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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その16 --> 問題紙

五つのパンと二匹の魚の奇跡

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御言葉:マタイの福音書 14章1節~36節
要 節:マタイの福音書、14章18-20節 「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい。』そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。」

今日の御言葉は五つのパンと二匹の魚で、五千人が食べて、なおかつパンの余りを集めると、十二のかごにいっぱいあった奇跡の物語です。このような話を聞くと、そんなことはあり得ない、と頭で整理してしまう人がいます。しかし、奇跡は今もなお、歴然として行われているものです。昨日、テレビのワイドショーで、脳の働きについて説明していた「アハ体験」で有名な茂木さんが「甘いサトで作った調剤でも、薬と思えば病気は治る。信じきることが前提である。」という発言をしました。これは体が脳の活動に影響されることを説明するために使ったもので、病気に対する抵抗体も信じきる人には出来上がるとのことです。茂木さんは人間の脳の力によってこのような不思議な力が実現したのだ、と説明していますが、聖書は似たような数多くの不思議が、どのように説明されているのでしょうか。今日の御言葉を通して、不思議な奇跡について学びたいと思います。

1節から12節の御言葉には、とても残酷な記録が残されています。当時の国主ヘロデが自分の兄弟の妻・ヘロデヤを自分の妻にしたので、当時の預言者であったヨハネから厳しく指摘を受けていました。国主の勝手な行動をだれも批判することができなかった時代、ヨハネは「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張っていました。残酷で勝手なヘロデがこのヨハネを生かしておくわけにはいきませんでした。すぐさま殺そうとしましたが、群衆を恐れていました。たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせました。ヘロデは酒に酔ったこともあって、そのヘロデヤの娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をしました。世界最高級の香水か、宝石、あるいは立派な馬車かと思えたことでしょう。しかし、彼女がその硬い約束に基づいて要求したのは、ヨハネの首でした。しかも、彼女はこのようにヘロデに迫りました。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」王は驚き、心を痛めました。しかし、彼は人の命を酒の席上で交わした約束を重んじる決定をしました。聖書は、その理由について、「自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって」と記録しています。つまり、人の命よりも、自分の口でやってしまった誓いを重んじ、列席の人々の手前での約束を守り王としての権威を断たせるために、彼女の要求を実行するよう命じたのでした。

10節を見ると、彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせました。そして、その首は盆に載せて運ばれ、列席の前で少女に与えました。12節には、ヨハネの弟子たちが後からやって来て、死体を引き取って葬った、と記録しています。今ではとても考えられないことかもしれませんが、当時はこのようにはねた人の首を盆に載せて運び出されていたのでした。

旧満州国の首都、中国の長春には旧満州国の庁舎に博物館がありますが、そこにはいまでは考えられない写真が展示されています。旧日本軍の兵士が日本刀で人の首をどれぐらいまではねることができたのか、という自慢話の朝日新聞が掲載した写真です。日本刀をタオルのような物で吹く自慢そうな日本軍の姿の隣には横たわった数多くの人の首が見えるのです。まともに見続けることすらできない残酷な写真ですが、当時としては新聞に掲載されるものだったのです。

人間の残酷さと、時代の預言者がこのように最後を迎えたことの寂しさのため、この報告を聞いたイエスは、13節を見ると「舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた」と、記録されています。イエス様の心の寂しさが表現されています。しかし、そのようなイエス様の気持ちとは関係なく、イエスの後を追う群衆を見られたイエスさまは、彼らを深くあわれみました。マルコの福音書6章34節は、この部分を次のように記録しています。「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」イエスさまが深くあわれんだのは、羊飼いを失った、羊の群れを見ていたがためでした。イエスさまは彼らの羊飼いになることを改めて誓ったことでしょう。また、彼らが羊飼いであるヨハネを失っても、神様が彼らに相応しい羊飼いを与えてくださるよう、祈ったことでしょう。

15節をご覧ください。夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来てこう言いました。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」群衆が多かったようでした。時刻も回っていて、食事の時間になっていました。弟子たちはこの問題を、群衆を解散させることで解決しようと考えました。しかし、16節を見るとイエスの考えは異なっていました。イエスは言われました。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」この言葉の意味がなんでしょうか。何でイエスは彼らを解散することに同意しませんでしたか。何でイエスはめいめいで食物を買うようにすることに同意しませんでしたか。

第一に、イエスは弟子たちが群衆の羊飼いであると見ていました。

イエスはヨハネの代わりに、新しい羊飼いを送ってくださるよう祈りました。ヨハネのような彼らの人生と彼らの生き方を真剣に考える人を、送ってくださるように願っていました。ヨハネが死んだ後の、彼らの後を面倒みる人が必要であることを考えていました。イエスは弟子たちが、群衆の羊飼いになるべきであると考えました。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」

第二に、イエスは弟子たちが、十分に彼らに食べる者をあげることができると確信していました。

「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」弟子たちは五千人を超える人々を、担いきれませんでした。彼らの食事問題を、めいめいで解決させる以外に方法がないと、考えました。しかし、イエスは弟子たちで、あの人たちに何か食べる者をあげることができると確信しました。弟子たちは無理だと思っていました。現実的に見て、無理な話でした。しかし、イエスはできると考えました。彼らには十分に、五千人を食べさせるものがあると確信していました。それは彼らよりもはるかに知恵のある方、はるかに深いことを考えておられる神様への信仰を、見ていたためでした。彼らはできると、確信していました。彼らは与えられると信じていました。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」今あるものに加えて、神様の助けを求めればいいのだと、考えておられました。弟子たちには人間的な限界をはるかに乗り越えられる、神様がともにしておられました。

それで、イエスは弟子たちに言われました。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」

今日の奇跡の物語はここから始まるのです。イエス様のお話に、弟子たちはどう反応しましたか。17節をご覧ください。弟子たちはイエスに言いました。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」弟子たちがイエス様のお話に前向きに考えて、いくら探しても、パンが五つ、魚が二匹以外に、群衆のための食糧は見つけられませんでした。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」いくら前向きに考えても、それは無理です、という結論でした。これが弟子たちの限界ですし、これが弟子たちの現実なのです。弟子たちには五つのパン、二匹の魚しかないのです。しかも、それは弟子たちのものではなく、ある少年が出してくれたコンパでした。正確にいえば、弟子たちは何も持っていませんでした。弟子たちには群衆を食べさせることのできる材料を何一つ、持ってませんでした。しかしながら、イエスは彼らが十分に食べさせることができると確信していました。弟子たちが群衆の羊飼いであると確信していました。

イエスさまは五つのパンと二匹の魚を持ってきた弟子たちの材料で、奇跡を起こしました。イエスは、弟子たちに言われました。「それを、ここに持って来なさい。」五つのパンと二匹の魚を、イエスのところに持ってくるよう命じました。そして、自ら働き始められました。水から奇跡を起こしました。イエスは群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられました。弟子たちはただ、イエスのパンを群衆に配っただけでした。すると、どんな奇跡が起こったと、マタイは記録していますか。20節、「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。」とあります。

奇跡の主人公は神様です。奇跡を起こすのはイエスの御手です。五つのパンと二匹の魚が、イエスの手に渡されると、次から次へと膨らんできたのでした。五つのパンが次から次へと運ばれ、二匹の魚が次から次へと出てきたのでした。奇跡が奇跡を生み、何と、五千人が食べても、残りを集めると十二のかごがいっぱいになりました。こんなことがあり得ますか。神様を信頼し、イエスを信頼した結果でした。信仰は不思議を生み出すものです。信仰は奇跡を生み出すものです。それは茂木さんの事例を例にあげなくても、聖書にはたくさんの同じ奇跡を物語っているのです。マルコの福音書は次のように言っています。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

私たちは大学の3%の学生たちが聖書を勉強し、時代の羊飼いになることを夢見ています。それが私たちの祈りの課題です。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じるなら、そのとおりになります。私たちは、これから何をすればいいのでしょうか。五つのパンと二匹の魚を探すことです。そして、それをイエスのところに持っていくことです。イエス様の奇跡を期待することです。確信を現実にする神様の動きを見つめることです。私たちは奇跡の証人となるのです。私たちができる五つのパンと二匹の魚は何でしょうか。一つは、確信です。私たちの祈りがその通りになることへの信頼です。何一つ疑うことなくつかみ続ける信頼です。もうひとつは、祈りです。祈りは私たちが持つ武器であり、できるものです。最後に、人々との関係性を持ち、聖書勉強のチャンスを増やすことです。私には週1回のメッセージを、真剣に取り組むことであり、土曜日の聖書勉強会を真実に守ることであり、子どもたちとの聖書勉強会を増やすことです。朝の祈りの時間を守ることであり、私ができる範囲で、祈りをもって神様に持っていくことです。奇跡は神様のものだからです。奇跡の主人はイエス・キリストだからです。大学の3%の学生たちが聖書を勉強し、時代の羊飼いになるのは夢ではないのです。そのような奇跡は、神様の前ではるかに簡単な話なのです。

「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

22節から、38節までは水の上を歩くイエス様の奇跡が記録されています。イエス様を信頼してペテロも水の上を歩く奇跡を体験しています。しかし、イエスを見ることなく、風をみたペテロは水の上を歩く奇跡から外れていたのです。水に沈みかけたときに、イエスさまは言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」疑いは奇跡を台無しにする敵です。信仰は奇跡を生むものです。脳を信頼したり、自分を信頼する人も奇跡を体験するのだから、神様を信頼する人はどれだけの奇跡を、その人生に生むことでしょう。脳を信頼し、自分を信頼する人は、絶望する時期を迎えますが、神様を信頼する人にはそのようなことがありません。私たちが疑う人ではなく、信じる人となり、不思議な奇跡を人生に積み上げるものとなりますよう祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23