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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その18 --> 問題紙

ペテロの信仰告白

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御言葉:マタイの福音書 16章1節~28節
要 節:マタイの福音書、16章16節 「シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』」

昨日、合宿があり大自然の中で一日を過ごしました。たまたま、ご一緒していた方々の中に、真実なクリスチャンがいまして、ひとりはカトリックの方ですが、信仰の話を、また、信者としての態度や信条などの話を長々しました。私はその中で、珍しい日本のキリスト教の状況の中でも周りにこれだけの信者がいること、彼らを通して日本でも、神様の存在を改めて感じることができることを感謝しました。一人は年寄りになり、神様の存在を感じて、信者になった方で、ひとりは生まれながらの信者で、今もその信仰を守っている方ですが、いずれにしても、その信仰の語りは同じ、神様への思いでした。立派な信仰人のそばで、生きていることができること、これもひとえに、神様の御恵みです。

さて、今日の御言葉はこのようなキリスト教の信者について、また、キリスト教の教会について記録しています。今日の御言葉を通して、信者と教会についての概念がつかめられるよう祈ります。

1節をご覧ください。「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。」となります。天からのしるしとは驚きの奇跡を指します。びっくりするほどの力、神様からのお示しのことを意味します。神様のお話をするときに、あるいは信仰のお話をするときに、「神様を見せれば信じる」とか、「これをああすれば信じる」とかの条件を付けて、神様を試してから、納得がいくようであれば信じてもいい、という態度です。

プルドホープ運動の指導者、ドイツのアノルドアヒンリヒー牧者は、信仰は納得して信じるものではないといわれています。多くの人たちが納得して初めて、信仰の世界に入ると考えていますが、それでは信仰のすべてが説明できません。信仰の世界は納得の世界ではありません。言葉そのもの通り、信仰の世界は「信仰の世界」です。信仰は単純に信じるくとであり、納得して信じる世界を越えた不思議な世界です。納得して入る人も、そうでない人も、信仰の世界では、信じて初めてその不思議な存在と働きを体験するのです。

しるしを求めるパリサイ人とサドカイ人たちに、イエスさまは言われます。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」彼らはイエス様の行いと奇跡、人たちの動きからして、しるしを求める必要はありませんでした。しかし、朝焼けと夕焼けからは時の行方を予想しながらも、イエス様を通して行われる奇跡や神様の働きからは、その動きの予想を拒否していました。イエスさまはその時代のことを指して、「悪い、姦淫の時代」と断定しました。悪い、姦淫の時代とは人のことを考えず、自分の楽しみと快楽を優先する時代を指します。その時代の人々が、少しでも人のことを考え、周りを見る目があったのなら、イエス様をキリストとして告白することは難しいものではありませんでした。しかし、彼らはむしろ、イエスにしるしを求めました。イエスさまは彼らのために、ヨナのしるしの他はしるしは与えない、と言われました。ヨナのしるしを見せるお約束でした。ヨナのしるしとは三日三晩、魚のおなかの暗闇世界にいて、神様の世界に吐き出されたように、三日三晩の苦しみと悲しみ、十字架の事件が、彼らに示すしるしであるとされました。

さて、弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていました。その時、イエスが「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」と言われたので、彼らは「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、どうすればパンを調達するのかと、議論を始めました。食べるパンがないぞ、夕食の準備ができてないので、今日の当番のヨハネがパンを界に言ってはどうか、と話をしていました。すると、イエスはそれに気づいて言われました。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」

弟子たちの議論はパンが主要なテーマでした。しかし、イエスさまは弟子たちの議論のテーマがパンであってはいけないこと、むしろ、彼らの純粋さと信仰に害を与える、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを教えました。信者にとって食べる問題は大事ですが、それより大事なことがあります。それは信者の信仰を脅かすパリサイ人やサドカイ人たちの教えです。信仰より律法を重んじるパリサイ人の教えは信仰の世界を乾燥化します。復活も、御使いも、魂もないと信じていたサドカイ人たちの教えは、神様の教えを根源から反しているものでした。彼らは時にはお互いに敵として、時には同僚として手を組みました。しかし、信仰の世界はそのようなものではありません。神様と私の世界であり、信じる人々に広がる御国なのです。今に存在し、人生を導き、祝福する世界なのです。それには理論ではない実際だけが存在するのです。弟子たちは理論化したり乾燥化した世界のパリサイ人やサドカイ人たちの教えから、自分の身を守る必要があったのです。

さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたときでした。イエスが突然、弟子たちに尋ねて言われました。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」一般の人々がイエスのことを、どのように受け止めていたのか質問する内容でした。これに彼らは応えて言いました。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」人々の反応について説明を聞かれたイエスさまは、弟子たちに向かって言われました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」一般の人々と違って、弟子たちはイエスのことを誰だと思っていたのか、質問されました。弟子たちはいろいろと考えました。答を探している人々もいました。黙っている人もいました。その中で、シモン・ペテロが答えて言いました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

「あなたは、生ける神の御子キリストです。」これはどんな意味でしょうか。

それは、あなたは生きている神様のこどもです、という意味です。これはすごい告白です。ペテロはイエス様のことを、生きている神様のことを示す、御子であると信じていたのです。そのお姿、その行い、そのお話が神様のものであると信じていたいのです。

17節を見ると、イエスは、ペテロに答えてこう言われます。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」イエスさまはその答えが神様のものであり、神様が示した正解であると認められたのです。

ここで、私たちは大事な事実を学びます。それは信仰とは、イエス・キリストを神の御子として信じることである、ということです。信仰はイエス・キリストが神の御子として、この世に来られたことを信じるものです。キリストが十字架の上で、私たちの罪を許したことを信じることです。三日三晩の暗闇から復活され、暗闇の勢力を打ち砕いたことを信じることです。神様は私たち人間の最大の敵である罪を赦し、私たちの最大の敵の勢力から勝利を収める方であることを、信じるのが信仰です。 18節をご覧ください。イエスさまは信仰告白をしたペテロに一つのお約束されました。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」聖書の中でも、教会という言葉が使われているのはここだけです。教会は何でしょうか。教会はペテロのようにイエス・キリストを神の御子として告白した人々の集まりです。教会は十字架を建てた建物ではなく、信仰告白した人々の集まりです。それは二人以上が、イエス・キリストの名前で集まり、祈るところに存在するものです。私たちが教会である、と言われるのはその意味です。しかし、教会の中で、信仰告白がないのなら、それはもはや、教会とはいえないのですハデスの門を打ち勝てる力はもはやないのです。死の勢力、悪魔の勢力、暗闇の勢力に打ち勝てないのです。しかし、信仰告白がある教会に、ハデスの門を打ち勝てる力が与えられているのです。天の御国が保障されているのです。

「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

私たちの教会に、ペテロの信仰告白が常に、ありますよう祈ります。

21節をご覧ください。その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められました。イエス・キリストの真の勝利は、十字架の苦しみと悲しみ、耐えがたい暗闇の三日三晩の後であることを、宣布されました。ここで、「イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを」と、マタイは記録しています。イエスさまが苦しめられ、殺される目的は、三日目に蘇るためなのです。蘇りは苦しみ、悲しみ、殺されてからの御業です。苦しみがなければ、悲しみがなければ、殺されることがなければ、復活はないのです。イエスさまは三日目に蘇らなければならないがために、多くの苦しみを受け、殺される必要があったのです。悲しみと苦しみ、殺されることがあって、はじめて、復活が存在するのです。これは、一つの麦が死ななければ、実を結ばないように、イエスさまも数多くの実を結ぶために、死ななければならなかったのです。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めました。イエスさまをわきにお連れして説教を始めたのでした。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」ペテロの言葉が省略されていますが、心の中では「この私がいる限り、そんなことはない」と自信を持って説教をしたいのでした。しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われました。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ここで、私たちはペテロのスタンスと、イエスさまのスタンスの違いがはっきりしています。

ペテロは自分のことを思っていたのです。自分の面目を思っていたのです。自分の将来、自分の人生、自分のこれからの計画を思っていたのです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」という言葉から推察できます。しかし、イエスさまは神のことを思っていたのです。神の御業を思っていたのです。神の願いと神の計画、神様のビジョンを見ていたのです。信者にとって物事の判断基準は、神様の願いです。神のことを思う、ことです。そうでないと、サタンのかしらになります。サタンの仕業に巻き込まれます。光の働きより、闇の働きに操作されるのです。私たちは祈るべきです。今のこと、目の前の働きが、自分のことを重んじているのか、神のことを重んじているのかを、、、神のことを重んじるときに、私たちは光の力を得ます。神様の後ろ押しを背負って、働くのです。

それから、イエスは弟子たちに言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」この言葉の結論は、自分の考えに勝つことです。自分の考えを越えることです。自分の考えに縛られることから脱皮することです。自分の考えや計画、予定を超える力を持つべきです。思い通りに行かないことに腹を立てることなく、計画通りいかないことを楽しみながら、新しい展開に心をわくわくさせるべきです。私以上の計画が、私の考え以上の働きが、私に怒っていることを感謝すべきです。黙々と、自分に与えられた十字架を負うことです。そして、神に祈るべきです。神様はそのような弟子たちを、光の世界に導かれます。命の世界に導いてくださいます。命の主人は神様だからです。勝利の主人も、神様だからです。

神様、私たち信者が、自分を捨てるところで成長しますように祈ります。十字架を負うところで成長しますように祈ります。何より、殺されることさえ、惜しまずに、神様の願いに屈伏されましたイエスさまの後を追っていくことができますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23