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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その1 --> 問題紙

救いの約束と救い主イエス

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 1章1節~25節
要 節:マタイの福音書、1章21節 「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

マタイの福音書を、今年度、勉強していきたいと思います。このマタイの福音書の著者はもちろん、マタイです。マタイは取税人でした。当時からしてみれば、同じ民族のユダヤ人たちから罪びと扱いされていました。公の罪びとでした。つまり、イスラエルがローマの植民地となっていた時代、マタイは、ローマの政府の管理者として、イスラエルの人々から税金を取り、一部は自分のポケットに、一部はローマ政府に納める人でした。それで彼は金持ちでしたが、同族の友人はなく、むしろ、彼は同族の人々から売国奴の罪人と指名され、遠慮され、無視された存在でした。

イエスさまは彼に「私についてきなさい」と招待されました。マタイがイエスさまの招待に従って取税所に辞表を出し、イエスの弟子となりました。マタイは金は失いましたが、天の御国を所有する人となりました。お金よりもはるかに価値のある「天の御国」を発見しました。マタイは自分の福音書のテーマとして、「天の御国」を選びました。マタイの福音書を勉強しながら、マタイが伝えた「天の御国」を章有する人となりますように祈ります。

I. イエスの系図(1-17)

マタイはこの福音書を、ユダヤ人のために記録したと伝えられています。ユダヤ人たちは系図が大好きです。系図を大変重んじています。家柄、出身、身分を重んじていた人々です。マタイはこのユダヤ人たちのために、まず彼らに説得力のある系図を取り上げて、イエスさまを紹介しています。

1章1節をご覧ください。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」とあります。マタイはイエス・キリストの系図を紹介する前提として、イエス・キリストが「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」であることを強調しています。つまり、ユダヤ人の伝統と誇り、プライドある家柄からイエス・キリストがお生まれになったことを紹介しているのです。

アブラハムを先祖とする民族とは、神様とかかわりのある民族、神様を認めた民族、神様の祝福を証言した民族のことを指します。イエス・キリストはこのような背景の家計からお生まれになったことを説明しています。つまり、誇らしい家計からイエス・キリストが生まれたことを表現しているのです。しかし、その誇らしい系図の中には誇りとはかき離れた不可解な点がいくつものあります。

系図の前半に出てくる女の名前、「タマル」「ラハブ」「ルツ」「ウリヤの妻」がその人物たちです。普通、イスラエルの人々にとって女性は人数にも数えられない存在として扱われていました。しかし、イスラエルの人々が誇るイエス・キリストの系図に、女性の名前が登場しているのです。

タマルはその中の一人です。タマルはヤコブの12人の子供の一人ユダの義理の娘ですが、自分を売春婦に装い義理の父であるユダと関係をもって子をもうけるという我々からすると理解し難いものの、神から選ばれた選民の血統を残すための必死の努力が物語られています。また、ラハブとは、エリコの町に住んでいた遊女でした。彼女はイスラエルの民が敵地エリコを攻略するために、先に忍び込ませた二人の斥候をかくまったのです。そのことによって、のちに、エリコがイスラエルの攻撃を受けたとき、彼女とその家族だけはいのちを助けられるという出来事が起こります。さて、エリコの町を偵察に来た二人の斥候をかくまった遊女ラハブは、大変素晴らしい信仰告白をします。その内容は「あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。」と言い、創造主なる神を告白したのです。それゆえに、ヘブル人の手紙では、このラハブはアブラハムとならんで、信仰の勇者の中に加られているわけです。しかし、見方を変えると、このラハブのしたことは、カナン人に対する裏切りとも取れるわけです。

日本人にとって人間関係はとても大事に扱われます。人間関係が壊れてしまうと、物事が進まないからです。ある牧師先生は子ども時代一番恐ろしかったことについて、無視されることでしたが、村八分ほど恐ろしいことはない、と証言していました。村八分とは日本の村落の中で掟や秩序を破った者に対して課される消極的制裁や共同絶交の行為を意味するものです。新潟県関川村沼集落において、2004年春お盆のイワナのつかみ取り大会において「準備と後片づけでお盆をゆっくり過ごせない」と一部の村民が不参加を申し出しました。集落の有力者が「従わなければ村八分にする」と警告し、申し出ていた11戸に山菜採りやゴミ収集箱の使用を禁じたことも村八分の代表です。

一般の人々は村八分になるぐらいなら、変に正義ぶったりしないで、みんなと同じように適当に悪いことをしていたほうがいいということです。正しさなんか二の次でいいとさえ思ってしまうものです。聖書のことばは正しいことはいいのですが、日本人はどうも、真理よりも人間関係、神よりも人を選ぶのがもっとも大事と考えているのです。ラハブの行動は、人間的な価値観から見るなら、仲間を裏切る裏切り行為です。自分の家族だけ救っておいて、カナン人はどうするんだといわれてしまうかもしれません。しかし、聖書は彼女の行動を評価しています。それは聖書においては、ひとえに正しさの基準とは、人間の義理や人情ではなくて、神そのものだからです。彼女は神に従うがゆえに、斥候をかくまったのです。それが神の目には正しい行為なのです。聖書における正しさとは、人間の義理や人情や感情や意見や伝統をこえて、神そのものが正しさの基盤です。イサクをささげよといわれて、そのように行動したアブラハムは、自分の価値基準で行動したのではなく、ただ従ったのです。そんな命令、私の感情が赦さないとか、私の価値観とはあわないということではなく、聖書が私たちに求めているのは、神を信じて従うのか従わないかということを理解することは大切なポイントです。ラハブのとった行動は、人の義理でも人情に流されたものでもなく、真の神、全能の主に対する信仰ゆえの行動であります。そして、その彼女の信仰ゆえに、彼女も彼女の家族も共に救われたのです。このラハブは遊女だったのです。しかも異邦人であり、神の恵みを受けるにふさわしくない存在でした。それなのに、ラハブはただ信仰によって、イエス・キリストの系図に名乗る存在となったのです。救われたのであります。

また、ルツはモアブ人であって、イスラエル人のナオミとエリメレクの息子の妻でした。すなわち、女性です。夫マロンの死後、ルツはナオミの親戚ボアズと再婚しました。ルツとボアズの子オベデは、ダビデとイエス・キリストの先祖に当たります。ルツの物語はイスラエル人ではない者が改心してイスラエルの群れに加わったことを説明しています。ルツは自分の神や生活の習慣を捨てて、イスラエルの神に仕えて、信仰の家族に加わりました。このルツは聖書の中でも、最も美しい物語と知られる、ルツ記を記録として残しています。背景は、カナンの地の一部に政治的な混乱と道徳的な堕落があった時代ですが、つまらない箇所はひとつもなく、心を高め、また温かくしてくれる物語と知られています。ルツは神が望む所へ行くために、自らの故郷や考え方を捨てて親族との絆も犠牲するほどの決断を求めており、その決断の中に神様の祝福が明らかにされることを教えています。 ウリヤの妻はイエス・キリストの系図には載せたくないお恥ずかしい物語です。イスラエルの民が誇る、ダビデ王の罪人としての暗い部分を明らかにする内容だからです。自分に忠実であった将軍・ウリヤの妻を自分のものにするために、ウリヤを戦場に行かせ死なせ、ダビデの妻にしたのがウリヤの妻だったのです。しかし、ダビデは預言者ナタンの厳しい指摘に涙の悔い改めをしたのです。神様はどんなにひどい罪であっても、どんなに赦しがたい罪を犯しても、心から悔い改めるのなら、赦してくださり、その系図に取り入れられる方であることを教えているのです。神様は罪人を赦しませんが、悔い改める罪人を神の民にすることをためらいません。神様はウリヤの妻からソロモンを設けたダビデ、そしてそのソロモンをイエス・キリストの系図に堂々と載せることを、お赦しになったのです。この神様を賛美します。罪は赦しがたいですが、赦されます。たとい、イエス・キリストをのろうほどの罪を犯しても赦されます。しかし、悔い改めない罪は赦されません。

II. その罪から救ってくださる方(18-25)

18節からはイエス・キリストの誕生について説明しています。イエス・キリストの誕生は次のようでありました。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていました。婚約をしていた関係でした。当時の風習からして、婚約をした二人は一年間、別居しながら心と体の純潔を守り、一年後の一緒になる日を待つことが義務付けられていました。たが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、つまり、まだ婚約をして一年が経ってないうちに、マリヤは身重になりました。婚約相手と一緒になってない中で、マリヤは妊娠してしまったのでした。

夫、ヨセフはどんなに衝撃を受けたことでしょう。マリヤの妊娠が聖霊によるものであったとしても、そのような説明がマリヤから語られたとしても、その話を耳んした時、ヨセフは信じがたいものでした。信じられないマリヤの妊娠に夫ヨセフはどんな行動をとりましたか。19節、「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあります。ヨセフは彼女がさらし者、つまり石打にされることはしたくなかったので、この事実を隠して、去らせようと決めました。事実を知らないふりをして、彼女の命を守ってあげようとしました。しかし、妻としては迎え入れることは赦しませんでした。ヨセフは正しい人だったからでした。正しい人とはだれもが見ても正義感のある、認められた人だったことです。このような彼が一緒にならないうちに妊娠してしまったマリヤを妻として迎え入れることできませんでした。

しかし、20節を見ると、彼はこのことを思いめぐらしていました。考えていました。夢にもこの思いがめぐらされていました。ヨセフの心の痛み、ヨセフの悩み、ヨセフの苦しみがにじみ出るものです。その時、主の使いが夢に現われて言いました。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

ヨセフの決心と反して、神様はマリヤを迎え入れるようにと指示されました。このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためでした。イエス・キリストはご自分の民をその罪から救ってくださる方であると、教えられました。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」という言葉が成就するためであると教えられました。処女が身ごもることはあり得ません。しかし、イザヤは預言をして、処女が身ごもることを指摘しました。そして、男の子を産むことを予言しました。その名はインマヌエルと呼ばれることを予言しました。神様が私たちとともに住む、奇跡的なことが起こることを予言しました。

イエス・キリストの弟子、ヨハネはイエス・キリストを指して、次のように証言しています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

24-25節をご覧ください。「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」とあります。マリヤとヨセフは、イエスの系図の中にあらわれる先祖たちの信仰の行動を、だれよりも確かなものとして、確実なものとして、教えています。自分よりも、自分の考えや価値観よりも、神様を優先して、救いをもたらした信仰人の代表だったのです。

この時間、イエス・キリストの系図にあらわれる信仰の先祖たちから、正しい信仰人の姿を学びます。御言葉を優先する信仰人として、神様の願いに従って歩む信仰人として、私たちを取り巻く環境の中でも神様の栄光を表す信仰人として今の決断を下す、従順の人となりますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23