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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その24 --> 問題紙

あなたの神である主を愛せよ

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御言葉:マタイの福音書 22章1節~46節
要 節:マタイの福音書、22章37節 「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」

今日の御言葉にはで、三つのお話が展開されています。一つは1-14節までのお話で、王子のために結婚の披露宴を設けた王の話です。もうひとつは15-22節までの御言葉で、パリサイ人たちとヘロデ党のものたちがことばのわなにかけようかと相談した、カイザルに納める税金への質問です。最後は23節から最後の46節までのお話で、復活はないと言っているサドカイ人たちと律法の専門家の質問に、正しい聖書の見方、教え方を教えた内容です。

まず一番目のお話は王子のための結婚の披露宴を設けた王のお話です。このたとえは、2節を見ると「天の御国」を説明するためのたとえ話です。ここで、王は天の御国の主人を指しますし、王子の披露宴とは天の御国の喜びとうれしさと華やかさを示すものです。そして、「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」と声を張り上げて招待するのは、主のしもべたち、宣教師たち、預言者たちの声です。彼らの最初の招待客は王と血筋、親せき、貴族たちです。彼らは、もとから神様を知っている信者であったり、預言者家系、パリサイ人家系、アブラハムの子孫のユダヤ人の家系を指します。今でいえば、カトリック家系であったり、キリスト教家系の子孫たち、信者の二世たちを意味します。彼らは特権があり、王の設けた宴会に招待される対象の第一番目に当たります。しかし、彼らは王の国や王子の宴会に関心がありませんでした。彼らの関心は畑にありましたし、商売にありました。いやむしろ、王子への嫉妬心のため、王子の宴会への招待をする人々を辱め、殺す人までいました。

神様が用意された宴会に相応しい人は誰でしょうか。それはもちろん、王の血筋で、親戚で、預言者の子孫であり、アブラハムの子孫、ユダヤ人でした。しかし、8-9節をご覧ください。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』招待しておいた人々が宴会を避けるのであれば、どんな人々が王の血筋、親戚、アブラハムの子孫になりますか。神様は転がる石からも、アブラハムの子孫をおつくりになれる方です。王は事前に招いた招待者を大事にしますが、大通りに行って出会える、みなが宴会に相応しい人であると宣言しています。神の御国は声がかかった人々が参加できる王子の宴会場なのです。雄牛も太った家畜もほふって、何もかもが用意されたところです。王の招待に応じる人は誰でも、天の御国の宴会に参加することが許されています。

しかし、11-14節を見ると、王の設けた宴会に参加するためには一つの条件が必要でした。それは礼服です。この礼服とは何を意味しますか。自分が罪びとであることを認める心です。自分の罪を素直に告白する心です。ただ、信仰によりのみ、救いの道が開かれていることを悟る心です。イエス・キリストの救いの道を受け入れる心です。マタイの福音書7章21節は、次のように言っています。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」天の父の御心にかなうもの、この人の姿が礼服を身にまとった人です。ローマ人への手紙は次のように言います。13章14節、「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」肉の良くのために心を用いる人には相応しいところではありません。「主よ。主よ。」と口先だけの信者も、相応しくありません。天の御国は誰にでも開かれた国ですが、主イエス・キリストを礼服として身にまとう人が参加できるのです。

二番目のお話です。パリサイ人たちがヘロデ党の人たちを手を組んで、イエスをことばのわなにかけようかとして相談しました。16節をご覧ください。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」これがなぜ、イエスを引っ掛ける罠になりますか。実は、税金を納めることが律法にかなっていると答えると、パリサイ人たちの反論が予想されますし、かなってないとしたら、ヘロデ党の反論が予想されたものでした。ユダヤ人たちにとってローマの植民地状態の、税金問題はシビアなものでした。軍隊の資金を得ようと、ローマ帝国は人頭税を定め、ひとり頭いくらの、税金を強要していました。ローマ市民は喜んで出していたことでしょうが、ユダヤ人や植民地の国民は喜びがありませんでした。特に、ユダヤ人たちは神に所得の十分の一を神の宮に出していたので、ローマ政府への人頭税は強く拒否していました。イエス様は彼らの仕掛けた罠にしっかりはまっていました。

イエス様の答えがなんでしょうか。18節をご覧ください。イエスさまは彼らが偽善者であるといわれました。つまり、外側は立派だが、心はそれに相応しくない者たちであるといわれました。それはイエス様を罠に落とそうとする、彼らの策略があったからでした。イエスさまはしかし、彼らの質問に真剣に答えました。19節をご覧ください。「納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来ました。そこでイエスさまは彼らに言われました。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と答えました。そこで、イエスは言われました。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。」彼らはカイザルのものを、カイザルに返そうとしませんでした。カイザルのものも、自分たちのものと勝手に判断していました。どこにカイザルのものがあるか、と反論していました。彼らは植民地ではあったものの、カイザルにより得られたものを、好き勝手に判断しました。自分たちに都合よく解釈しました。イエスさまは言われました。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」カイザルによりもたらされたものはカイザルに返すべきです。カイザルによりもたらされた有益と利益はカイザルに返すべきです。特に、パリサイ人たちのようにカイザルを認めない人たちは特に、カイザルを認め、カイザルにより得られたことへの恩返しが必要です。

しかし、イエスさまが彼らにさらに大事なものを求めています。それは、「神のものは神に返しなさい。」という言葉です。神のものとは何でしょうか。ヘロデ党のものたちは神様を認めませんでした。神様の存在すら否定していました。神はないと考えていました。ヘロデにより発達はもたらされ、ユダヤ人たちは裕福になったのだと考えました。彼らはこの世のすべての主権者であり、調停者となられる神様への感謝と恩返しが必要でした。イエスさまは彼らに向かって言われました。「神のものは神に返しなさい。」

最後に、イエスさまは復活はないと言っているサドカイ人たちの質問を受けました。そして、あり得ない例をもって、イエス様を問いただしました。「私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」当時のユダヤ人の習わしは、兄弟のうち、一番上の兄弟が結婚して子を設けなかった場合、弟が兄の妻を自分の妻とし、子を設けなければいけませんでした。7名の兄弟の妻となった人は悲しみの女でした。しかし、彼らはこの女が天の御国でも悲しみの女ではないか、と復活の矛盾を問いただしました。彼らにイエスさまは言われました。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」彼らはまず、聖書が分かりませんでした。また、彼らは神の力が理解できませんでした。彼らの範疇で聖書も解釈し、神の力も勝手に判断しました。しかし、私たちは聖書の教えを教えとして受け止める必要があります。それは「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」という言葉に圧縮されています。

神様は死んだ者について語っていません。神様は生きている者の神様だからです。生きている人々に語りかける方、これが聖書の神様です。また、別の言い方からしてみれば、神様は死んだ者、つまり神を認めない者の神様にはなれません。神を認め、神様のことを受け入れる人のための神様です。その人々にあらわれ、その人々の前で奇跡を起こされます。神様は死んだ者の紙ではありません。サドカイ人たちのように、神様のことを受け入れたくないがために、無理やり例を作り上げた人々からはこの神様を理解することができないのです。神様は生きている者の神様だからです。

36節を見ると、また別のサドカイ人たちが律法の専門家たちと一緒になり、質問しました。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」これはイエス様に聞きたかった彼らの大事な質問でした。また、私たちも聞いておきたい大事な質問です。私たちは聖書勉強をし、毎週のように礼拝をして、神様の御言葉を聞いていますが、その中で一番大切な教えは何か、と知りたいところです。イエスさまは何と答えましたか。

37節からの御言葉をご覧ください。イエスは彼に応えて言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23