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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その12 --> 問題紙

神を恐れなさい

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 10章16節~42節
要 節:マタイの福音書、10章28節 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

マタイの福音書10章の前半部で、イエスは12名の弟子を指名しました。そして、彼らに『天の御国が近づいた。』という福音を述べ伝えるよう命じられました。神様の国、神様が治める国、神様が関与する国が近くに来ていることを述べ伝えるよう、命じられました。そして言われました。「家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。」弟子とは平安をもたらす使者であることを、明らかにされました。

今日の御言葉でも、12名の弟子たちの任務、役割、姿勢等について話をしています。特に、12弟子の姿勢についてイエスの要求があります。12弟子はどのような姿勢を保つべきでしょうか。12弟子はどんな人々でしょうか。今日の御言葉を通して、12名の弟子たちに求められた姿勢を学びますよう祈ります。

第一に、蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい。

イエスが弟子たちに求めた姿勢の第一は、蛇のようにさとく、鳩のように素直であることでした。弟子の姿勢について、このようなお話をする前に、イエスはこう話しておられました。「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。」羊は牧者がいなければ生きていけない動物です。草食動物であるがために、肉食動物のえさになる性格を持っています。彼らは間違いなく、オオカミの標的になります。いつ食べられてもおかしくない環境に、イエスは送り出そうとしています。イエスの心配は大きいものでした。イエスは続いて言われます。「ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」蛇のようにさとくとは、英語ではbe as shrewdとあり、賢く、賢明な、という意味です。つまり弟子たちには賢さ、鋭さ、知恵のある姿が必要である、ということです。また、鳩のように素直を求めています。英語でbe as innocentとありますので、純粋に、純潔に、無邪気にという意味です。ピュアな心でありなさい、という意味です。簡単にいえば、牧者に頼る素直さをもって、牧者の賢さと賢明さを備えなさい、という意味です。羊はオオカミに負けますが、羊に仕える牧者がいれば、話が異なります。羊の命を狙うオオカミは牧者によって命が危ないのです。真の牧者は羊のために、命をも捨てる準備ができているのです。

羊のような弟子たちはオオカミに露出された生き方をしなければいけません。弟子たちは素直に神様に頼る必要があります。神様の知恵と鋭さを身にまとう必要があります。そうでなければ、オオカミに食われてしまう命であり、食われてしまう運命であるからです。

ですから、人々には用心すべきです。彼らはあ弟子たちを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。また、弟子たちは、イエスのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。人々が弟子たちを引き渡したとき、弟子たちはどのように話そうか、何を話そうかと心配するでしょう。しかし、イエスは彼らに「心配するには及びません。」と断定します。なぜでしょうか。「話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのは弟子たちではなく、弟子たちのうちにあって話される父の御霊だからです。」

弟子たちがどのようにして、さとく、素直になれますか。徹底して、弟子たちとともにする神様を信頼することです。お話を聞いておられる神様に信頼することです。徹底して、神様に祈ることです。神様がおられることと、近づく者には神様が報いてくださる方であることを、信じなければなりません。そのような人々を、神様は牧者となられ、その命をも捨てて、羊たちのために働かれるのです。 一生涯を、神様とともに歩いたタビデは詩篇の23章で、この神様のことを次のように歌っています。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」弟子は徹底して神様に頼る人を指します。

第二に、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

今も私たちは、テレビや新聞ニュースを見るたびごと、恐ろしい社会、恐ろしい人間社会のためにぞっとする時があります。兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせるからです。連日のように、このようなニュースは断ち切れることがありません。その上、弟子たちはどのような危険にさらされていますか。22節を見ると、「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。」とあります。弟子たちは「イエス」という名のゆえに、憎まれる対象になるのです。普通の人々でも怖い人間社会なのに、弟子たちはそれに増して、憎まれる対象となるのです。

正常な人なら、このような信者に名乗るような生き方を取りたくありません。普通でも怖い世の中なのに、彼らに憎まれる信者になることは、ますます恐ろしい環境に自分自身を処せられるものです。イエスをベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族や弟子たちのことは、何と呼ぶでしょう。彼らは私の命を狙い、いろんな策略をたて、オオカミのように攻撃を仕掛けます。弟子たちや信者たちの命はオオカミに露出された羊の身です。イエスはこのような弟子たちに言われます。22節の後半部をご覧ください。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」

命が危うく、恐れおののいている弟子たちが、どのようにして最後まで耐え忍ぶことができますか。イエスはその応えについて次のように言われます。「おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。」聖書の話はおおわれているものです。信者が信頼しているものは隠されているものです。手のひらにおいて説明できるものではなく、理性に応えるようなものでもありません。信頼している神様は目に見えるものではなく、手で触れるようなものでもありません。暗闇に覆われています。しかし、これらすべては明るみに出る時がきます。正しいことは必ず、正しいこととして証明される時が来ること、これを信頼するのが信者です。信者は私たちの信仰の対象、神様が最後には、すべての人々にあらわれ、明らかにその存在をアピールすることを確信する者です。こうして、最後まで耐え忍ぶものが、信仰の勝利を飾るのです。

もうひとつは、恐れる対象についてです。イエスは言われます。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」私たちは恐れの対象を変えるべきです。恐れの対象は確か、体を殺す人々です。人生を殺す人々です。命を殺す人々です。彼らは怖い存在です。しかし、イエスは本当に怖い存在は、彼らではなく、体だけでなく、魂までも裁かれる神様であると教えています。オオカミは羊たちの命を狙いますが、それ以上は手が出せません。それに対して、私たちの神様は命はもちろん、人生はもちろん、その生死を左右する力をお持ちですが、それだけではありません。私たちの魂をも裁かれるお力を持っているのです。私たちが恐れかしこんで、おくべき方は「神様」なのです。この神様を恐れるとき、私たちは信仰を全うして、最後の勝利を手にすることができるのです。

この神様はどんな方ですか。イエスは二羽の雀のたとえを離してくださいます。二羽の雀は当時、1アサリオンで売られていました。1アサリオンとは安い値段で売られた、という意味です。一羽は値段も付けられない、ことを指します。それほど安い値が付いている雀さえも、神様の許しがなければ地に落ちることがないのです。神様の許しがなければどんなに高い値段を出そうとしても、買えないものなのです。また弟子たちに言われます。「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」神様は私たちの髪の毛一本一本も数えて、覚えておられるのです。昨日何本抜けて、明日は何本残るのかも、神様は把握しておられるのです。神様によって把握されないものはないのです。ましてや、信者の人生や命はどうなのでしょう。神様の許しがなければ、その人生や命をいくら強いオオカミであっても、触ることすらできないのです。このような信仰により生きる人は、最後の勝利を手にすることができるのです。

第三に、自分の十字架のためイエスについていけないものは弟子の資格がないのです。

弟子は地に平和をもたらすために呼ばれたものではありません。地の平和とは地の考え方と共存することを意味します。彼らとトラブルがないことを意味します。イエスの弟子たちの考え方は地に対してはトラブルメーカです。その父と、その母と、そのしゅうとめと逆らわせるために呼ばれたのです。中には家族とも敵対するかもしれません。真理の教え、聖書の教えを守るために、世の人々と、家族と対立することが起こりえます。避けられないものです。しかし、最後は真理が勝利を飾るのです。正しい方、神様に勝利がき飾られるのです。

信者であるから水一杯をくれない人がいるでしょう。信者だからと言って一緒に仕事したくない、という人もいるでしょう。しかし、イエスの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、どうなりますか。イエスは言われます。「まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

弟子は小さい者のうちにあります。微々たるもの、存在すら分からないもの、無視してしまえば踏みにじられてしまうものの中に弟子は存在ます。神様がおられることと、近づく者には報いてくださる方であることを、信頼する者たちがいます。イエス・キリストの弟子たちです。しかし、彼らは小さく、存在が見当たらず、踵で踏んでしまえば、死んでしまいそうな存在です。しかし、もし、そのような彼らがイエスの弟子だからといって、水一杯飲ませる人がいるのなら、神様の人々を大切にする人々に、神様からの報いが漏れることはありません。神様は彼らを、それ以上に大切に考えているからです。大切に考えている人々のために、水一杯を与える人に、神様の報いが漏れることはないのです。

以上から、信者の姿勢について学びました。信者は神様に頼る人です。どんなことをも、神様に頼り祈りをもって物事を進める人です。信者は神様を恐れる人です。私たちの体を、人生を、命を殺すオオカミのような人々も怖いですが、もっと怖い存在は神様であることを知っている人々です。最後に、信者は神様によって数えられ、完璧に保護されている存在です。どんなことがあっても、このような神様の保護から逃れることはないのです。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23