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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その10 --> 問題紙

罪人を招くために来られたイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 9章1節~38節
要 節:マタイの福音書、9章13節 「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

マタイが記録した福音書を勉強していますが、今日の御言葉にはマタイがイエス様との出会いについて記録しています。マタイはイエス様に出会ったあの、感動的な出会いを、「中風の人」「死んだ会堂管理者の娘」「悪霊に取りつかれた人」「おしと盲人」などの人々がイエス様に出会ったことの中に記録しています。マタイは自分自身のことについて、罪人として紹介しています。彼はどんな罪びとでしたか。彼はイエス様に出会ってからどのように変わりましたか。今日の御言葉を通して、私たち一人一人がイエス様に出会う、罪びととなりますよう祈ります。

1節をご覧ください。イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。「自分の町」とはどこを意味しているのか、よくわかりませんが、ご自分に慣れた町、親しまれた町、人々に良く知られている町のことを意味することでしょう。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来ました。イエスは彼らの信仰を見た、と記録しています。中風の人を床に寝かせたまま、イエスさまのところに連れてきた彼の友人の信仰を見られたのでした。これを見ると、彼らの行動には信仰がありました。どんな信仰でしょうか。イエス様に連れていくだけでも、きっと、中風の人は治るという、信仰でした。

中風とは脳卒中などの、脳の障害で体が動かなくなることを指します。本文の中風の病人は寝かせられたままの症状でしたので、杖に頼って歩くことすらできない、重度の病人でした。当然のことながら、イエスさまは彼の症状を認知されていたことでしょう。しかし、イエスさまは中風の人の病気よりも大事に扱われたことがありました。彼らの信仰、でした。彼をイエスさまのところに連れてきた友人の信仰でした。イエスさまは中風の病気の状態よりも、彼らの信仰を見られました。そして、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われました。

人々は中風の病人の問題は、脳の障害だと思いました。なんとかして、脳の障害が解決できれば、中風の病人は癒されるのだと考えました。彼の友人たちも同じく考えました。イエスさまがもしかしたら、彼の脳の障害を、神様の力で顔してくださるかもしれない、イエス様なら、彼の問題をきっと解決してくださると信じていました。しかし、イエスさまは彼の問題を、「脳の問題」でなく、「罪の問題」と診断しました。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」

彼はどんな罪の問題があったのでしょうか。体が動かないので、盗むことも、情欲的な罪を犯すこともできなかったはずでした。彼が目に見える形の罪を犯すことは無理な話です。それでは彼にはどんな罪の問題があったのでしょう。聖書での罪とは、裁判官が判断するような罪とは異なる面があります。聖書での罪とは人間が神様との正しい関係にないことを指します。神様との不和の関係にあるとき、聖書は人間が罪の状態であると説明しています。中風の病人は頭の中に神様への賛美と感謝より、不平不満に満ちていたのです。何で、私の人生はこのようになったのだろうと、神様はなぜ、私をこのような悲しみに落とされたのだろうと、神様との関係が仲良くなかったのです。イエスさまは彼に言われました。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」そして、言われました。「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」すると、彼は起きて家に帰りました。彼は体を動くことすらできなかったのに、寝床をたたみました。彼は歩くことができなかったのに、歩いて家に帰りました。彼の意志とは関係なく、神様を賛美する、神様の行いを喜ぶ、神様の存在を認め、神様のあわれみを求める友人の信仰のため、彼は神様への不平不満と神様を認めない罪が許されました。彼への罪が許されると、彼は体の病気が治りました。

神様との関係が不和の関係にあるとき、私たちは解決できない問題に悩まされます。どこから手を出せばいいのかが分からず、中風の病人のように、床を寝ころんだまま生きる人生になります。しかし、神様の存在を認め、神様の働きを受け入れる人には、中風の人のような人生問題から解放されます。どんなに神様を拒否し、神様を認めない人も、友人の信仰により神様との正しい関係になることができます。神様は人間の罪のために、イエス・キリストを十字架につけられ、完全に、人間と神様との間に立たされた罪の問題を解決されたからです。イエス・キリストへの信仰は罪の重荷に苦しむ人生を喜びと賛美の人生に変えられます。イエス・キリストの御名を賛美します。

9節をご覧ください。イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になりました。マタイには話しかける人がいませんでした。マタイが座っている収税所の近くには人の姿もあまりありませんでした。人々は彼が座っている収税所の近くを通りませんでした。収税所の周りには近づこうともしませんでした。マタイは自分のためには民族も、先祖も売り払う人でした。お金のためにはどんなにひどいことも平気で実行できるひとでした。人々はマタイが大嫌いでした。しかし、イエスさまは彼に話しかけれら増した。「わたしについて来なさい。」

イエスさまはマタイがお金や自分の利己的な願いに従って生きるのではなく、イエスの願いに従っていく人生をスタートするようにと導かれました。自分の希望や夢ではなく、神様の願いと神様の夢に人生の軸を置いて歩く人生をスタートするようにと導かれました。「わたしについてきなさい」マタイは中風の病人とは違った人でした。マタイのような人を、この世の人々は好みますし、求められています。マタイは能力ある官僚ですし、一級の公務員試験に合格したエリートです。私たちの目からして彼は丈夫だし、安全な人生が保障されています。理想の旦那さんですし、社会が好む人材です。しかし、本文からすれば彼は寂しさと孤独さにさいなまれていたのです。友人が多いような気もしましたが、いざとなったときには誰一人自分の友人になってないことをさびしがっていたのでした。収税所に座っていた彼に声をかけられたイエス様のお話は、彼の人生の光となりました。彼は大勢の友人、収税人たち、官僚たちを集めてパーティを開きました。彼らはみんな、律法学者たちからすれば罪人ばかりでした。律法学者たちは彼らと食事をしませんでした。彼らに近づくことすら恥ずかしく思っていました。一緒になることすら拒んでいました。しかし、イエスさまは彼らの食事会に招かれたとき、喜んで行きました。彼らと一緒の食事会におられました。すると、パリサイ人たちがイエスの弟子たちに言いました。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

人々は収税所に座っている収税人を丈夫な人、いや丈夫すぎて困る人と思っていました。丈夫すぎていやな人だと考えていました。丈夫すぎて相手にならないと考えていました。いやになるほど、頭がいい人だと思っていました。しかし、イエスさまは彼こそが病人であると指摘しています。そして言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

わたしたちは正しい人と付き合いをしたいと思います。病人や罪人とはお付き合いしたくありません。問題のある人とは距離を置きたいと思っています。彼らは心がへこんでいて、まともに話ができないし、いざとなったら攻撃してくる危険人物が多いからです。私たちは丈夫な人と付き合いをすることを好んでいます。しかし、イエスさまは言われます。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」そして、言われます。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」

神様が私たちに求める者は何でしょうか。人々はいけにえだと思っています。しきたりだと思っています。祈りの時間になると、祈りをし、礼拝を守ることを大事に考え、収入の10分の1をささげることを怠らず、食事の祈りはもちろん、毎日の聖書を読む時間を守ることを、神様は最も願っていることだと思いがちです。しかし、イエスさまは言われます。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」私たち人間が神様に捧げるものは大したことではありません。10分の1も、ささげること自体、信仰が必要で、大事なことですが、神様からすればちっぽけなものです。神様はこれらの形よりも、求めていることがあります。それはあわれみです。人を思いやる心、愛、です。それで使徒パウロは、コリントへの手紙の中にこう、記録しているのです。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」愛があれば、希望がわき出ます。愛があるところに健全な信仰の形が作られます。あわれみがいけにえよりも大切なものです。神様はあわれみはこの無がいけにえは好まないからです。

以上から、私たちはどのようにすれば、神様からして丈夫なひとになれますか。中風の人が、収税人がどのようにして丈夫な人に慣れたのでしょうか。それは、心から神様を認めること、救い主、イエス・キリストの許しを受け入れることにあります。私たちが一人一人、心から神様を認め、主・イエス・キリストを賛美するものとなりますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23