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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その22 --> 問題紙

偉くなりたいと思う者は

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御言葉:マタイの福音書 20章1節~34節
要 節:マタイの福音書、20章26-27節 「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」

人間は誰でも、立派になりたがる願望があります。偉くなり、自分の手で決済する権限をたくさん持ちたいとの願いがあります。二人の子供が信仰人として成功した立派な主の弟子になることを願っていたゼベダイの子たちの母が子どもたちと心を一つにして、お願いをしました。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」これは彼らの祈りの課題でした。イエス様の時期が近づいたことを感知した彼らは、心を一つにしてお願いをしました。しかし、イエスさまは彼らに言われました。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。」

私たちは神様にいろいろとお願いをしたり、ほしいものを求めたりします。どのように求めるべきでしょうか。何を求めるべきでしょうか。イエスさまは今日の御言葉を通して、祈りの仕方を教えています。今日の御言葉を通して、正しい求め方を学び、正し祈りをする人となりますように祈ります。 イエスさまは天の御国について、つまり、神様が治められる国について、信仰の世界について、一つの例えをもって説明されました。1節をご覧ください。「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。」天の御国とは神様が治められる国のことを指します。神様が作り上げる国のことを指します。神様が主人となり、神様が主権をもってリードする国のことを意味します。簡単にいえば、教会のコミュニティであり、神様を父と呼びまつる人々の共同体を指します。神様の心に従うことを決心し、神様を賛美し、神様に自分の人生を合わせようと心に決めた人々のコミュニティを指します。その国は、ブドウ園で働く労務者を雇いに、朝早く出かけた主人とたとえています。

長崎でも、東京でも、労働者たちを求めて、雇い主が訪れる場所があります。そこに行くと、人々が集まっていて、からだが健康で丈夫そうな人から指名を受け、働く場所に連れられます。労務者たちは自分が指名されることを願い、朝早くから労務者市場に集まるのです。イエス様の例えの中でも、ブドウ園の主人はそのような労務者を求めて、朝の労務者市場に出かけたのです。なぜ、イエスさまは天の御国を、このような労務者市場にたとえたのでしょうか。

それは、天の御国に住む住民は主人により選ばれるからです。教会のコミュニティ、信仰の共同体、神の御国に呼びまつる人々は主人により選ばれたグループです。ひとりも偶然にこの信仰の共同体に入った人はいません。しかし、ひとりひとりはそれぞれがまた別の任務が課せられているのです。2節をご覧ください。「彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。」とあります。主人と労務者の契約が成立し、一日一デナリの約束を交わし、ブドウ園での働きが決まったのです。一デナリは約1万円程度の賃金を指します。朝早く約束を交わした人は、朝早くから選ばれて、ブドウ園で働く喜びを手にしたのです。しかも、給料が保障された働きをする幸せを手にしたのです。契約を交わした労務者は喜びました。感謝もありました。

3節をご覧ください。それから、主人は九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいることに気付きました。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』と約束しました。九時になっても働く場所がなく、ブドウ園の主人たちに選ばれてない人々を、彼は選び、遅い時間ではありますが、彼に相当のものをあげるお約束の下、ブドウ園で働くよう、配慮されました。選ばれた労働者は遅い時間であったにもかかわらず、選ばれたことへの感謝と喜びがありました。ブドウ園での働きに専念する決心をしました。感謝が心の奥底から湧いてきました。

さて、5節をご覧ください。主人はまた出かけて行きました。その時間は十二時ごろ、そして三時ごろでした。6節を見ると、また、五時ごろにも労務者市場に出かけてみました。すると、まだ雇われてない人たちが立っていました。主人は彼に言いました。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』すると、彼らは言いました。『だれも雇ってくれないからです。』この答えは、悲しい答えでした。彼らは選ばれてない人々でした。つまり、彼らは労働者の世界では淘汰された人々でした。力もなく、必要とする人もいない存在でした。彼らを見ていた主人は彼に言いました。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』ブドウ園の主人は朝早く、また、9時に、また、12時に、午後3時に、また午後5時に、5回も労務者市場を回りながら、労働者を選びました。主人の労務者を選ぶ基準はマンツーマンの関係にありました。一人一人と契約を交わしました。一人一人に見合った賃金を約束しました。

こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言いました。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらいました。すると、朝早くから雇われた最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつでありました。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言いました。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』しかし、主人はそのひとりに答えて言いました。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」ブドウ園の主人は最初の人にも、最後の人にも、同じだけ与えたいと思っておられるのです。20年前に選ばれた人にも、2年前に選ばれた人にも、同じだけ上げたいと思っているのです。それが何でしょうか。主からの賃金であり、主からのあわれみや力です。神の御国は選ばれた経歴や年数に関係なく、神様の御恵みを頂くのです。20年前に選ばれたのに、なぜ、とつぶやくことはありません。神様の気前の良さを感謝し、賛美すべきです。イエスさまはたとえ話の最後の結論として、16節の御言葉をのべています。「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」天の御国は主人の、このような独特な思いと律法により治められているのです。

さて、17節をご覧ください。イエスは、エルサレムに上ろうとしておられましたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らにお話されました。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」イエス様のこの話は何度も繰り返されました。イエス様の決戦の日が近づいていることを気付いた、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言いました。イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言いました。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」この願いは、神様の御国において二人の息子が偉い人になってほしいことを、直接、イエスさまにお願いをしていたのでした。

イエスさまの答えが何でしょうか。22節をご覧ください。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」イエスさまは彼らがまず、右と左を求めることが、何を求めているのかが理解されてない、と言われました。右と左は十字架を意味するものでした。イエスさまの右と左は十字架の苦しみと悲しみを耐え忍ぶことを意味するものでした。右と左を求める彼らに、杯を飲めるのか、と聞きましたが、彼らは「できます」と答えました。イエスさまは彼らの答えを認められました。そかし、右と左は神様の権限にあると、答えられました。お約束できませんでした。他の弟子たちが腹を立てました。なぜでしょうか。12の弟子は誰でも、イエスさまの右と左を狙っていたからでした。彼らにとってこれは偉い人の象徴でした。イエスさまはその彼らに言われました。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」世の人々は権威と権限を持って、人々を支配し、振る舞います。しかし、弟子たちは権力と権威をどのように使うべきでしょうか。

26節、27節をご覧ください。「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」イエスさまは主の中でのお偉いさんについて、権力をふるまう人ではなく、人の上に君臨するのではなく、使える人、しもべとしての姿を取る人であると教えました。なぜでしょうか。28節をご覧ください。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」偉い人は、イエス・キリストです。偉い人はイエス・キリストと同じ道をたどる人です。偉い人は、仕える人、しもべです。神様、私たちが一人一人、仕える人、しもべへの願いを持つものとなりますように祈ります。

29節から34節には、二人の盲人が出ています。彼らの叫びは、切実なものでした。懇切なものでした。確信を持った祈りでした。彼らの祈りは答えられました。イエスさまへの確実な祈り、懇切な祈り、切なる祈りは必ずこたえられます。 私たちが一人一人、確実な祈り、懇切な祈り、願い続ける祈りを持って、答えを手にする商人になりますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23