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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その5 --> 問題紙

幸いな者の生き方

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御言葉:マタイの福音書 5章1節~16節
要 節:マタイの福音書、5章16節 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

今日の御言葉はイエスさまの山上の説教と称される有名なお言葉です。多くの人々がその説教に感動をしてきています。今日の御言葉の深い意味を学びたいと思います。

I.幸いな者の生き方

イエスさまが宣教活動を始めると多くの群衆が注目しました。多くの群衆がイエスについてきました。イエスさまは彼らを見て山に登りました。山に登ると弟子たちだけがみもとについてきました。山まで付いてきた人々をイエスさまは、弟子、と称されました。イエスさまの言葉を聞くために幾分の犠牲を払い、山に登る苦しみを支払った人々に、イエスさまは八つの幸いについて話されました。

「幸せ」これは私たちが常に求めている一番の願いです。人々はこの「幸せ」を手にするために生きているのです。幸せのために犠牲を払い、幸せのために働いているのです。いったい、人々はどのような幸せを手にするために働いているのでしょうか。ワールドカップが開かれています。すぐにでも仕事をやめて、ワールドカップを見に、南アフリカに飛べる人は何かと、幸せだなぁ、と感じたりします。私は昨日、三人の娘たちと一緒に、近所の「自然の家」周りをしました。楽しく遊んでいた彼女たちが、おなかがぺこぺこになり、普段はめったに行かない食堂で、ちゃんぽんを食べました。私は彼女たちの食べる姿を見ながら、「幸せ」を満喫しました。孫と遊ぶおじいさんの幸せは、こんなものかもしれないと思いながら、とても幸せな食事会となりました。

これも一つの幸せかもしれませんが、イエスさまは本当の幸せについて定義されています。幸せはどんなものでしょうか。どんな人のことを、幸いな者、と定義するのでしょうか。

第一に、心の貧しい者は幸いです。

お金がなくて生活に困るときに、貧しくて困る、という言葉を使います。イエスは同じ表現を「心」に限定されて使われています。このことばの意味するところは何でしょうか。心が貧しいとはどんな意味でしょうか。簡単にいえば、自分自身の心が何も頼るほどのものがない状態、つまり「心の破産状態」のことを意味します。

心の貧しさとは、生きていくための資源が自分の中にはまったく無い状態のことを指します。そこで、必要な助けと力を神の前に見いだす心です。胸をたたきながら、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、『神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18章13節)と祈った取税人の姿と重なります。

なぜ、このような「心の貧しい者」が幸せなのでしょうか。その理由が後半に記されています。「天の御国はその人のものだからです」とあります。心の貧しい経験をした人には、神のご支配が障害なしに及ぶからです。つまりこの地上ですでに天の御国の素晴らしさを経験できるだけでなく、天の御国においてもその人のための場所が用意されているからです。これが「幸いです!」の理由です。本当の意味で幸せとは、変わらない神様の支配と御恵みが障害なしに及べる人です。心が破産状態になり、神様の恵みが流れ出る人のことを指します。

第二に、悲しむものは幸いです。

「心の貧しい者」と同様に、イエス・キリストは人間の内面の状態を指して、「祝福されているなぁ、悲しむ人は!」とおっしゃられています。当然のことながら、「悲しみ」とは世の人々が避けようと努力しているものの一つです。多くの人はいかに苦しみや悲しみから逃れて、楽しく、楽に過ごすかということを人生のテーマにしています。基本的に人は喜ぶことを求め、悲しむことを嫌うのです。

それではなぜ、イエスさまはこのような悲しみが幸いの根源であると言っているのでしょうか。イエスさまが言う、悲しみとはどんなものでしょうか。その意味を説明できる事例がローマ人への手紙7章後半部に見られます。その部分を見ると、使徒パウロが自分の無力さと絶望的な状態を気付き、次のように叫んでいます。「 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」使徒パウロは悲しんでいます。惨めな自分をさらけ出して、救いを求めています。昔、人を残酷に殺すときに、死体をその人に巻き、徐々に死なせていたそうですが、パウロはまるで死の体が、自分の体にくっついていると叫び、 だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか、と叫んでいたのです。悲しみの絶頂です。

パウロが悲しんでいるのは、死すべき罪人としての自分です。同様に私たちも、このような叫びを身をもって知っているならば、「悲しむ者」だと言えるのです。イエスはこのような人が幸いであると、言っています。その理由は「その人は慰められるからです」と説明しています。自分の罪深さに気付き、「悲しむ者」のみが、心から救い主を求めるし、聖霊なる神の導きによって本当の意味の慰め・救い主が与えられるからです。唯一の救い主であるイエス・キリストに出会うからです。

第三に、柔和な者は幸いです。

現代は自分を誇示する時代です。多くの人は、強さと力、能力と自己確信という面が重要だと考え、様々な表現方法を用いて自分を主張します。その目的は、自分を周囲に認めてもらうため、または自分の望むもの(立場)を手に入れるためだと思うからです。

そのような考えを持つ人々に対して、イエス・キリストは言われます。「柔和な者は幸いである。その人は地を相続するからである。」ここにおいて、イエス様は世の常識と全く異なる考えを示されたのです。やさしくておだやかなひとは騙され、排斥され、無視され、捨てられるのです。このような特性を持つ人の多くは、人柄としては好感が持てても、自分を強く主張できるタイプではないので、「柔和な者=地を受け継ぐ」という図式は成り立たないのです。しかし、あえてイエスさまは「柔和な者=地を受け継ぐ」という図式を示しています。

実は、聖書には数々の「柔和な」人が登場しています。甥のロトが先に土地を選ぶのを許したアブラハム、最も信頼する人から非難されても一切弁解しなかったモーセ、自分のいのちを狙うサウル王に対して、2度の機会があったにも関わらず自分では復讐をしなかったダビデなどがその例です。聖書はそのような人々がこの世においても地を受け継いだことを記録して、証言しています。それだけでなく、来るべき神の国において、キリストと共に地を治める働きに加わるのだと主は約束しています。

第四に、義に飢え渇いている者は幸いです。

「義に飢え渇いている者」とはどのような人でしょうか?「義」とは神と正しい関係にあることを表しています。また、「飢え渇いている者」とは、「飢える」と「渇く」という二つの言葉であり、もし得られなければ死んでしまうほどの危機意識を伴った言葉です。即ち、「義に飢え渇いている者」とは、神と正しい関係でいたいと強く強く求めている者のことです。神の前の自らの罪ある本質を知り、そこで留まってしまうのではなく、だからこそ神様との正しい関係を必死に求める者のことを指します。イエスさまはそのような人が幸いであると言われたのです。 なぜでしょうか。「その人は満ち足りるからです。」その人は満たされるです。誰が満たしてくださるのか?神ご自身が、キリストの十字架の故に、関係を回復させてくださるのです。

信仰生活は、今神様を呼び求めて生きる歩みです。常に見つかる罪びととしての姿を悲しみ、神様と正しい関係になることを求める人は幸いです。罪びととしての姿のためあきらめることなく、神様に呼び求め続け人は幸いです。その人は満ち足りるからです。

第五に、あわれみ深い者は幸いです。

「あわれみ」とは同情、慈善、施しといったことを意味します。聖書のなかであわれみ深い人の典型は、あの主イエスのたとえ話に登場する「善きサマリヤ人」です。エリコの町に登っていく街道で一人のユダヤ商人が強盗に襲われ、暴力を振るわれ身包み脱がされて道端に放り出されました。そこに祭司、レビ人が通りかかりましたが、かかわりをもつことを嫌って去ってゆきました。三番目に通りかかったのが、ユダヤ人が嫌っていたサマリヤ人でした。彼は、ユダヤ人の商人をかわいそうに思って駆け寄り、介抱し、宿屋にまで連れて行き、夜を徹して看護して、翌日には「帰りにはまた寄ります。足りない分はまた払いますから。」と告げて出かけて行きました。彼こそひどい目にあったユダヤ商人に対してあわれみをかけた人だと主は言われました。

このように、あわれみ深いとは、犠牲が伴う行動です。人々はあわれむ心がわいても、犠牲を伴うものになると遠慮したりします。しかし、イエスさま言われます。「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」犠牲を伴う行動は、必ず帰ってくるとの約束です。そのあわれみのために支払う犠牲は、必ず戻ってくる、という意味です。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ。」という言葉があります。「我らに罪を犯す者を我らが赦すのに比例して、私の罪をも赦してください。」という祈りです。「あわれみ深い者は幸いです。その人は神様からのあわれみを受けるからです。」

第六に、心のきよいものは幸いです。

どちらかというと外面的な意味で用いられている「きよい」ということばを、イエスさまは「心」に限定して使われています。なぜ、イエス様は「内面のきよさ」を幸福の条件としているのでしょうか。イエス様の時代のユダヤ人(特にパリサイ人)は「うわべのきよさ」に固執していました。

マルコ福音書には、「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。」(7章3~4節)と記されています。しかし、イエスさまは「外側から人にはいって、人を汚すものは何もありません。人から出てくるものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7章16節)と彼らの問題をしてきていました。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」(マタイ15章19節)とあります。

私たちは形を整えれば、神を見ると勘違いをします。私もなんとなく、日曜日を守ること、朝の祈りを守ること、日ごとの糧を食べること、決まった献金をすること、聖書勉強をすること、といった形を大事にしてきたような気がします。しかし、これは神を見るきっかけにはなるのかもしれませんが、神を見るところには至らないのです。イエスさまは言われます。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」神を見るのは心を清める人です。神様の前に立ち、腐敗した心を告白する人です。形は整えられてないとしても、心から神様を礼拝する人、神に恩返しを考える人は、神を見ます。神様がその人の人生の主人となられるからです。

第七に、平和を作る人は幸いです。

平和とは和解されて出っ張っているところが平らになった状態を指します。関係性が回復されることを意味します。関係性がこじれて、行き詰っているところから和解されて風通しが良くなることを指します。そのような人は神の子どもと呼ばれるのだと言われます。なぜ、平和を作る人が神の子どもと呼ばれるのでしょうか。神様自らが、平和を作られたからです。反目と反発、堕落に落とされた人々のために、救い主をご用意されたからです。ご自分の一人子を、十字架につけられ殺され、死なせる犠牲をもって、救いを完成させられたからです。同じように、犠牲をもって平和を作る人は、神の子どもと呼ばれるようになります。

第八に、義のために迫害されている者は幸いです。

義のために迫害されるとは、義、つまり神様のために迫害されることを意味します。神様のことで迫害され、神様を信じているからといって、白い目で見られ非難されることを意味します。神様を信じるのも適当に信じると、非難されることがありません。それで私たちは、非難される程度信じることをいやがりますし、そこまでは行きたくない気持ちがあります。しかし、非難されるほど、神様への強い思いを寄せている人々は神様の慰めを受けます。天の御国はその人のものだからです。天の御国はその人々のために用意されているためです。神様はその人々の非難と悲しみを慰められます。それだけでなく、返しを用意されます。天の御国がその人々のために用意されているのです。

イエスさまはついでに、義のために迫害されるものの中でも、特に「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」と言われます。義のために迫害される一番の姿は、イエス・キリストのために受ける迫害です。イエスさまはこれについてはっきりと言われます。12節、「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」

以上から、幸いな者の定義について、イエスさまは自分の腕や頭を信頼することから離れることからスタートするものであり、本当の幸せはすべての行いやすべてのことに関与する神様を見つめ、信頼することであると、定義しています。私たちが信頼している自分の頭や腕、知識や知恵を離れて、助けてくださる神様の御腕を感じながら得られる幸せを自分のものにすることができますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23