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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その14 --> 問題紙

安息日の主であるイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 12章1節~50節
要 節:マタイの福音書、12章8節 「人の子は安息日の主です。」

今日の御言葉はイエスさまが、信仰が律法化してしまったユダヤ社会の問題点を指摘し、正しい信仰人の姿を教えた御言葉の内容です。信仰は救いにつながります、とても大事なことですが、誤るとパリサイ人のようになりがちです。今日の御言葉を通して、パリサイ人のような姿を悔い改めて、神様によろこぼしい信仰人になりますよう、祈ります。

1節をご覧ください。イエスは、安息日に麦畑を通っておられました。金色の波が平野全体に流れていました。収穫の時が近づき、麦畑は実った穂の波に包まれていました。安息日なので、イエスさまは弟子たちと一緒に会堂の行事に参加するために移動していたことでしょう。弟子たちは朝ご飯を抜いていたのか、おなかが減っていました。何人かの弟子たちが穂を摘んで、食べ始めました。美味しい穂が口に広がり、甘みを増してちょっとした満腹感が得られました。隣にいた別の弟子がそれを見て、また、自分も穂を摘み、食べました。とてもおなかがすいている時に食べる、麦の穂は食事にはならないとしても、自然のありがたみと神への感謝を掘り起こすものでした。麦畑で、麦の穂を摘んで食べるということは、手で揉んでもみ殻を区別ながら食べなければいけませんので、たくさんは食べられないし、量もちょっとしたものでした。

しかし、2節を見ると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言いました。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」これは安息日には仕事をせずに、会堂で礼拝をするために、彼らが作った律法や当時の社会的な規定に、弟子たちが反しているということでした。つまり、安息日にしてはならない、刈り入れの作業をしていると、批判したのでした。12名の弟子たちが、麦畑でもみ殻を「ふーふー」と吹いて食べている姿を、パリサイ人たちは刈り入れ作業の一部とみなしていたのでした。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」当時は律法(出エジプト20章8~11節)により、安息日にしてはならない39の労働を規則があったそうです。たとえば、「種蒔き」「耕作」「火を消す」「火をつける」などがそれでした。弟子たちはこのような労働規則に反していることでした。

しかし、3節でイエスは次のように言われました。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。」ダビデは一時期、神様の厳しい訓練の時、サウルに追い込まれて逃亡者生活を送りました(Iサムエル21章1~6節)。その時、何も食べることを手にすることすらできませんでした。たまたま逃げ込んだのが神の家で、そこには祭司のほかはダビデも供の者たちも食べてはならない供えのパンがありました。ダビデは自分も食べ、供の者たちにもを食べるようにしました。ダビデは間違いなく、神様の神聖な律法を犯しましたが、罪に問われることはありませんでした。ひもじかった時に食べ、命が助かったからでした。また、5節を見ると、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないという律法がありました。それは宮で働く祭司たちは、安息日にも働かなければならない特殊性があったからでした。

イエスさまは律法学者に、ダビデのたとえを説明し、「読まなかったのですか。」と問い合わせ、祭司の例を説明してからは、「律法で読んだことはないのですか。」と問いただしました。彼らは読みましたし、読んだことがありました。律法には精通したパリサイ人たちだからでした。しかし、彼らは正しく理解していませんでした。聖書を読んでも、その意味を悟ろうとしませんでした。彼らはダビデの物語を読むときに、命が助かることを神様は律法以上に大事に考えていることを理解すべきでした。祭司の物語を読むときには、律法よりも神様のための宮の行事を守ることがもっとも大切であることを理解すべきでした。

イエスさまはこれらを説明されたのち、6節で言われました。「あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」イエスさまは宮より大きいものと説明しています。宮より大きいものとは神様のことを指します。神様に仕えることのために、律法を反することがあっても、それは許されるものなのです。それが律法の基本にあるのです。イエスさまは続けて言われます。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」律法は神様の御心を大事にし、それを守るために決めた規定です。いけにえも同じです。しかし、これら律法の基本にある神様の御心は「あわれみ」です。いけにえはそのために決められたものだからです。

結論としてイエスさまは言われます。8節、「人の子は安息日の主です。」これはどんな意味でしょうか。

第一に、安息日の対象は神様であることです。

律法学者とパリサイ人たちは、安息日ということになれば、何をする、何をしない、という規定・律法にありました。安息日、それは律法・規定・決まり、というところにつながりました。しかし、イエスさまは安息日が「神様」につながる日であることを教えています。安息日の主は「律法や規定」ではなく、「神様」なのです。安息日に、私たちは生きておられる神様、近づいていくと、報いてくださる神様のことを思い起こす日なのです。それが決まり文句の土曜日、日曜日と定まったのはその後の規定であり、規律なのです。私たちの心に、安息日と言えば、神様のことを思い起こし、神様の創造の力、神様の私の人生への関与、神様の祝福を思い起こすべきです。今もなお、私たちの人生に関与し、私たちの人生を導き、計画し、探し求める人には必ず、応えられる神様を考えるべきです。日曜日にはこれをやり、あれはやってはいけないことは、その次に考えるものです。

第二に、安息日の対象はイエス・キリストである、という意味です。

安息日の主人はイエス・キリストです。イエス・キリストは宮よりも大きい方です。パリサイ人たちにとって安息日は会堂につながりました。安息日イコール会堂の図式が出来上がっていました。しかし、安息日イコールイエス・キリストの図式が必要なのです。日曜日イコールイエス・キリストの図式が求められるのです。

下関のある教会に耳が遠くなった信者がいました。耳が遠くなったのでもちろん、説教がかすかに聞こえるわけで、良く聞こえません。しかし、その老人は日曜日になると、教会の礼拝に出席していました。ある青年が、こう質問したそうです。「耳も遠いのに、礼拝に来ても意味がないでしょう。」しかし、老人はこう言ったそうです。「とんでもない。礼拝は神様を拝むことです。もちろん、説教をこの耳で聞ければ、こんなに嬉しいことはありません。しかし、たとえ説教が聞こえないとしても、礼拝に出席することによって、神様の恵みは豊かにわたしの上に、そして、わたしの家族に与えられているのです。」安息日の対象は、イエス・キリストによる働きであり、実際、私たちとともにする御霊です。十字架により実現されました勝利と、信じるすべての人々の現れる喜びがその対象です。

「人の子は安息日の主です。」見える宮、見える律法よりも大きい方を見上げる安息日となりますよう祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23