述したように、ペテロから故郷エルサレム、ユダヤを離れて諸外国に散って寄留していた人々に書かれてあります。しかし、そのあとすぐ、選ばれた人々とあります。彼らはイエス・キリストを信じる信者たちだったのです。当時、エルサレムやユダヤ周辺は厳しい迫害があり、イエス・キリストを信じる信者たちにとって生きていくことができない場所でした。彼らは信仰の自由を求めて、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していました。ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散ってよそ者として、外国人として、そこで職を得、そこで生きるために生活していました。人間的にみれば気が弱く、エルサレムの厳しさに耐えることができなかった人々なのかもしれない人々でした。中には人間的な夢を持って故郷エルサレムを離れ、外国の地で住みついている人もいたのかもしれません。ペテロはその彼らを、選ばれた人々、と呼びました。彼らはクリスチャンでした。信者でした。信仰を持っている人々でした。

2節をご覧ください。その信者のことを指して、選ばれた人々を指して、ペテロはもっと具体的に説明しています。「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」信者とは自分の意思で、偶然に信者の友人がいたから、あるいは信仰人の本を読んだから、あるいは親が信者だから、という理由で信者になったのだと、思う人々がいるのかもしれません。しかし、ペテロは選ばれた人々という言葉通り、信者は選んだ人によるものであることを教えています。さらに、父なる神の予知に従って選ばれたことを、また、御霊の聖めによって選ばれたことを教えています。信者は偶然の産物でもなければ、自分の強い意志によって生まれるものではありません。信者は徹底して、神様によって選ばれた人々です。父なる神の予知に従って、さらに聖霊の働きがその人の上にあり、生まれるものです。ですから、ペテロは信者のことを「選ばれた人々」と記録しています。近視眼で見れば私たちの意思が働いているように見えても、実際のことは神様により選ばれた人々なのです。昔の昔から、母の胎内から計画された父なる神の予知に従い、私たちは信者になったのです。

ペテロはその神様のことをほめたたえています。3節、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」なぜでしょうか。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」とあります。選ばれた人々に、神様は生ける望みを与えてくださったのです。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせることによって与えられたものです。イエス・キリストの復活は、私たちの永遠の命を保証し、生ける望みを持たせて下さったのです。朽ちる望みではなく、消えてゆく望みではなく、生きている望みです。4節、「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」

しかも、5節を見ると、ペテロはその資産が、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのだとしています。これは信者が受け継ぐ永遠の命と、天の御国が信者の資産であり、信仰により獲得するものであることを教えています。しかも、その資産は私たちが守る必要がなく、神様の御力によって守られているのだと、しています。信仰によって大なお金が天の銀行に預けてあります。この銀行は、不良債権もない極めて健全な銀行です。その預けた金額があまりにもばく大なものなものですから、私たちの日常生活は、銀行からガードマンが派遣されています。家もガードマン付きであり、外に出るときは護衛の車が護衛します。勉強するときも、仕事をするときも、家事をするときも、トイレで用をするときにも、デッカイガードマンが張り付いています。しかし資産の価値があまりにも大きいものですから強盗や暴漢に襲われたりします。でも守りは確かで、その大金を手にするまでは、むやみにそこらで殺されるような事はありません。私たちは預金通帳を見ながら、喜ぶことができます。預金通帳を見るたびごと笑いが止まりません。現金はないけれど、その預金通帳の保証人は天と地を創造されました神様です。みんなもこの人のことを羨ましく思っています。金持ちも、大統領も、首相も、全ての人々が羨ましく思っています。

ここでいうばく大な財産とは、永遠の命の事であります。銀行は天の御国の事をさします。素直に、キリストを信じる人は、凄いものをもっているのです。大金を手にしている人ですから危険なこともあります。クリスチャンになるということは、即、幸せになると言うことではないのかもしれません。何か窮屈で、おびえるような不安なような気持ちにさせられることもあるかもしれません。しかし、大金を銀行に預けている人のような彼はどうでしょうか。不幸せでしょうか。ガードマンである神様、聖霊様は信者の誇りであり、預金通帳を攻撃する勢力のため若干、心配があったりおびえる不安があっても、ガードマンを見るたびごと、確信と幸せに満ちた生活をすることができるのです。どんなに安全で、食べ物も豊かにあり、快適な家に住んでいても、もし、明日、命が取られるとするなら、将来に希望が持てないのなら不幸です。しかし、キリストを信じる者は、素晴らしい希望をもっています。しかも確かな希望です。ペテロはそれを、「生きた望み」としています。神様が保証しているので死ぬことがなく、腐ることがなく、消えてゆくことがないので、「生きた望み」です。

ドイツのハイデルベルグ大学のルードルフ・ボーレン教授がいます。彼は神学者で説教学を教えていますが、彼は若い時に、妻を亡くしました。うつ病による自殺でした。クリスチャンとして重い課題を受け持ったのでした。しかし彼は自分の説教でこう語りました「クリスチャンであった自分の妻の柩(ひつぎ)が、お墓の中に下ろされていくとき、私ははっきりと悟りました。この妻は、ここから出てくると。ここで終わっていないのだと。よみがえるのだと。神の戒めに背いて自らの命を絶ったものさえも、救われた者は引きずりあげる力が神にはあるのだと。」彼は何を伝えたのでしょうか。 日本の聖書宣教会で牧会学を教えている林牧師は次のように言っています。「キリストを信じて救われたと言うことは、その人が、たといろくでもない一生を過ごしたとしても、キリストの恵みと救いの確かさは、取り消すことの出来ないほど確かで重い、私たちの持っている希望は、私たちのミスによって取り消されるものではない、それほど確かなものです。」キリストを信じる私たちは、神様によって愛されているのです。恐ろしく愛されているのです。ペテロはこの気持ちを、5節でこう記録したのです。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」愛されているのだから、救われているのだから、ただ、神に感謝しています。喜んでいます。当時の外国に寄留して生きていた人々のことを、ペテロは記録として残しています。

6節「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」信仰の中にある試練は称賛と光栄と栄誉に至る近道です。信者であるがために受ける試練は神様の祝福です。彼らは試練の中にいましたが、喜びが絶えませんでした。それは信仰の結果でした。

8節「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」

デートリッヒ・ボンヘッファー牧師は、ドイツのナチの体制に対する政治的な活動のためにゲシュタポによって逮捕されたひとです。彼が絞首刑を受けるその日、日曜日に、牧師として礼拝を導き、説教をしたそうですが、その時の様子が、後に、やはり死刑囚として同じ牢に入れられていたイギリスの陸軍の士官によって記録されています。デートリッヒ・ボンヘッファー牧者の最後の言葉はこれです。「さようなら。これで、終わりです。でも私は、私にとっては、これは命の始まりであると思っています。"This is the end, but for me it is the beginning of life."」と。(Copyright© 1996 Discovery Publishing, a ministry of Peninsula Bible Church.)

イグナティオスは、死は、私にとって弟子であることの始まりだと言いました。ボンヘッファーは、命の始まりだといいました。終わりの日にあっても、希望を語りうる。私たちは、そんな確かな希望をいただいているのです。そしてペテロは言います。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

言葉に尽くすことの出来ない、栄えに満ちた喜びに踊りつつ、今週の歩みも歩みたいと思います。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23