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2010年長崎UBF、星を数えよう会、講義1 --> 問題紙

さあ、天を見上げなさい

Messenger:MSN.David

御言葉:創世記、15:1-21
要 節:創世記、15:5「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。』」

私は若かった時、哲学のエッセイ集を読むのが大好きでした。今でも思い出す、好きだったある哲学者の言葉の中に、「一日、一回は、天を見上げなさい」という言葉がありました。何となく好きだったこの言葉を実行するために、私は朝起きあがると、あるいは一日一回は、道を歩いているときも、天を見上げる習慣をつけようと努力していました。しかし、天を見上げて何するんだ、と問いかける心の疑問の声には、どう答えればいいのか、わかりませんでした。ただ、天を見上げることだけが格好良く見えていたのでした。私はこのような行為を、自己満足の材料としていました。意味もわからず行っていた行為でした。

今日の御言葉のタイトルがそれと同じく、「さあ、天を見上げなさい」です。その深い意味が何でしょうか。なぜ、神様はアブラムに、天を見上げるようにと、言われたのでしょうか。なぜ、神様は怖れと心配症に悩まされていた、アブラムに『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」と言われたのでしょうか。今日の御言葉を通してその深い意味を探るくとができますように祈ります。

15章の1節には、このように記録されています。「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』」ここでいう、これらのでき事とは、当時、複雑な国際関係の中で愛していた甥ロトのために戦争に巻き込まれた、ことを意味します。戦争は勝った国も、負けた国も、お互いに被害が多大です。おたがいに殺し合う暴力行為の戦争は、勝ち負けがありません。アブラムは甥ロトのために参戦した戦争で、人々がうらやましがるほど勝利を収めました。しかし、これらの出来事ののち、アブラムは怖れにさいなまれていました。戦争で勝ったものの、敵を作ってしまった今、彼は人々から殺されるかもしれない恐怖感と、心配性に悩まされるようになりました、。いざ見てみると、彼の周りには見方や自分を守ってくれる人よりも、敵だけが存在していました。彼を守る人も、彼の見方もない今、彼は最大の見方、最大の守りである「息子」がほしくなったのでした。当時、息子は財産でもあり、一番の頼りがいのある味方でもありました。当時、アブラムには多くの財産も、しもべも、ありましたが、結局は敵に回される可能性のある人々ばかりで、「一番の財産であり味方」の「息子」はいませんでした。

創世記の12章で紹介されるアブラムは75歳でしたが、まだ息子がありませんでした。生まれ故郷は、父の家でもあった「カルデヤのウル」でしたが、尊敬していた父親のテラが生まれ故郷を離れて、カナンに行こうと旅立った時、同行し、途中の「カラン」で住み着きました。しかし、その時まで頼りにしていた父親を、そのカランで亡くしました。旅先のカランで頼り所もなかったアブラムは、はじめて、一人立ちの厳しい環境に迫られました。その時、アブラムは父親の家がある「カルデヤのウル」、生まれ育った故郷に戻る計画をしました。アブラムにとって頼りがいのある所は故郷「カルデヤのウル」でしたし、父親でした。尊敬していた父親、父親の故郷であり生まれ育った町でもある「カルデヤのウル」に戻るのは当たり前のようなものでした。その時、神様がアブラムに関与されました。神様のアブラムへの関与は、アブラム心の低さを意味するし、切なる心、求める心、懇切な姿を想像させます。

マタイの福音書5章8節には次のように記録しています。「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」神の声が聞こえるアブラムは処せられた人生に対して、真剣で素直に、向き合っていました。このアブラムに神様の言葉が臨みました。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」この言葉の意味が何でしょうか。意味は深いですが、端的にいえば、今まで頼りにしていた父、今、戻ろうとしている父の家を頼るより、「神様を頼りにする新しい人生の出発」を、神様から勧められたのでした。つまり、見える父親、見える故郷を頼りにしていたことから、見えないが言葉でご一緒する、神様を頼りにして、生きる新しい人生の再出発を勧められたことです。

皆さんは、このような誘いがあった時、どうされますか。頼りにしていた父親について、生まれ故郷のカルデヤのウルを離れ、カランという旅先で、突然、父親を亡くした時、頼りがいのあるものは、生まれ故郷しかないとき、この故郷、父の家に戻る計画をしている時、神様の御言葉が誘われる声に、どう対処されますか。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」可能性が目に見える父の家、親戚たちが住んでいる故郷を選びますか、可能性が見えない、しかし、契約と約束を基にする、神様の言葉を選びますか。泣きわめきながら、自分の人生を恨みますか。

創世記の12章4節と5節は、次のようにアブラムの選択、アブラムの行動を記録しています。「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。」アブラムはなんと、見えないが約束のある神様の言葉についていく決心をしました。見えない神様を信頼し、神様の約束と契約の御言葉に頼る人生の出発をしたのでした。彼が見える故郷を信頼し、頼りにしていたのであれば、カルデヤのウルに戻ったことでしょう。しかし、アブラムは見えない神様を頼りに、神様の言葉を頼りに、人生の出発をしたのでした。その言葉には契約と約束がありました。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」という言葉でした。これはやがて、子孫をくださる、また、息子をくださる、という具体的な神様の約束でした。

しかし、15章に入って、アブラムは見えることを頼りにせず、戦争で勝っても財産を増やすことより、見えない神様を頼ることへの今までのスタンスから変化がありました。神様への不平不満と疑いが生じました。本当に、神様への信頼は自分の息子を得る手段となるのだろうか、と本当に、見えない神様を頼りにして、いいのだろうか、と心配しはじめました。戦争で勝っても、戦利品を頼りにせず、神様への信頼を誓ったアブラムでしたが、15章に入って、疑いと心配と恐怖感にさいなまれていたのでした。本当に、見えない神様に頼っていいのだろうか、神様の御言葉を頼りにする人生は大丈夫だろうかという、疑いを始めたのでした。

15章1節をご覧ください。「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』」神様は依然として、アブラムに受ける報いが大きいと、言われました。大丈夫だ、心配するな、という声でした。神様自身が立てであり、報いは大きいといわれました。しかし、アブラムは神様に反論しました。2節と、3節をご覧ください。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」アブラムは神様を信頼してきましたが、神様は信頼できない、と言い切ったのでした。そして、自分の奴隷を、自分の息子にする、と宣言したのでした。神様への信頼が揺さぶられていました。神様の言葉への信頼が薄くなり、神様任せでは人生はぼろぼろになると考えたいのでした。そろそろ、神様頼りではなく、自分の計画通りに、息子を作る計画を始めるべきだと思っていたのでした。

私たちの信仰生活というのはすべての面において、神様に信頼を置くことを意味します。神様への信頼を生活の根源に置く生活です。そのために、ある信者は神様の言葉を一日一回読んで生活したり、朝の祈りを忘れずに行ったり、神様の言葉を机の上に書き記しておき、見えるところに張り付け、自然に目がいくようにも努力したりします。しかし、アブラムのように、私たち信者はいつの間にか、このままでいいのかという、心配症が心を揺さぶります。本当に、このままでいいのか、本当に心配しなくていいのか、と思う時が来ます。何とか息子づくりを始めなければいけないのではないか、このままでは私の人生、すべてがパーになってしまうのではないか、と思われるときがあります。それが、15章のアブラムの心境です。

その時に、神様がアブラムに言われた言葉がこれです。4節、「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」待っても待っても生まれない息子のことを指して、神様は、「あなた自身から生まれ出て来る者」としていました。現実的に考えて、ありえない、考えられない、奇跡としか言いようがない、息子を、神様は用意しているということでした。今、現実的に考えられる息子は「ダマスコのエリエゼル」「アブラムの家の奴隷」でした。しかし神様は、これらの現実的に見えるものを、相続人にしてはならない、といわれました。今考えられない、想定できない、現実的でない、ありえない、奇跡としか言いようがない、ことを実現してみせる、神様への信頼をつかむように、と言われました。

ここで、私たちは大事な信仰人としての正しい姿を教えられます。それは現実や見えることより、優れた事を考える、創造者・神様に期待することであり、神様の約束を、どんな場合にもつかみ取ることである、ということです。5節をみると、神様はそのアブラムを外にお連れして、おおせられました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」私たちが星の数を数えられますか。海の砂の数が数えられますか。私たちにはできないのです。しかし、神様はこれだけの星を、これだけの砂を、おつくりになられた方です。神様は、さらにこう仰せられました。「あなたの子孫はこのようになる。」神様はアブラムに、天を見上げて、神様をみるようにと、言われました。奇跡としか言いようがない自然現象を、今もなお動かしておられる神様、を見上げるようにと言われました。そして、数えても数えても、数え切のない星の数をおつくりになられた神様を見上げるようにと言われました。そして、言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」これはアブラムに対しる神様の具体的なお約束でした。そのお約束の神様を信頼するように、と言われたのでした。「ダマスコのエリエゼル」「アブラムの家の奴隷」で子供を作ろうとする愚かさを捨てて、全能な神様、驚くことを計画する神様を見上げるようにと言われました。目の前の奴隷を息子にしようとする、愚かさを捨てて、本当の息子を作ってみせる、神様を信頼するように、と言われました。そして、宣言されました。「あなたの子孫はこのようになる。」

アブラムはどうしましたか。6節、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」今の状況からしては考えられない、想定できない、現実的でない、ありえない、奇跡としか言いようがない、神様の言葉を、アブラムは信頼しました。その約束をつかみました。今、目の前に見える「ダマスコのエリエゼル」「アブラムの家の奴隷」をはるかに超える、星の数の息子を期待しました。そして、神様への不信感を悔い改めました。神様への信頼を今一度、回復しました。「彼は主を信じた。」神様はこのアブラムの神様になることを恥とされませんでした。むしろ、その約束を実現する計画を出動させられました。神様はアブラムの信頼をないがしろにされませんでした。神様はアブラムに、空の星のように、海の砂のように、数えきれない信仰の子孫を与えられました。この神様を感謝賛美いたします。

私はちょうど、20年前に、神様のお約束をつかみ、長崎に渡ってきました。私には考えるたびごと、涙が出る祝福に包まれています。しかし、一方ではアブラムのように、信仰の子孫が生まれないことへの不安と、あきらめ、不平不満がありました。「ダマスコのエリエゼル」「アブラムの家の奴隷」から、子孫づくりを始めようと考えていました。しかし、この時間、主は私に言われます。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」「あなたの子孫はこのようになる。」私が改めまして、この言葉を主の約束の言葉としてつかみ取り、信じます。不信仰を悔い改めます。神様が長崎に数えきれない信仰の子孫をおつくりになることを確信します。私が死ぬまで、このお約束の言葉をつかみ、揺らぐことがないように、お助けください。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23