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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その25 --> 問題紙

内側をきよめなさい

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 23章1節~39節
要 節:マタイの福音書、23章26節 「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」

人には厳しい言葉で指示をしたり、守ることを指示したりしながらも、自分がやらなければいけないことはないがしろにする人がいます。このような人たちは自分のやっていることを人に見せたくて、事実よりも大きくして見せる努力をします。難しそうな本を肩につけて歩いたり、しっかりした服をもって自分をアピールしたりします。大体、このような人々の特徴は、人々が集まるところでは人々から目立つ所に座ることを好みますし、人々が多く見る広場などでは、偉い人と大きな声で、通る人々の視線を集めるように、笑いながら挨拶すること好みます。人から「先生、先生」と呼ばわりすることを好んで、「先生」と呼んでくれる人たちとと一緒に食事することを望みますが、自分の問題点を鋭く指摘したり、たまには「馬鹿だ」と平気に言ってくれる人とは距離を置く人たちです。

周りにそのような人いますか。誰でしょうか。どうも、このメッセージを書いている私も同じような気がします。律法学者、パリサイ人のような姿があります。学生たちに先生呼ばわりすることを好み、先生と呼んでない人々を叱ったことがあります。私の問題を素直に指摘してくれる妻の言葉に腹を立てたことが多くあります。

信者はどんな人にならなければいけませんか。

8節、「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」信者は見える姿で判断されず、神を信じる兄弟なのです。息子のダビデ君も、アブラハム君も、考えてみれば神様を信じる、子ども以前に、私の兄弟であると教えています。また、聖書は言っています。9節、「あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。」考えてみればダビデ君はダビデ兄弟ですし、アブラハム君はアブラハム兄弟です。私たちはみな、父なる神様の子供だからです。イエス・キリストを師としながら、学んで成長すべき存在です。それでは、信者間は兄弟ですので、偉い人や偉くない人の区別がないのでしょうか。いいえ、この兄弟の中でも偉い人と、偉くない人の区別があります。どんな人々が、信者の中では偉い人でしょうか、神様の称賛を浴びる人になりますか。

11節、「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」信者の中で一番偉い人の中に数えられる者は、仕える人です。仕えるとは支えることを指します。奉仕することを指します。仕えるひとがなぜ、信者の中でも一番に数えられる偉い人となりますか。仕える人は平和を作るからです。仕える人は人を傷つけないからです。仕える人は圧力をかけないからです。仕える人がいる家庭は生かされるからです。仕える人がいるグループは仕事が進むからです。仕える人がいるところは神の国が訪れますし、神の国の地上版が実現するからです。その家庭には笑顔が絶えないからです。一番偉い人は仕える人です。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。仕える人はついに、尊敬される座に座ります。

しかし、13節から忌まわしい者たちの姿を指摘しています。まずは、人々から天の御国をさえぎっている人たちです。神様の存在を現実の中で体験できるように配慮しない人たちです。困っているやもめの家、なんの力も持ってないやもめの家を狙って自分の利益を得ようとする人たち、奥まった部屋で祈るより、見えのために長い祈りをする人たちです。海と陸とを飛び回り、なかなか見えない中で改宗者ができると、神様のことを教えるより、自分の思想や考え方を教えては、自分より倍も悪いゲヘナ、つまり天の御国を反対する子にする人たちです。

彼らの中には、こんな言葉があります。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』彼らは神殿よりも、神殿を飾っている黄金を大切にしていますし、祭壇よりも祭壇に供えられた供え物を大切にしていることを意味します。しかし、黄金と、黄金を聖いものにする神殿がもっとも大切で、供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇が最も大切なのです。彼らは神様によって忌まわしい立場にさらされてしまいます。悲しみに泣く時がきます。

なんで、彼らはこのような人々になってしまったのでしょうか。何で、彼らは神様の忌まわしい者の立場になったのでしょうか。彼らは神様の言葉を守るために、十分の一を収めてはあるが、日曜日の礼拝は守ったが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているからです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。イエスさまは礼拝を守ることも、十分の一をささげることも大切だと教えますが、同時に大切なものを教えています。それは「正義、あわれみ、誠実」です。正義とは神様の正しさを認め、神様を愛することですし、あわれみとは隣人を愛することです。誠実とは任せられた仕事に忠実することを指します。心から神様を愛し、隣人を愛することは礼拝を守り、十分の一をささげることと同じく大切です。また、自分に任せられた仕事を全うし、忠実にこなすことも、礼拝を守ることと同じく大切なものです。礼拝はするものの、任せられた仕事を適当にすることは信者として許されない行為なのです。

結論的に、イエスさまは信者の正しい姿勢について言われます。25節、26節をご覧ください。「あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」外側をきれいにすること以上に、内側を清めること、これが信者として正しい姿です。内側を清めるとは具体的にはどんなことを指しますか。

一つは自分の過ちを反省することです。そして、立て直すことです。過ちを悔い改めて、二度と同じことを繰り返さないために努力することです。自分が正しい、私は間違ってない、という考え方を捨てて、間違っている姿を素直に認めて、認められないとしても、どこかにそのような姿があることを神様の前で承認することです。それが内側を清める第一の一歩です。

もうひとつは神様の言葉をつかみ、その言葉に沿って生きることを心懸けることです。そのときに、神様の言葉は私たちの人生を清め、訓練し、整理させてくださいます。汚いところを掘り出し、きれいに仕上げてくださいます。内側がきれいになると、心が強くなります。心が強くなると、自信が持てますし、自信が持てて生活すると、その人生が美しく着飾られます。神様の一つの言葉はその人を清め、人生を清め、救いに至らせます。

29節から、39節までは神様がどれだけ、イスラエルの人々、ユダヤの人々、アブラハムの子孫、イサク、ヤコブ、ヨセフの子孫、モーセの子孫たちを愛しているのかを説明しています。その愛は、まるで「めんどりがひなを翼の下に集めるよう」なものでした。神様はアブラハムの子孫たちを幾たび集めようとしたことか数えきれませんでした。それなのに、彼らはそれを好みませんでした。イエスさまはその彼らの将来について、厳しく予言をしています。「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

私たち信者は、霊的に見ればアブラハムの子孫で、モーセの教えを受け継いだイスラエル、ユダヤ人です。神様はこの私たちのことを「めんどりがひなを翼の下に集めるよう」に、愛しています。その愛を受け入れ、祝福を手にする者、天の御国を手にするものとなりますよう祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23