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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その7 --> 問題紙

神の国とその義とをまず

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 6章1節~34節
要 節:マタイの福音書、6章33節 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

イエスさまは今日の御言葉を持って、ご自分の信仰について語られます。信仰は価値観です。信仰は生き方を根本から変えるものです。信仰があれば、人生を価値あるものに仕上げます。しかし、信仰人の姿は私たちの本音とかなり異なります。私たちの体の要求とかき離れています。イエスさまの信仰を耳にすると、私たちは間接的に、イエスさまの幸せを感じ取ることができます。イエスさまの信仰はどんなものだったのでしょうか。今日の御言葉を通して、イエスさまの信仰を学ぶ時間となりますよう祈ります。

I. 善行をするものの信仰

人前で、私たちはどんな信仰を持つべきでしょうか。。

1節をご覧ください。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」これは鋭いイエスさまの指摘です。人々は人前で善行を行おうと努力します。無駄な善行はしない方がましだと思ったり、しても、失敗したのだと思いがちです。人が見るところで、善行をすること、人がもし見てないとしたら、ラッパでもお借りして、善行を宣伝し、人々が認識するようにするのがよいと判断します。そうでないと、無駄な時間と無駄な行動をする、もったいないことだと考えます。近年、組織は評価を公表し、人々から判断をして貰おうとします。仕分け作業を、大きな体育館でやったり、人々がたくさん集まるところでやるのは効果的です。隠れたところで、奥まった部屋でやるとしたら、その価値が半減したり、あるいはやる意味がない、と人々は判断します。なぜでしょうか。その効果が人々によって現れるからです。人々によって仕分け作業をする人物の評価が高くなったり、期待感が高まったりするからです。

しかし、イエスさまは全く、これとは違う教えを教えています。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」と。その理由は、「そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」ので、と言われます。つまり、イエスさまは誰から報いを求めるか、人からか、神様か、報いの対象を選ぶのが信仰であるといわれます。私たちは日曜日になると、教会に行って礼拝をささげています。土曜日には聖書勉強があるので、その時間にはアルバイトも入れないで、友たちと遊ぶ時間にも充てていません。違った形を持っています。信仰人だからです。しかし、イエスさまは信仰人の違ったところについて、報いを誰から受けようとしているのかが、一番のわかれ道であると、教えています。日曜日には教会に行くのが信仰人ではなく、聖書勉強を決まった時間に、必ずするのが信仰人ではなく、本当の信仰人は、報いを誰に求めているのかにあると、教えています。

へブル人への手紙を見ると、信仰人について、次のように定義しています。「11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」信仰人について、へブルの手紙は二つ、指摘しています。その一つに、信仰人とは神様が生きておられることを信じる人であることです。神は私の人生に関与し、この日本を動かし、世界の動きに関与していることを信じる人が、信仰人です。それに対して、不信仰の人は神の存在を認めない人です。私の人生は私の手だけによって動いているし、あなたの人生もあなたの手だけによって動いているのだと、信じる人です。神様の関与はないと考えます。この日本も世界も、神様の関与なしに、人々によって、偶然に、突然の事件によって成り立っているのだと考えます。人生は面白い、この世の中、複雑、と診断している人も、不信仰の人は神様の関与を認めません。しかし、信仰人はこれらの複雑さに神様が存在し、語と細かい私の生き方にも神様が閑居していることを信じています。

もうひとつは報いです。不信仰の人々の報いの対象は社会であったり、人であったり、します。社会からの報いを求めて、生きていたり、人からの報いを求めて行動をするのです。しかし、信仰人は神様からの報いが社会や人からの報いよりも価値のあるものと考える人です。神様からの報いに重みを置く人です。人からの報いや社会からの報い以上に、神からの報いがもっとも満足できる報いであると信じる人です。「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」人からの報いは嬉しいものです。人から評価されると、なんだか気持が受かります。満たされた感じがあります。しかし、イエスさまは言われます。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」イエスさまは神様の報いを求めて、人の前で善行をするようなことをやめて、施しをするときには、隠れたところで、右の手がしている施しを、左の手がわからないぐらい、ひそかにやるようにと教えています。なぜなら、神様は隠れていて、神様の報いは隠れたところで行われるからです。しかし、イエスさまは神様の報いを重んじているのはなぜでしょうか。神様の報いは私たちを絶対、失望させるものではないからです。神様の報いは私たちに新の満足を見たちて下さる報いだからです。

子どもの育っている様子を見ていると、面白いことを発見します。子どもの中には親の顔色を意識しながら生きていることもがいて、親の顔色はどうでもよく、自分に素直な子どもがいます。親にとって見ると、親の顔色を意識する子が何となくかわいく見えたりします。しかし、よく観察してみると、親の顔色をうかがいながら生きている子どもは親にはいい顔をしているのですが、不平不満が多く、満足できない点が多いため、涙もろいです。しかし、親の顔色はどうでもいい、自分に素直で、神様の存在を認めている子供は心強いところがあります。人からの報いはどう手もよく、神様の報いがあるからです。人からの報いは変わります。親からの報いも偏ります。しかし、神様からの報いは変わらずの、偏りのない、いつも、豊かなものです。いい顔をしている時も、つらい顔をしている時も、その愛の程度は変わることがないからです。親に満足できる子どもを求めるより、神に素直で、神を認めて、神の報いを求める子どもを育てるべきです。それが彼らの幸せに直結するからです。

II. 祈るときの信仰

5節をご覧ください。「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。」祈りをするのに、偽善者ととして定義されるものがいます。「彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きです。」彼らを指して、偽善者と言います。良い人として見せかける人です。祈りは神に向かって語る言葉です。しかし、当時は祈る内容よりも姿が評価の対象であり、人が見るところで祈りの様子を評価の対象としていたのです。「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」彼らへの評価は、人の評価であり、その評価以上は受けられません。それが精一杯です。

しかし、神様の報いを求めているひとはどうしますか。6節をご覧ください。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」ここで大事なのは、奥まった部屋、戸を閉めて隠れたところでする祈りに、神様は報いをくださることです。見せる祈りは人々によって報いが着ますが、見せない祈り、戸を閉めて祈る祈り、奥まった部屋でささげる祈りには、神様が報いてくださるのです。人の報いも私たちを満足させますが、神様の報いは私たちを幸せにします。神様の報いは奪われない宝です。見せかける祈り以外に、また、異邦人は「同じことばを、ただくり返して、ことば数が多ければ聞かれると思っている」祈りがあります。しかし、祈りはことば数ではないといわれます。さらに、お願いすることを、並べているものでもないと言われます。8節を見ると、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」とあります。祈りは必要なものを求める行為ではないのです。

それでは正しい祈り名どんなものでしょうか。イエスさまは9節で、「こう祈りなさい。」と教えています。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』これが正しい祈りです。内容は神の国が来ることを祈るものです。天の御国でのご支配が、この地にもありますように、祈ることです。神の国がこの地においても広がるように祈ることです。もうひとつは日ごとの糧です。食事のために祈ることです。食べ物のために祈ることです。生活費のために祈ることです。これも、祈れば聞いてくださるからです。食事を、生活費を、神様が関与するからです。もうひとつは人の過ちを許したことを告白する祈りをするように、と言われます。「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」祈りは求めることだと思います。祈りは願い事を続けて語ることだと考えます。しかし、イエスさまは祈りが、赦しの告白であると、言われます。そうでないと、私たちの赦しは受けられないからです。ですから、祈りはこう祈るべきです。。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」

III. 断食するときの信仰

断食は自分との戦いに挑む行為です。自分に厳しく対応して、心を改めようとするときに行います。ですから、善行が人の前での戦いであり、祈りが神様の前での戦いであれば、断食は自分との闘いです。その時に、偽善者たちはどんな様子を見せていますか。イエスさまは彼らがやつれた顔つきをしていると伝えています。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。自分との闘いのはずの断食を、人のために、人からの報いを受けるためにやるのです。しかし、信仰人にとって断食はどんなものでしょうか。自分との戦いをするときに、どんな態度をとるべきでしょうか。17節をご覧ください。「しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」これを見ると、私たちは断食の報いをどこから取ろうかと考えるのです。聖書は断食の報いは神様から求めるべきであると教えます。人からの報いよりも、神様からの報いが立派だからです。天から報いが地上の報いよりもはるかに優れているからです。

最後に、イエスさまは財産を地上に蓄えようとするより、天に蓄えるようにと進めています。その理由を、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」と指摘しています。宝は神様に匹敵します。宝があれば何でもできるからです。しかし、これらの宝よりも、神様があれば、神様にまず第一に心をささげれば、タカラ以上の効果が表れます。宝は心配の源ですが、神様は喜びと賛美の源だからです。確信に満たされた空の鳥は、自分のために何もしないのですが、食べ物に困っていません。野のゆりも着物のために何の心配もしないのですが、ソロモンよりも立派に着飾っています。結論的にイエスさまは言われます。30節をご一緒に読んでみましょう。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめるべきです。こういうものはみな、信仰がない異邦人が切に求めているものなのです。しかし、信仰人の私たちのたの天の父は、それがみなわたしたちに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めるべきです。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。あすのための心配も無用です。あすのことはあすが心配します。明日に任せて、今、神様が私たちに与えて下さったことに専念すべきです。労苦はその日その日に、十分あるからです。明日の心配を持ってきて、肩こりになっている人がいます。心配したからと言ってできるものでもないものまで、持ってきて、溜息をしている人がいます。イエスさまは言われます。

6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23