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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その17 --> 問題紙

立派な信仰

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御言葉:マタイの福音書 15章1節~28節
要 節:マタイの福音書、15章28節 「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った。」

イエスさまは今日の御言葉を通して、信仰人である人々が過ちやすい問題点をしてきています。常にこの問題を意識しながら、自分の今の状態を点検するようにと勧めています。しかし、つ炉としドンでお会いしていた「カナン人の女」については、「ああ、あなたの信仰は立派です。」と感動されます。イエス様を感動させた立派な信仰とはどんな人のことでしょうか。今日の御言葉を通して、信仰人の正しい姿を学びますよう祈ります。

1節の御言葉をご覧ください。イエスさまのところにエルサレムから、パリサイ人や律法学者たちが来ていました。イエスさまは当時の宗教指導者たちにも注目されました。エルサレムから来たパリサイ人と律法学者たちは、噂のイエス様を観察し、噂のイエスの弟子たちを見て、こう評価しました。「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」

弟子たちは適当に座って、適当にパンを食べていました。手も洗わず、座っている姿も適当でした。口をあげて、音を出しながら、おなかを満たすだけを考えての行動でした。パリサイ人と律法学者たちからしてみれば、彼らは品がなく、賢さもなければ、どこを見ても尊敬できるようすを持っていませんでした。見た目からして、弟子たちはパリサイ人や律法学者としては失格でした。イエス様についての指摘がないのは、イエス様からはそのような指摘されるところがなかったようでした。ともかく、彼らは鋭く指摘しました。「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」

3節をご覧ください。そこで、イエスは彼らに答えて言われました。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」

パリサイ人や律法学者たちは、どうすれば神様を喜ばせることができるのかを考え、いろんな規律を作りました。それが昔の先祖たちの言い伝えになりました。それは立派な信仰人たち、信仰をもった先輩たちによって作られた伝統のようなものでした。彼らはそれを誇りに思い、それを守ることを一つ、彼らの信仰の証しともしていました。その中には、神様に捧げる供え物、がありました。彼らは何よりも、神様を大事にし、神様に供え物をまず第一に、と考えることを教わりました。先祖たちは、神様を優先したがために、父と母をうやまるモノがなくなるほど、神様に捧げものを捧げました。彼らにとって神様は第一、それだけ大事に考えていました。神様はそのような素直で真実な心を祝福してくださったことでしょう。神様の祝福は、父と母にまでもたらし、ともに祝福されたことでしょう。彼らはそのことを見て、言い伝えを決めました。『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない。』供え物を優先すると、それ以上の祝福があることを確信していたからでした。神様を優先すると、必要な者、ほしがるものはすべて与えられる、体験をしていたからでした。

しかし、いつの間にか、彼らはこの言葉をもって、父と母を敬いたくないときに、利用しました。父と母を敬わないといけないのですが、それがしたくないので、「供え物となりました。」という先祖たちの言い伝えを重んじる行動をしました。父と母を手伝わないといけないときに、あまりしなかった教会の行事に参加するので、お手伝いできない、と言い出しました。先祖たちの言い伝えを、自分の都合のいいように解釈し、言い訳を持って、生きている人々の道具箱化しました。先祖たちの言い伝えを守るとしながら、自分の利益だけをつまみ食いしました。手を洗わないで食べることは、確かにお行儀の悪いことですし、昔の先祖たちの言い伝えにも反することですが、しかし、イエスさまはお行儀の悪い以上に悪いことがある、としてきました。それは、先祖たちの言い伝えを言い訳に、自分の利益だけを守ろうとする考えでした。あるときには先祖たちの言い伝えを重んじ、あるときには神様の言葉を重んじ、あるときには人間の本性を重んじる、彼らの悪い考えを指摘し、それが手を洗わずに食べる、弟子たちよりも悪いことであると、指摘しました。

そして、10節以降、イエスは群衆を呼び寄せて言われました。「聞いて悟りなさい。口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」これを聞いて、パリサイ人が腹を立てました。しかし、イエスさまは構わずにお話を続けていました。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」イエスさまはパリサイ人のことを、盲人にたとえました。イエス様のお話に腹を立てる彼らに反論する価値がないと、断定しました。イエスさまは神様の言葉よりも言い伝えを重んじたり、時には自分たちの考え方を重んじたり、感情や思想を重んじたりする、彼らの導き方が、盲人の道案内のようなものであると指摘しました。

そこで、ペテロは、イエスに答えて言いました。「私たちに、そのたとえを説明してください。」まだ、理解できてない弟子たちのために、イエスさまはペテロの質問に答えられました。16節をご覧ください。「あなたがたも、まだわからないのですか。口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

人が悪く、汚れた形をもつのは、その考えが汚れているからです。その考えが悪いからです。聖書は人間の心が汚れていると表現しています。箴言はこう言っています。「そのねじれた心は、いつも悪を計り、争いをまき散らす。それゆえ、災害は突然やって来て、彼はたちまち滅ぼされ、いやされることはない。」それでは聖書は、どのようにして人々は自分の道をきよく保てることができると教えていますか。詩篇にはその正解を次のように語っています。「あなたのことばに従ってそれを守ることです。」と。心に従うより、神様の言葉に従うことを心懸けるとき、人間の汚れた形を克服することができると教えています。また、へブル人への手紙は次のように言っています。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」これを見ると、汚れた心から自分を救えるのは、イエス・キリストの御血である、と宣言しています。イエス・キリストの十字架の事件を、心から信じることにより、これらの汚れから、死んだ行いから、救われるといわれています。先祖たちの言い伝えでもなければ、お行儀をしっかり守ることでもないのです。イエスさまは言われます。「聞いて悟りなさい。口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」私たちはお行儀が悪いから、と言って責めることを考える以前に、神様の言葉を耳にすること、イエス・キリストへの信仰にもっと注目すべきです。それが人をきれいにするからです。

21節をご覧ください。それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。ツロとシドンとは、信仰人のいないところを意味します。そこに住むカナン人は昔から、ユダヤ人と対立し、ユダヤ人を苦しめ、信仰人たちを無視し続けてきた人々でした。イエスさまがなぜ、ツロとシドンの地方に立ち退かれたのかは不明ですが、そこで、イエスはあるカナン人の女に出会いました。その女はイエスに向かって叫びました。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」イエスのことを、主よ、と呼んでいました。ダビデの子よ、と呼んでいました。彼女は相当な知識がありました。彼女はカナン人からしては珍しく、ツロとシドン地方には見つけられない信仰人でした。異邦の地で、信仰人に出会ったイエスはどんなに喜んだことでしょう。しかし、23節を見ると、イエスは彼女に一言もお答えにならなりませんでした。そこで、弟子たちはみもとにやって来て言いました。「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」彼女の願いを聞いてあげてほしい、と願ったのでした。どれだけ懇切に、どれだけ真実にお願いをしていたのか、わかります。しかしながら、イエスは次のように答えて言われました。「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」

イエスさまは彼女が、人種が違うから、ユダヤ人でないから、カナン人だから、ツロとシドン出身だから、彼女のお願いを聞いてあげることができない、と答えました。弟子たちはそれを、彼女に伝えたことでしょう。彼女はあきらめるべきでした。いやむしろ、怒り心頭でイエスに対する悪口を広めるべきでした。しかしながら、25節を見ると、彼女はイエスの前にまた来て、ひれ伏して言いました。「主よ。私をお助けください。」彼女は断られたイエスの前に、またも現れました。そして、懇願しました。「主よ。私をお助けください。」これぐらいなら、イエスさまも感動して、動いたはずでした。しかし、イエスはこう答えました。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」今度は、女を犬扱いました。人種が違うから、出身が変な場所だから、ということを我慢して、お願いに来ているのに、今度は犬扱いをしました。これぐらい侮辱されたなら、もうお願いすることはないでしょう。むしろ、イエスに噛みつく犬になったことでしょう。

しかし、マタイは彼女の反応について、こう記録しています。27節、しかし、女は言いました。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」彼女はパンくずでも頂きたい、と願いました。犬扱いでもいいので、主人から頂くパンくずが頂けるなら、それでよろしい、と答えました。犬扱いよりも、パンくずが必要であると、答えました。そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直ったのでした。

いったい、イエスを感動させ、娘を治した、女の信仰は何でしょうか。それは、''切なる信仰""です。娘を治したい、切なる信仰は、イエスさまを感動させた立派な信仰なのです。切なる信仰、これはイエスさまからこたえられるものです。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」切なる信仰を、立派な信仰として祝福されましたイエスさまを、感謝賛美いたします。私たちが一人一人、切なる信仰、切なる祈りの課題を、もちますよう祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23