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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その2 --> 問題紙

ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様

Messenger:MSN.Caleb

御言葉:マタイの福音書 2章1節~23節
要 節:マタイの福音書、2章2節 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

個人にとっても国にとっても誰の支配を受けるかによって、その人生、またはその国の存続に大きな影響があります。酔っ払いで毎日のように暴力を振舞う父のもとで育った人の心には大きな傷が残されます。国も同じです。戦争が好きな独裁者が治める国の国民は不幸です。イスラエルはローマの植民地となり、狂暴なヘロデ王の支配下で苦しめられ、ダビデのような理想的な指導者を待ちに待っていました。今から2010年前、イエスキリストが彼らの王としてお生まれになりました。イエス様は愛の主として、失われた羊を救い出すための牧者としてお生まれになりました。しかし、イエス様を歓迎したのはユダヤ人ではなく東方の博士たちでした。東方の博士達はお生まれになったイエス様を王として受け入れ拝み、この上もない喜びに満たされました。今日の御言葉を通して、王としてお生まれになったイエス様を私たちの主として受け入れ、東方の博士達のような喜びと恵みに溢れる人生を送ることができますように祈ります。

I. ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様 (1-12)

イエス様はユダヤのベツレヘムという所でお生まれになりました。イエス様の誕生は人類の歴史の中で最も重要な出来ことです。しかし、人々は自分のことで忙しくイエス様の誕生には無関心でした。その中で真理を追求して、イエス様の誕生をお祝いするためにやってきた人たちがいました。1,2節をご覧ください。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやってきて、こう言った。ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」ユダヤ人の王とはユダヤ人だけを治める王という意味ではありません。ユダヤ人を通してお生まれになる全人類の王を指します。神様は旧約聖書を通して繰り返してユダヤから人類の王を送ってくださる約束をされました。その王を通してご自分の民たちを神の国へ導き、愛と真理によって治めてくださるためでした。しかし、博士たちはユダヤ人ではなく東のほう、すなわちペルシア地方からきた人たちでした。彼らは星を研究していた、社会的な地位の高い天文学者でした。当時、特別な星の出現は、世の中で大きな影響力を及ぼす人物の誕生を意味するもので知られていました。また、ペルシア地域では、ユダヤで真の王が誕生する噂が広がっていました。博士たちはその王に直接お会いし、拝みたいと思っていました。拝むとは英語で「Worship」です。つまり、礼拝を意味しています。彼らは自腹で遠い旅をしてユダヤの首都エルサレムにまでやってきました。新しく生まれた王はエルサレムの宮殿にいると思っていました。ところが、東方の博士たちの訪問と王の誕生の噂のために、ユダヤにいたヘロデ王とエルサレムの人々は騒いでいました。

3節をご覧ください。「それを聞いてヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。」ヘロデはどうして恐れ惑ったのでしょうか。それは自分がユダヤの王であったからです。自分がまだ王として健在しているのに、ユダヤ人の王がお生まれになったという話は彼の頭を狂わせました。植民地のイスラエルを非ユダヤ人として支配し、王位を維持するためには圧制と暴力しかありませんでした。彼は自分の王位を守るために、自分の妻や息子さえも殺すほどでした。ヘロデの息子になるより、その家の豚になるほうが安全だという言葉があるほどでした。民たちは新しい王の誕生の話しを聞いたヘロデが、またどんな残虐行為を行うかと騒いでいました。

4,5節をご覧ください。「そこで、王は民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者達の中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」この御言葉を通して、私たちはイエス様がどんな方であるかわかります。イエス様は私たちを治める王であり、牧者です。1つの国をだれが治めるかによって運命が変わります。中南米地域は地下資源が豊富で、気象条件もよく、おいしい果物や観光資源などが多くて、いくらでも豊かに生活できる環境をもっています。しかし、大部分の中南米の国々は独裁者が政権を握り不正を行っています。キューバのカストロもその中の一人でした。そのために、国は栄えることなく、国民は不安と貧しさで苦しんでいます。近くの北朝鮮も金正日を中心とした一部の指導者たちの権力欲のために国は廃墟となり、国民は飢え死にしています。そしてますます国際社会から孤立しています。

一人の個人も同じです。何が彼を治めるか、何が彼の王になるかによって、その人生は大きく変わります。この福音書を書いたマタイは当時税金を不正に受け取る取税人でした。彼にとっては、金が王であり、彼の人生の目的でした。彼は金になることであればなんでもする気になっていました。実際に、金を儲けるために友人も家族も民族も捨てました。しかし、ある程度安定していたときには、彼の周りに人がいなくなりました。金は手にしたもののもっと大切なことを失っていました。金で家は買えるとしても幸せは買えないことを悟りました。彼は絶望に陥りました。そのような彼にイエス様が声を掛けてくださいました。「私についてきなさい」彼は金からイエス様に人生の目的を変えました。彼は自分の全てを捨て置いてイエス様についていくことを決断しました。すると、彼の心に喜びと平安が満たされました。孤独だった彼が全てのクリスチャンから尊敬される聖マタイになりました。このように私たちがイエス様に治められると私たちの価値観が変わり、家庭が変わり、人生が変わります。

ヘロデ王は、自分の王位を守るために、自分の命のために、家族を含めて多くの人々の命を奪いました。しかし、イエス様は多くの人々を救うために、ご自分の命を捨てました。ヨハネ10:11は次のように語っています。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」世の中でだれがこのように私を愛してくれるのでしょうか。家族の愛も限界があります。しかし、イエス様の愛は限界も変わることもありません。イエス様に愛されている人は本当に幸せものです。

7,8節をご覧ください。「そこでヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。『行って、幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから』」ヘロデは、ユダヤ人の王が誕生する話を聞いて眠れませんでした。彼は博士たちを呼んで、星の出現時間を突き止めました。そして、自分も拝むから幼子のことがわかったら知らせてくれるように頼みました。もちろんこれは嘘です。星の出現時刻から幼子の誕生日を推定して見つけ出すためでした。博士たちはヘロデの言うことを聞いてベツレヘムに向かいました。そのとき、東方で見たあの星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまりました。彼らの道のりを導いたのはヘロデや学者たちのように見えます。しかし、彼らを東方からここまで導いたのは星でした。星は聖霊であり、御言葉です。その星を見た博士たちはこの上もなく喜びました。この喜びはユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様をついに見つけた喜びでした。そして家に入り、幼子を見、ひれ伏して拝みました。そして、宝の箱を開けて、黄金、乳香、もつ楽を贈り物としてささげました。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰っていきました。ヘロデがいくら企んでも、神様は親しくイエス様と博士たちを守ってくださいました。

ここで、私たちは、王としてお生まれになったイエス様を迎える2種類の人間の行動を見ることができます。ひとつ目は、東方の博士たちのような人であり、もうひとつは、ヘロデのような部類の人間です。今日も多くの人々がイエス様を自分の王として受け入れようとはしません。また、受け入れた人でも自分の宝の箱を開けて贈り物をささげようとしません。なぜなら、自分の人生を保証し、助けてくれる他の王を求め頼ろうとしているからです。それが、良い職場であり、学歴であり、金や恋人であり、ゲームや体の快楽かもしれません。世の中のものが必要でないということではありません。ただ、世の中のすべてのものは私たちの人生の目的にはなりません。私たちの人生をささげて拝む対象になってはいけません。イエス様より価値を置いてはいけません。天と地を創造された方、私たちを死ぬほど愛しておられる方、イエス様だけが私たちを失望させません。イエス様だけが私たちの人生を正しい道に導き、命をくださいます。このイエス様を私の王として受け入れますように祈ります。この王に私の人生を委ね、宝の箱をささげ、拝むことができますように祈ります。

II. この方はナザレ人と呼ばれる (13-23)

ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様は決して王のような待遇を受けていませんでした。13節をご覧ください。「彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。』」ヨセフは幼子イエス様とマリヤを連れてエジプトに逃げなければなりませんでした。なぜなら博士たちが帰った後で、ヘロデがだまされたことを知って非常に怒ったからでした。彼は自分の王位に危機感を感じ、人をやってベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させました。そのため、悲しみ嘆き叫ぶ声が町中に満ちました。

19節をご覧ください。結局、このヘロデも死にました。政治家であり、ユダヤの歴史家であるヨセフスのよると、彼は汚れた病気にかかり、内臓が腐って痙攣がつづくひどい苦しみの中で亡くなったと記録されています。ヘロデは死にましたが、その後もイエス様は安心して故郷に戻ることができませんでした。ヘロデの息子であるアケラオが王位を受け継いだからでした。そこで、ガリラヤ郊外のナザレという田舎に行って住むことになりました。ガリラヤのナザレはどんなところでしたか?当時ガリラヤは首都エルサレムからも遠く離れて文化的にも恵まれていないところでした。方言がひどくて会堂で聖書を朗読することさえ禁止されていたそうです。このようにガリラヤのナザレは人々から無視されていました。イエス様はこのような場所で、大工さんの仕事をしながら育ちました。世の中では、皇太子は最高の環境で最高の教育を受けながら育ちます。しかし、最高の待遇を受けるべきイエス様は、平均以下の生活を送らなければなりませんでした。15, 17, 23節に出ている共通の言葉が何ですか。それは、「予言者を通して言われたことが成就するため」でした。イエス様の一つひとつのおかれた状況は、避けられない運命やヘロデのせいではなく、予言の御言葉の成就だったのです。

イエス様は結局、罪人扱いをされて十字架の上でなくなられます。人は認められないと悲しくなります。特に男の人は、認められないと生きる意味がなくなるほどです。逆に自分を認めてくれる人のためには命を懸けて忠誠します。しかし、イエス様は自分の民であるユダヤ人からも捨てられました。愛する弟子たちさえも自分の命のために逃げていました。私たちは人生の中で様々な苦しみに直面します。愛する人が病気にかかったり、亡くなったりします。入試や就職に失敗したりもします。家庭が崩壊したり、経済的に破綻したりします。このような苦しみに耐え切れず、自ら命を絶つ場合もすくなくありません。しかし、このような時に私たちはイエス様を見上げるべきです。イエス様は私の悲しみや苦しみをすべて知っておられ、慰めて下さるからです。イエス様はそのために、この世にこられ、苦しみを受けられたのです。

イエス様は良い牧者です。羊の群れは弱くてわがままです。しかし、良い牧者は自分の命をすてて羊を守ります。良い牧者の保護を受けている羊は幸せです。私たちは何を求めていますが。私たちを苦しめているのはなんですか。イエス様の中に希望があり、慰めがあり、喜びがあり、幸せな人生のための秘訣があります。イエス様は私たちの良い牧者です。そして私たちにイエス様の羊の群れを任せてくださいました。以前、私いたちは罪の中におり、自分のことで精一杯の人生を送っていました。自分と自分の家族以外のことには到底関心をもつことができませんでした。自分の幸せ、自分のより安楽な生活だけを求め、他人の悩み、苦しみには無関心でした。しかし、私たちはイエス様に大きな愛の借金をしているものです。イエス様は私たちにただでくださった命と福音を多くの羊の群れに分け合うことを願っておられます。私たちは神様からたくさんの良いものをプレゼントされました。家族も仕事も体の健康も何一つ神様の助けの恵みによらずに得られたものはありません。どんなときにでも、どういう状況の中でも、主に感謝し、心より拝む生活をするべきです。

私は今日の御言葉を通して、イエス様からいただいた数多くの恵みを振り返り感謝することができました。また、主の十字架の道を歩むことより、十字架なしの栄光だけを求める罪の本性を持っていることを悟りました。私は神様の言葉に飢えてさ迷っている羊たちのことを考えず、自分の生活、自分の将来、自分の現実ばかりをみて歩んでいました。ガリラヤの無力なイエス様ではなく、エルサレムで力を発揮する格好いいイエス様を求めていました。自分もイエス様の力を借りて、この世でもう少し安定した生活を送りたいと願っていました。私の心には自分自身が王になって、自己満足を追求していました。しかし、イエス様に治められない人生には力がありません。その人生に命の実が結ばれません。イエス様が歩まれた人生の道のりは、十字架の道であり、犠牲の道であり、仕えられる道ではなく仕える道でした。ご自分のすべてを捧げることによって多くの命を救われた道のりでした。神様はこのイエス様を大きく祝福しその栄光を現されました。私がこの時間、イエス様を私の真の王であり、主として受け入れます。全ての不安や心の重荷を主に委ねます。形だけの牧者ではなく、羊に仕える牧者になるために努めます。私は、どんな状況の中でも決して否定できない事実を知っています。それはイエス様が、死んだものと同様だった私の人生に生きる意味をくださったことです。運命と虚しさに苦しんでいた私の人生に真の喜びと幸せを下さったことです。私は8月からは14年間生活の基盤を置いた長崎を離れなければなりません。心に不安もあり、この中にどういう神様の願いがあるのかというはてなマークもあります。しかし、今日の御言葉を通して、一つひとつのできことには神様の導きがあり、どういう状況の中でも神様がしっかりと守ってくださることに対する確認を持つことができました。私が、信仰を持って聖霊の導きに従い、どこに行っても主とともに歩むことができますように祈ります。自分の人生を大きく変えてくださったイエス様にいつも感謝し、頂いた恵みと喜びを多くの人たちに分け合う生活を送ることができますように祈ります。私の王としてお生まれになった主を感謝賛美いたします。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23