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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その23 --> 問題紙

信じて祈り求めるものなら

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御言葉:マタイの福音書 21章1節~46節
要 節:マタイの福音書、21章22節 「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

今日の御言葉で、特に1節から16節の間には、イエスさまがロバの子に乗られてエルサレム城にお入りになります。そして、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されました。そしてい言われました。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」イエスさまはエルサレム城が本来の姿を維持し、祈りの家として、神様を賛美するところとして、神様の栄光を現すところとして存在することを願っておられました。神様がエルサレムの城を建てられたのは、人間のために、人々のために、イスラエルのために祈る、『祈りの家』でした。祈りの家とは、神様が存在し、神様に求めるものには、報いが与えられることを証明するものでした。イエスさまはエルサレム城が神様を賛美し、神様の存在を証明し、神様の栄光を現すところとして、その存在意義があるといわれました。エルサレム城が生活のための道具、この世の世界に似たところに転落してはいけないことと、警告されました。

17節をご覧ください。イエスは彼らをあとに残し、エルサレムの都を出てベタニヤに行かれました。そして、そこでお泊まりになりました。翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられました。道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれましたが、葉のほかは何もないのに気づかれました。すると、イエスはその木に向かって言われました。「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」すると、どうなりなしたか。19節の後半部を見ると、たちばちイチジクの木は枯れました。翌日には根から枯れてしまったイチジクの木に、弟子たちは驚きました。弟子たちは、これを見て、驚いて言いました。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」

弟子たちの驚きは、イエス様のお話があってから間もなく、イチジクの木が枯れたことにありました。イエス様の口から出た言葉はすぐに効果があり、すぐにその通りになる力がありました。弟子たちはその力が一体、どこから出たのか、不思議でした。

サラ宣教師のお母さんは純粋で、しかも、神にまっすぐにつながった方です。私はこの方を見るたびごと信仰の単純さと美しさに感動があります。サラ宣教師もその年になれば、顔も、お姿も、信仰も、信仰の力も同様に美しく輝くことを信じています。出張の時に、たまたま、住んでおられる街を訪れることがありましたので、余った時間に尋ねてみました。電話ではなかなかお会いできず、家に行こうとしたときにはおられないと思っていましたが、戸を叩いてみると、何と、お部屋におられました。神様に感謝の気持ちでいっぱいでした。入って御挨拶をし、久しぶりに、誰もいない中で、二人だけの話をすることができました。元気なお姿に感謝し、美しいお姿に喜びがありました。突然の訪れに、お茶を出してくれました。一番良いとされる、生姜茶を、心を入れて、出してくださいました。私は朝から風邪気味で、ポケットに風邪薬を入れていて、飲み水がなく、まだ飲んでない状況でしたので、まずは飲み水を求めようとしましたが、生姜茶が出たので、美味しく頂きました。私は一口二口、生姜茶を飲むたびごと、頭の痛みがなくなり、体から風邪の勢力が消えていく不思議な体験をしました。私はそれ以降も、二日間の出張が続きましたが、万全な体調でした。

今も季節変わり目に苦しんでいるアレルギー性の鼻炎が私の体に付きまとっていますが、小さいごろから、特に、20代に入ってからその症状はひどくなりました。私が大学四年生のごろです。朝の祈りに来ていた私が教会で、朝の祈りを熱心にしていました。今は覚えてないのですが、神様に向かって熱く求めるものがありました。体が熱くなって、鼻の鼻炎がすっきりと治る体験をしました。私にとって不思議でしたが、信仰の弱く、まだ幼かった私には、今もなお新鮮に思いだされる神様の力の不思議でした。何で、こんなことがあるのだろうか。何で理解できない、このようなことが私の体に起こるのだろうか。温かい生姜茶を飲むたびごと、体から消えてゆく風邪気味がなんとも不思議なものでした。

イエスさまがイチジクに向かってお話されたものが、すぐに、もう間もなく、そのお言葉通りになることを体験した時、何とも不思議な気持ちになりました。弟子たちは言い出しました。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」神様の不思議、人間の感覚からしては理解できないことへの驚きをイエス様にお聞きしていました。イエスさまはそのように、その不思議について説明されたのでしょうか。

21節をご覧ください。イエスは答えて言われました。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」この言葉から、私たちは何を学びますか。

第一に、信仰を持つのであれば、不思議を体験します。

信仰の世界は不思議な世界です。信仰の世界は浅瀬の世界ではなく、深い海の世界です。信仰をもつとは神様がおられることを信頼することであり、その神様は近づく者に、必ず報いをご用意されたことを信頼する心です。神様がおられること、この神様は近づく者に不思議をご用意しておられる、という意味です。ですから、信仰の世界とは不思議を毎日のように体験することの、世界です。

第二に、信仰の不思議は、疑いとの戦いで勝利した者に与えられます。

イエスさまは言われます。「もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ・・・」信仰をもつとは、神様がおられること、神様は近づく者に報いてくださる方であることを認める心ですが、この心は疑いによりいつも危うい状態になりかねません。「本当なのか、神様はおられるのか、神様は本当に、祈るものを答えてくださるのか」という疑いが付きまといます。イエスさまは言われます。「もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」疑いとの戦いで、成功すれば、疑いを克服すれば、神様により実現される、山が動いて海に入る、考えられない不思議を体験すると、言われます。疑いとは、「神がおられることと、神に近づく者には報いてくださる方であることを信じる信仰」を崩そうとする勢力です。神様の存在を否定する勢力です。神様は近づく者に、語らず応える方であることを否定する勢力です。しかしながら、これらの否定する心を払拭し、信仰を持ち続ける人には、神様が不思議を体験させてくださるのです。

「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」

最後に、イエスは言われます。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

これを見ると、不思議は私たちの力によるものではありません。神様がなさる力です。神様によって与えられる力です。ですから不思議なのです。考えられない者が現実化されるのです。私たちとしては到底理解できないことが、起こるのです。イエスさまは、信仰を持ち、祈るものなら、何でも与えられると約束されます。神様への信頼を疑うことがなければ、山も動く不思議をこの目で確認できると、言われます。イエスさまは、何でも与えられる、と言われます。何でもとは、制限がないことを指します。

イエスさまは私たちに、信仰の世界に招待しています。ペテロにその世界を紹介したように、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われます。神様の信仰の世界は頭のいい人が考えて、作り上げる世界、以上の不思議が存在する世界です。その世界は、興奮と喜びと、神様の創造の力がいじり混ざった世界です。その世界は、深く、深淵の海の底と同様です。私たちに、この世界を紹介し、その世界へ招待してくださいました神様を、感謝賛美いたします。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23