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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その13 --> 問題紙

たましいに安らぎがきます

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 11章1節~30節
要 節:マタイの福音書、11章28-29節 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」

イエスさまは12弟子たちと一緒に本格的な宣教活動を開始しました。イエス様の宣教活動は盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられていることでした。

さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送りました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」ヨハネは荒野でバプテスマを述べ伝えた先駆者でした。彼のメッセージはまるで天の声のようでした。イスラエルの人々や地の果てから、悔い改めのバプテスマを受けるために、ヨルダン河に集まりました。バプテスマのヨハネは「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われた神様の言葉、一つに人生をかけた人でした。神様の御言葉に自分の人生をささげた人でした。そのひとつの言葉を確信し、人生を飾りました。イエスさまがバプテスマを受けるために来られた時に、イエスさまが待ちに待っていたあの方、であると確信しました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」と言っていました。

しかし、獄中でバプテスマのヨハネは、イエスに対する信仰が薄れていたようでした。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と弟子たちを通して尋ねてきたのでした。イエスさまはバプテスマのヨハネに証言するよう、ヨハネの弟子たちに言いました。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」イエスさまはイエス様を通して起こっている神様の御業について説明しました。これはイザヤが予言していたメシアの活動でした。イエスさまは最後に言われました。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

イエスさまに躓かないものとは、イエス様のへ導きに疑いを持たないことを意味します。イエス様の福音について確信を持って信頼することを意味します。頭を走らせるより、子供のように素直に神様の御言葉を確信し、持ち続けることを意味します。そのような人は幸いです。イエスさまは苦しい時期のヨハネに、躓かないことを願いました。その信仰を持ち続けることを願いました。その信仰は応えられるからです。その信仰はたましいに安らぎを得るからです。イエス・キリストへの信仰は裏切ることがありません。

ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされました。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。」イエスさまはヨハネが、預言者の中でも優れた預言者であったことを証言しました。イエスさまはバプテスマのヨハネが、徹底して、イザヤの預言者の予言に人生をささげたことを明らかにされました。10節をご覧ください。「この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。」

イエス様のヨハネについての評価がどうですか。11節にイエス様の、ヨハネについての評価が書かれています。「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」これはヨハネが以下に優れた人として、イエス様によって評価されているのかがうかがえる内容です。イエスさまは人として生まれた中で、ヨハネを最高の位に評価しておられます。その根拠は、10節に出ているように、神様の言葉に人生をささげたからでした。神様の言葉が実現するために、自分の人生を犠牲にしたからでした。

私たちは毎年、今年度の要節となる神様の御言葉をつかみ、祈りの課題を発表しています。今年度、私は昨年と同じく、黙示録2章10節「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」をつかみました。また、副要節としてはヨハネの福音書17章4節「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」を取りました。私が一年間、この言葉に従って神様が与えてくださった十字架、神様の御業や礼拝のメッセージ等に時間をささげ、日常生活の中では学校の仕事や子供の世話、家庭の十字架を負うために、自分を犠牲すべきです。神様が私に行わせるために、おあたえになったものを、私が成し遂げるとき、バプテスマのヨハネが言葉に忠実したような人生となります。イエス様が喜び、イエスさまが高く評価する生き方となります。私に与えられた二つの言葉に、この一年間も、忠実した人生になりますよう祈ります。

高く評価されたヨハネの生き方ですが、イエスさまは次のようなお言葉をされます。「しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」彼の生き方は御言葉に充実した生き方であり、当時の罪の勢力と戦う人生でした。彼の生き方と力ある技に、当時の王様も恐ろしさを感じていました。彼を牢に入れないと物事が進みませんでした。彼は神様の言葉に忠実なしもべであり、偉大な預言者の一人でした。しかし、天の御国では一番小さい人として評価されました。御国について証言され始めた、バプテスマのヨハネの時代をスタートに、天の御国は激しく攻められ始めました。天の御国が幕開きとなったのでした。激しく攻める者たちがそれを奪い取るようになりました。その国を予言する時代ではなく、時代はすでに、その国を受け取る時代になったのでした。それで、イエス様11節で、バプテスマのヨハネが時代の境目にある、来るべきエリヤであると宣言しています。バプテスマのヨハネは天の御国の幕開きの役者であったことを教えています。

それでは、ヨハネによって幕開きとなったこの時代は、どんな時代でしょうか。16節を見ると、イエスさまはこの時代を、たとえをもって説明されます。「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。」イエスさまは市場に座っている子どもたちをもって、バプテスマが幕開いた時代を説明されます。当時、市場に座っていた子どもたちは、笛を吹いても踊らない、弔いの歌を歌っても悲しまない、状況でした。笛は踊るためであり、弔いの歌は泣くためでしたが、彼らはそのような笛と弔いの歌に反応しませんでした。当時の人々は心固い市場の子どもたちのようでした。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、イエスさまが来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言いました。」それは彼らが悔い改めを拒んだからでした。子どもとしての素直さを無くしたからでした。子どもの姿、これは神様が求める、天の御国に入る条件でしたが、彼らは子どもの姿を無くし、大人になりすぎていました。イエスさまは24節まで、彼らへの神様の審判が厳しいことを予言しました。その代わり、25節を見ると、イエスさまは神様による驚きの悟りを得ています。25節を見ると、イエスさまはこう言われました。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」幼子のようなこころが、神差なお御国にかなうことでした。バプテスマのヨハネが幕開きに努めた御国、神様が治める御国、神様の祝福と安らぎが訪れる御国は、賢いものや知恵のある者のためにではなく、幼子たちのためにご用意されているということでした。天の御国は幼子のような人たちに開かれています。笛には踊りを踊る子ども、弔いの歌に悲しみ、涙を組む、そのような人々に神様の御国は開いているのです。

また、イエスさまはそのような人々が、神様によってわたされていることを悟ったのです。27節、「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」イエスさまは12弟子が、神様により定められたこと、福音を喜んで受け入れる人も、神様により選ばれた幼子たちのような人々であることを、感謝しています。

今日の御言葉を見ると、私たちは、また、私たちの友人や親せき、子どもたちが、知恵のある者、賢い人になることを願うより、幼子のようになることを願うべきです。素直で純粋な人になることを求めるべきです。それが天の御国に近いからです。

28節をご覧ください。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

これはイエスさまがすべての人々、疲れた人、重荷を負っている人々に、神の御国へ招待をする内容です。疲れた人、重荷を負っている人とは世のすべての人々のことを指します。なぜなら、世の人々は誰でも、疲れています。誰でも、重荷に苦しめられています。疲れた時、重荷を負っている時、私たちは何をしますか。布団に入り、居眠りをする人がいます。普通の人々のパターンでしょう。心配をしすぎて、神経質になっている人もいます。心の安らぎを感じることがなく、不安だらけの生活に見舞われている人々もいます。イエスさまはこのような私たちを指して、「疲れた人、重荷を負っている人」として表現しています。そして言われます。「わたしのところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。」これはイエスさまのお約束です。イエスさまのお約束は必ず実現します。イエスさまのお約束は神様が保証をしています。それでは、どのような人々が休みを取ることができますか。イエスさまのところに行くとは、どんなことを指しますか。イエスさまのところに行くとは、イエス様のことを思い出すことであり、イエス様の言葉を読むことであり、イエス様にお祈りをすることを意味します。イエス様に、人生の様々な相談をすることを指します。その時に、どうなりますか。イエスさまはお約束しています。「私があなた方を休ませてあげます。」疲れをとらせてくださると、お約束しています。重荷をかついでくださると、お約束しています。続けて言われます。

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」私のくびきとはイエスさまが与えるくびきを指します。私たちの周りに発生するすべての仕事に関与する神様の指示です。私たちはすべてのことに、心から素直に従順すべきです。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23