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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その27 --> 問題紙

主の再臨を待つ者の生き方

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 25章1節~46節
要 節:マタイの福音書、25章40節 「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」

昨日、韓国の父からメールがきました。母方が最近、聖書を読むのに熱心で、「民数記」を読み始めているとのことでした。1月にお会いしていたときに、聖書を1回読み終わって、2回目に入ったとのお話でしたが、創世記、出エジプト記、レビ記が読み終わって、民数記を読み始めているとのことです。神様に感謝します。父の方で大変不思議がっています。以前は、本を読むことがあまりなかったとのことです。しかし、これは神様が私たちへのプレゼントであるとみています。私も、今年度は祈りと聖書を読むことで成長するよう、祈っています。それでは、聖書にはどんなことが書かれていますか。

一つは神様の存在について教えています。聖書は神様が生きておられることと、また、近づく者には必ず応えてくださる方であることを教えています。

二つ目は、人間は神様の魂を持っていて、喜び、満足そのものが神様との魂の関わりの中にあることを教えています。人間が最高の喜びを感ずる時とは、神様との魂の交通があるときです。神様が私とご一緒する時、私たち人間は最高の喜びにつ詰まります。

三つ目は、聖書はこの世の中で一番の価値を持っていることについて襲えています。聖書はその中でも一番のものを、信仰、希望、愛であると教えています。信仰があるとき、私たちの喜びと満足と平安は過ぎ去りません。新の喜びにつつまります。希望があるとき、私たちの人間は生きる力が生じますし、目が輝きます。人生が輝く条件はその人生に希望があるかどうかです。しかし、これらよりも最も立派なものは愛です。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

四つ目は、聖書が教える神の国です。聖書は信仰と希望と愛の最後の終着点が神の国であると教えています。私たちは旅人で、この世での50年、80年の生き方の中で生きていき、最終終着点にたどり着きます。それは死を意味しますが、その時に、ある人は天の御国に、ある人は厳しい審判の時期を迎えると教えています。私たちは誰でも、死を迎えるように、天の御国を迎えることも、厳しい審判を迎えることも決まっています。それが主の再臨の時です。

今日のタイトルは「主の再臨を待つ者の生き方」となっています。これは信者でも不信者でも避けられない生き方です。しかし、聖書はどんな生き方をとるべきかについて教えているのです。私たちは主の再臨をどんな姿勢で迎えるべきでしょうか。

1-4節までの間に、イエスさまは天の御国を待つ者を「花婿を待つ娘」にたとえています。花婿を待つ娘、どんなに幸せでしょうか。花婿を待つ娘の幸せは信者の幸せを指しますが、どんな人が賢い娘で、どんな人が愚かな娘ですか。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった娘で、賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた娘でした。天の御国はお約束の御言葉をもって待つ人々です。神様の御言葉ないとまてられない国です。しかし、中には油がある人と油がない人がいます。油がないとともしびは明るく燃えません。油があれば、花婿が来る時、明るく迎え入れることができます。ともしびはお約束の御言葉を指し、油は聖霊様を指します。聖書の御言葉とともに、私たちとご一緒される聖霊の臨在を望むべきです。聖霊の助けと聖霊の働く環境を作るべきです。その時、御言葉のともしびは燃え上がり、明るく、主を迎え、天の御国に入ることができます。

14-18節には天の御国について、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようであると説明しています。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけました。すると、五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけました。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけました。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠しました。

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をしました。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』主人は彼に言いました。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』同じく、二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』主人は彼に同じく『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』と彼を称賛しました。ところが、一タラント預かっていた者も来て、こう言いました。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』すると、主人は彼に答えて言いました。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』そして、言いました。「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

ここで、私たちは天の御国を待つ者の生き方について何を学びますか。人それぞれは神様からのタラントがあることです。ある人は10タラント、ある人は5タラント、ある人は1タラントです。主人はその人の応じて、タラントを預けています。主人はそれぞれがのびのびと、そのタラントを使って人生の利益を得ることを願っています。それぞれのタラントを使って人生を営み、頂いたタラントがもたらす利益を手にすることを願っています。10タラント持っている人も、5タラント持っている人も、主人は称賛しています。しかし、1タラント持っている人には「悪いなまけ者のしもべだ」と厳しく叱っています。彼は主人を判断し、働いてないからです。彼は働きたくないがために、主人が厳しいことを文句言ったのです。問題を人のせいにする人は、人生の実を結びません。神様は誰にも要求する方ではありません。のびのびと、前向きに、神様に感謝しながら、その人生の実を結ぶことを願っています。神様は私たちに立派なタラントをその人に応じて与えているからです。そのような人たちは、人生を整理するときに、10タラントも5タラントも、人生をのびのびと、実を結ぶために働いた人々を祝福されます。その人生は神の御国で称賛されるからです。

31節以降、イエスさまは天の御国を待つ者には羊と山羊が存在する、と言っています。山羊は天の御国に相応しくありません。天の御国に相応しい人は羊のようなものです。素直な心を持ち、純粋に生きる人であり、弱い人たちの見方になっている人々のことです。彼らには角がなく、力もないがために、よわよわしいのですが、天の御国に匹敵します。神様は彼らのために御国をご用意されます。しかし、山羊には永遠の刑罰が用意されています。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23