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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その20 --> 問題紙

小さい者たちのひとりでも

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御言葉:マタイの福音書 18章1節~35節
要 節:マタイの福音書、18章14節 「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」

イエスさまは最近、ご自分が人々によって苦しみ、十字架につけられ死なれることと、三日目に蘇ることを教え始められました。弟子たちはこの話を聞くたびごと、悲しみました。特にペテロが厳しく叱られてからはイエス様を止めることができませんでした。

その中で、18章の1節を見ると、弟子たちがイエスのところに来て言いました。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」弟子たちはイエス様の死を準備し始めているようでした。と同時に、彼らはイエス様により選ばれる一番偉い人になりたいという気持ちもありました。彼らは天の御国でも、イエスさまとともに歩むことを願っていました。

偉い人の基準がなんでしょうか。どんな人々を指して、えらいと言えるのでしょうか。大辞典を調べてみると、偉いとは「普通よりもすぐれていること」を意味するもので、たとえば、①社会的地位や身分などが高いこと。または、②人間として、りっぱですぐれていること。を指すのだと記録されています。身分が高い、人間的に能力が高いことを指して、偉いというのです。弟子たちは天の御国においても、同じ評価をするのか、とイエス様に質問したのです。

2節をご覧ください。そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」イエス様は天の御国で「偉い」とされる人の基準が、「自分を低くする者」であると定義されました。これは逆にいえば、自分の力と自分の策略と自分の知恵によって偉くなった人は天の御国においては偉い人としてカウントされない、という意味です。天の御国での「偉い」基準は人間の力や人間の知恵、人間の努力などによってカウントされるのではなく、神様によってその基準が策定され、神様によって選ばれるのだ、という意味です。それでは人間としてはどんな姿勢を持つ人が偉いのでしょうか。イエスさまは天の御国で偉いひととは「自分を低くする者」であると教えています。天の御国は徹底して神により選ばれ、徹底して神様が主導権を持っていることを強調しています。天の御国は人間の力が排除されているところです。天の御国に人間の力が考慮されるところと言えば「自分を低くする者」なのです。

また、イエスさまは言われました。「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」

この言葉で、命に入るとは天の御国に入ることを意味し、永遠の火に投げ入れられるとは神様によって裁かれることを意味します。この言葉の中に特に、「つまずき」という言葉が何度も繰り返されます。つまずきとは「つまずくこと」であり、「失敗・過失・あやまち」を起こすことを指します。私によって「小さいものの一人がつまずくこと」を警戒しています。もし、手がつまずきを与えるのなら、その手を切り捨てるようにとまで言われます。もし、目がつまずきを与えるのなら、その目をえぐり出すようにと言われます。命を得ること、天の御国に入ることは両足揃うことよりも大事で、両目揃うことよりも大事であるといわれます。どれだけ「つまずき」を警戒すべきであるのか、分かります。イエスさま言われます。「つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。」特に、今日の御言葉で説明する「つまずき」とは、天の御国に対するつまずきを指します。つまずきを与えないとは、具体的にはどんなことを意味しますか。

10節をご覧ください。「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」ここで、わたしたちはつまずきを与えない、具体的な秘訣について学びます。それは、この小さい者たちを一人でも見下げたりしないことです。私たちが小さいと判断する人も、神様は私たちと同じく、大事な存在として考えているからです。イエスさまは弟子たちに一つのたとえをもって、その概念を考えさせられました。

「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」

このたとえはいろんなことを考えさせられるものです。問題を起こす一匹の羊を、九十九匹からすれば邪魔な存在です。その一匹さえなければ、平和なのに、この一匹のせいで物事が進まないからです。小さいものの代表です。主人によってはこの小さいものの代表、一匹を処分することもできるでしょう。怒鳴りつけて、九十九匹の中の存在としての形を求めることもできるでしょう。無視して、いじめることもできるでしょう。しかし、真の主人は九十九匹よりも、小さい一匹、迷い出る一匹、問題を起こす一匹が、小さい中でもその持っている力を発揮して、生きることを望むのです。小さいものも、神様の被造物であり、力の無いものも、神様からすればみんな、天の御国で一緒に喜ぶべき存在なのです。

偉い人はどんな人でしょうか。この小さい者たちのひとりでも、滅びることなく、踏みにじられて死んでしまうことなく、一緒に、天の御国で喜びを味わう者になることを希望し、つまずきを与えないために配慮する人なのです。イエスさまは15節で、具体的に説明を加えます。

15節「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」罪を犯すと、赦しがたいです。除外したくなります。話したくもないです。無視したくなります。しかし、イエスさまはその犯した罪を責めるようにと言われます。しかも、公の場で責めることより、二人だけのところで責めるようにと言われます。配慮することを求めています。罪を認めないなら、証人をもって責めるようにと言われます。それでも聞かないのなら、教会に告げるようにと言われます。教会とは罪を判断する機関だったからです。それでも受け入れないのなら、、、とイエスさまは細かい配慮を罪人に施すようにと言われます。偉い人の基準はこの小さい者たちのひとりでも、滅びることなく、踏みにじられて死んでしまうことなく、一緒に、天の御国で喜びを味わう者になることを希望し、つまずきを与えないために配慮する人なのです。

18節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

この言葉は、私たち信者の特権について話をしています。信者は大変な特権を持っています。地上でつなぐなら、それは天においてもつようできるものとなります。地上での私たちの行動や判断は、天の判断に直結するのです。信者は神様の全権大使なのです。天の御国の様子を伝え、神様のおられることを証言する道具なのです。神様はこの信者たちが二人以上、心をこめて祈るものを成し遂げてくださいます。二人でも三人でも、神様の名前をもって集まるところに神様はおられ、そのお話を聞いてくださいます。私たちを祝福するものを、神様は祝福されます。私たちをのろうものを、神様はのろうのです。今日の御言葉を見ると、私たち信者は世の祝福や裁きの判断基準となっているのです。 そのとき、ペテロがみもとに来て言いました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」すると、イエスは言われました。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」これは信者にとって罪を赦すことは義務付けられていることを指します。信者は罪を赦されたものです。罪の赦しのために今の幸せと喜びを手にしているのです。人々の罪を多めに見て、赦すこと、これが信者に課せられている義務です。神様の要求です。罪人を厳しくさばき、首を絞めることは、自分の首を絞めることにつながります。イエスさまはたとえをもって説明されています。

このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23