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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その4 --> 問題紙

神の言葉によって生きる

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 4章1節~25節
要 節:マタイの福音書、4章4節 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

今日の御言葉はイエスさまの試みられた悪魔、その試みを退けられたイエスさまが登場します。試みられたイエスさま、悪魔の試みを退けられたイエスさまからマタイは何を伝えていますか。今日の御言葉が伝えるマタイのメッセージを学ぶことができますよう祈ります。

I.悪魔の試み

1節には、「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」とあります。悪魔の試みはこの世に住むすべての人々が受ける神様のテストです。イエスさまも、私たちと同じく、この世に住み、この世において与えられた仕事を全うしていくために、神様から試みを受けられたのです。「悪魔の試み」です。

マタイはこの1節から、貴重なメッセージを残しています。それは、私たちがこの世の中を生きているうえで、イエスさまも例外ではなく、お受けになられた悪魔の試みがあることです。悪魔の試み、これはどんな言葉で表現されているのでしょうか。運命のいたずらという言葉があります。人々はそれぞれ、この世の中を生きている上で受ける厳しい悪魔の試みがある、ということです。その時に、人々はどのようにその厳しい悪魔の心に二対応し、乗り越えていくのか、注目されます。その人の持ち味が発揮されるといわれます。持ち味とはその人が持っている力のことを意味します。力のある人は悪魔の試みを乗り越えていきますが、力のない人は悪魔の試みにつまずいてしまいます。運命のいたずらに倒れてしまいます。人生がどん底に落とされたりします。試みの結末は、悪魔の勝利か、持ち味の発揮かに分かれます。

鳩山首相が支持率と自分を支えていた人々によって辞任に追い込まれました。一つの運命のいたずら、悪魔の試みが鳩山首相を襲いかかったのでした。マスコミの批判はもちろん、圧迫していた政権の重要ポストから批判が浴びせられ、小沢幹事長から厳しい打診が突き付けられたとき、彼は「自分が辞任することをセットに、小沢幹事長も幹事長席を譲るべきだ」と提案しました。人々はこのことを指して、さきがけ時代から力を発揮していた鳩山さんの持ち味が、一番光った、お辞めの仕方だったと伝えています。鳩山さんは匿名によるアドバイスを受けていたのでした。匿名の人物のアドバイスで、運命のいたずらがあったとき、彼の持ち味を発揮したのです。運命のいたずらの時に、私たちはその人の持ち味を見ますが、その裏方には言葉が存在するのです。パンだけではないのです。

サッカー・アルゼンチン代表のメッシはこの頃「メッシドナ」と言われます。メッシ・マラドナの造語です。彼を紹介するNHK番組の中でも、彼に突き付けられた運命のいたずらを紹介しています。マラドナの2世といわれるメッシは、アルゼンチンの代表入りをしてからはあまり力を発揮できずにいたのです。アルゼンチンの新聞各社からは、彼を批判する記事が数多く掲載されました。その中でも一番厳しい表現は「のろわれるべき存在・メッシ」でした。あの人は、バルセロナでは世界最優秀選手だが、アルゼンチンのためには何一つできない、いや、しない、と批判されていたようでした。マラドナのようにはなれない、これが彼の心に聞こえてくる言葉でした。マラドナ2世なんて、できるわけがない、と彼は思っていたのでした。アルゼンチン代表として出場するすべてのゲームでメッシは常に、決定力不足が指摘されました。その運命のいたずら、どん底から彼が立ちあがったのは、バルセロナまで彼を訪れて、長い時間、アドバイスをしてくれた次のようなマラドナの言葉だったと、番組は伝えました。「あなたはあなたの色がある。それで十分。マラドナになろうとするより、徹底してメッシになれ。」メッシはその後、運命のいたずらから立ち上がることができたのだと、言われています。最優秀選手賞に選ばれたのも、その後のことでした。マラドナの言葉がメッシの持ち味を発揮させたのでした。

それでは、イエスさまは運命のいたずら、悪魔の試みをどのように乗り越えられたのでしょうか。イエスさまの試みはどんなものでしたか。2節をご覧ください。「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」イエスさまは3章の17節で、天からの声に気付いておられました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」神様の子供としての確信、神様の喜びの存在としての自分を発見されました。イエスさまがその確信を確かなものにしようとされたとき、御霊によって悪魔の試みに合わされました。四十日、四十夜を断食され、空腹を覚えられたとき、試みる者が近づいて来て言いました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」運命のいたずらが空腹の中に訪れました。どうしてもこの空腹を満たさない限り、このままでは死んでしまうかもしれないと思うようになりました。神の子どもとしての確信、神が喜ぶ存在としての確信と方向性を得るために、断食を始めましたが、このままでは命が危ないと感じた時に、悪魔は「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言われたのでした。見える石がパンに見えましたし、神の子どもとしての確信のもとで、石でパンを作り、この空腹を満たしたい気持ちもあったことでしょう。しかし、その時に、イエスさまは一つの神様の御言葉を思い出したのでした。

4節をご覧ください。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」言葉が思い浮かびました。もし豚や牛なら、もしおなかだけ満たされればよい動物なら、腹を満たすことが優先されるべきです。それで十分です。動物のような本性をもっているわたしたち人間は、空腹を覚えるときに体が自然に食べ物を求めています。満たしてあげなければいけないからです。そうしないと命が危うくなるからです。生きていけず死んでしまうからです。しかし、人は動物と異なっていることがあります。それは、パンだけで生きる存在ではない、ということです。パンだけでは満足できない、パンだけでは満たされない部分がある存在です。その部分を満たさない限り、おなかを満腹しても、人間は死んだものと同様な人となります。人間は満たすべきおなかが二つあるのです。一つはパンで満たすところであり、もう一つは神様の口から出る一つ一つの言葉により満たすところです。人は神の口から出る一つ一つの言葉によって満たすことができる、たましいの存在なのです。

人々は神の口から出る言葉で満たされる部分を、先輩の言葉や偉人の言葉、先生の言葉や小説の美しい言葉で満たしたりします。しかし、先輩の言葉にも、偉人の言葉にも、先生の言葉にも勝るものがあります。神の口から出る一つ一つの言葉です。神の口から出る一つ一つの言葉は恐ろしいほどの力があります。創造の力があります。天と地を創造されたことばは、神の口から出る一つ一つの言葉よったものです。

大学3年生の時、私はもう私の人生についてあきらめていました。生きることについて焦りを感じながらも、適当な時に自殺してしまうことを予想していました。私の人生は死んだものと同様でした。先週、久しぶりに、私の聖書先生とメール交換をするチャンスがありました。私の原点でもある、あの牧師先生とメール交換をしながら、神様が私の人生をつくりかえた言葉があることを改めて悟ることができました。創世記1章31節、創世記12章1-2節、ローマ人への手紙3章10節、マルコの福音書11章22節、神の口から出る一つ一つの言葉により、私は生きてきたことを改めて悟るようになりました。先輩の言葉、先生の言葉、親の言葉、親戚の言葉も、私を励まし、生きる力を与えたりしましたが、これらは私を愛する親の言葉でさえ、失念させるものが多く、ましてや、今は身近に感じる先輩の声や友人の声も、私たちを悲しませるときがあります。しかし、神の口から出る一つ一つの言葉は、私たちを悲しませることがありません。わたしたちを生き生きとさせてくれます。先輩の声、先生の声、友人の声、親の声も、大事ですが、もっとも大事にされるべきものは、神の口から出る一つ一つの言葉です。信者の持ち味は、神の口から出る一つ一つの言葉によって作り上げられる人生の形です。

わたしたち信者たちはそのために、一年の要節をつかみ、生活の基準となる言葉をひとつひとつ心の板に書き記しています。わたしも今年は、ヨハネの福音書17章4節、あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました、という言葉を生活の模範とつかみ取っています。このことがを思い出すたびごと、私は瞬間瞬間、やっていくべき仕事を見えますし、こなせる自分を見出すのです。神様はこの言葉を真実につかみ取りながら生きるときに喜びも、満腹もさせてくださるのです。パンで満たされない喜びと満腹感を、神の口から出る一つ一つの言葉によって満たしてくださるのです。私に一年の方向となる言葉を与えてくださいました神様を感謝します。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』

すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」神様の言葉を重んじる、イエスさまを言葉で攻撃してきました。しかし、イエスさまは応えました。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」言葉をつかむだけでく、言葉の優先順位をしっかりとわきまえておられたのです。イエスさまは悪魔の攻撃を見事に対しされたのです。

悪魔はしつこいです。悪魔はあきらめることがありません。8節を見ると、今度は悪魔が、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」これは世の栄華を持って誘惑されるものでした。世の栄華は力があります。人々の夢は世の栄華にあります。この世において栄光を浴びること、これが人々の夢であり、つかみ取りたいものです。イエスさまは目の前に、世の栄華が準備されていたのでした。悪魔にひれ伏して、拝むことだけすれば、この世の栄華は手にすることができました。拝む対象を、神様ではなく、世の栄華にするよう求めました。イエスさまはこの誘惑にも対処されました。10節、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」、すると悪魔はイエスを離れて行きました。悪魔はイエスを誘惑することができませんでした。悪魔はイエスを運命のいたずらで苦しめることができませんでした。マタイはこの記録ののちに、次のように記録して、結論付けています。11節後半部の御言葉をご覧ください。「見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」見よ!とは驚く表現です。イエスさまが悪魔に勝利されたことを驚いているのです。イエスさまが悪魔の誘惑を乗り越えたことを驚いています。それだけでなく、イエスさまには御使いたちが近づいてこられたこと、御使いたちの使えを受けられたことを驚きの声で伝えています。

ヨハネの福音書14章6節は次のように言っています。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」イエスさまを通して、私たちは父の御下にくることができます。イエスさまを通して私たちは悪魔の誘惑を勝ち得ることができるからです。試みられたが、すべての試みに勝利を治められたイエスさまの中で、私たちも勝利を手にすることができます。毎日訪れるサタンの誘惑、悪魔の誘惑に勝てる知恵は、イエス・キリストにあります。その意味で、私たちの悪魔との戦いは、勝利が保障された戦いなのです。悪魔は毎日のように私たちを誘惑し、運命のいたずらを働かせますが、イエス・キリストが心にあり、イエス・キリストの御名によって祈り、頼る人には勝利が宣言されているのです。

パウロはローマ人への手紙8章38節39節で、次のように勝利の確信を歌っています。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」イエス・キリストの中にある被造物は完全な勝利を保障されているのです。イエス・キリストの中にあるのなら、私たちはその結末が保障された人生を営むことが決まっているのです。イエス・キリストの中にいるとき、私たちを取り巻くどんな枠組みも、私たちを縛ることができないのです。私たちの運命を左右することができないのです。イエス・キリストは私たちの人生の目標であり、保証書です。このイエス・キリストの御名を与えてくださいました神様を、感謝いたします。

II.御業の始め

12節をご覧ください。ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれました。イエスさまの悲しみが、イエスさまをナザレからカペナウムに移り住むようにしました。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町で、イエスさまは新しい住まいを持たれました。これはヨハネの逮捕がきっかけでしたが、マタイはこれが、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった、と伝えています。マタイはすべてのことに働く神様の存在をメッセージとして残しています。

カレブ宣教師家庭が東京に移り住むことは神様の働きがあったからです。私たちはこのような神様の動きに神様の繊細な声を聞くべきです。17節を見ると、イエスさまはこの時から、宣教を開始されたと記録しています。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という、ヨハネのメッセージを伝え始めたと伝えています。イエスさまはガリラヤのナザレからカペナウムに移り住むようになってから、宣教の開始を告げる神様の声を感じ取っておられたのです。ヨハネのような活動をスタートするようにと、伝える神様の声を耳にしていたのです。それだけでなく、シモンとその兄弟アンデレを、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と誘ったのです。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけられたのです。イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え始められたのです。

マタイはまた、イエスさまが福音をつたえるだけでなく、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された、と記録しています。人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た、と記録しています。イエスさまは痛みのある人たちとともにする生活を始められたのです。福音はもちろん、彼らの痛みに具体的に関与されたのです。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23