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2010年長崎UBF、イースター、その2 --> 問題紙

復活の力

Messenger:MSN.David

御言葉:コリント人への手紙第一、15:12-34
要 節:コリント人への手紙第一、15:22「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」

Happy Easter !!

死の勢力を打ち勝ち、復活されましたイエス様を賛美いたします。イエス・キリストの中で、私たちにも復活への希望と夢を与えてくださいましたことを感謝いたします。パウロは当時の人々に確信と証拠を持って、イエス・キリストの復活を証言していました。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」パウロは500人以上の人々が生きている時代、この復活を証言していました。復活は彼らが生きている時代、いつでも、事実が確認されるものでした。生きている人々の前で、彼らの復活の証言は間違いない事実でした。

しかし、今日の御言葉の、12節には次のよな記録があります。「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」イエス・キリストの復活が確実であった時代、コリントの人々の間には、「死者の復活はない」と言っている人々がいました。「イエスは特別だ」と主張しました。イエスは突然変異だ、と主張しました。たまたまだ、と主張しました。そんなことはこれからもない、と言っていました。なぜでしょうか。それは復活が大変信じがたいものだからです。復活は私たちの頭で理解できるものではありません。その奥義は深く、神の計画と領域のものだからです。

しかし、パウロはいくつかの事実を持って、復活を証言しています。

第一に、復活がないのなら、キリストの復活もないことになるのです。

当時の人々にとって、キリストの復活は間違いない事実でした。見た人が多く、覆すことのできない事実でした。しかし、彼らはこの事実があるにもかかわらず、復活を否定していました。「イエスの復活は特別だ。イエスは突然変異だ。たまたまだ。まれなもので、その一回以上はない、と主張しました。しかし、このような主張をパウロは13節で、次のように切り捨てます。「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。」パウロはキリストの復活が既定事実であれば、復活がないという話自体がおかしいと主張しています。復活はキリストを持って事実が確認されたものでした。イエス・キリストが復活されたので、復活の初穂が生まれたのでした。復活はイエス・キリストにより幕開きになったのでした。キリストの中で、私たちも復活への希望と夢を持つようになりました。

第二に、復活がないのなら、宣教も、信仰も、実質のないものになります。

14節をご覧ください。「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」復活の事実を抜いた宣教はないとパウロは主張しています。また、復活の事実を抜いた信仰もないと話しています。歴史史上初の異邦人のための宣教師、パウロは復活を伝える証人として選ばれていることを、心から確信していました。パウロは復活の事実がない宣教はない、と断言してました。宣教は復活を述べ伝えるものでした。そのためにパウロは神に選ばれました。この宣教によって信仰が生まれ、救いが生まれました。しかし、復活がないものなら、この信仰も、救いもないものとなります。復活はパウロの福音のカギなのです。

第三に、復活がないのなら、パウロは偽証罪に問われます。

15節をご覧ください。「それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。」パウロにとって神様への偽証は一番恐ろしいものでした。神様の前に生きていたパウロにとって、神への偽証は死罪に当たるものでした。ですから、もし復活がないのならパウロにとって一番致命的なものでした。パウロは15節の最初に、「それどころか、、、」という言葉でことの深刻さを強調しています。英語では、「More than that,」とあります。そんなばあいではない、そんなものではない、と言っているのです。パウロからして神様への偽証は考えられないものだったからです。

ここで私たちはパウロの生き方やパウロの強さの根源について学びます。それはパウロが神様の前に立って生きていたことです。神様の前に立って、神様の前ではどんなことがあっても偽証をしないことを心から誓っていたパウロは、人々の前で強いものとなりました。すべての上にすべてとなられる神様の前で立っている時、パウロは人を恐れたり、組織を恐れたり、周りの環境を意識することはありませんでした。パウロは王の前でも、総督や皇帝の前でも、堂々として宣教師として生きることができたのは、神様の前に立つ、確実な姿でした。

私は15節を見ながら、どれだけこのような姿、神様の前に立つことが立派なことなのか、改めて悟ることができました。そしてそれが人生の根源にあるとき、すべての力がそこから生まれるのだと、言う事実を深めることができました。私は信仰人でありながら、どれだけ神様の前に立つことへの確信と信念が弱いものなのか、改めまして反省するきっかけとなりました。どんなに人を意識しながら生きていて、どんなに周りの環境を気にしながら生きているのか、悟りえました。パウロにとって一番の恐怖は、神様に偽証をすることでした。復活がないのなら、パウロは偽証したものとなること、こんなに恐ろしい偽証罪に処せられることを、伝えました。パウロは強く強調しています。イエス・キリストは復活されましたことを、また、復活は神によって私たちに与えられた福音であることを。

第四に、復活がないのなら、私たちは依然として罪の中にとどまり、かの日には厳しい審判が下される存在となります。

16-17節をご覧ください。「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまいます。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。その希望が成就しない希望なら、どんなにかわいそうな存在でしょうか。もし、そうであれば、世の中でも一番かわいそうな人物は、キリスト教信者でしょう。

しかし、パウロは確信強く話しています。20節「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」パウロは当時、既定事実として知られていたキリストの復活は、眠ったものの初穂であると伝えました。初穂とはこれから生まれるものの模範となったことを意味します。これから、初穂のイエス・キリストに続いて私たちをも、不思議な聖霊を身にまとう、その時が来るのだと、伝えています。死がひとりの人を通して来たように、同じように、死者の復活もひとりの人を通して来たのです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでしまったように、キリストによってすべての人が生かされるのです。

私たちは一人として例外なく死者の中に迎え入れられる存在です。私は最近、その時がずいぶん近づいていたことを感じるようになりました。今年80を迎える父親が、長くても10年だなぁ、と先日お会いしていた時に言っていました。私の手が震えることを見ると、妻は私の手を握りながら、早く死んだらだめよ、と言ったりします。子どもがまだ小さいから、、、という言葉を濁しています。しかし、私たちは誰でもこのような結末を迎えなければいけない存在です。しかし、聖書は死んだ後に、すべてが終わりではないことを教えています。死んでしまったらすべてが終わると、人々は考えますが、しかしパウロは言います。「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」生かされる人がいれば、裁かれる人が生まれるのです。死んだ後には審判が待っていて、第二の死が用意されていると聖書は教えています。しかし、その時に、イエス・キリストが復活されたように、そのように、復活を身にまとう人が生まれるのです。弱いものに巻かれ、強いものとして蘇らされるのです。卑しいものに蒔かれ、聖なるものとして蘇らされるのです。

しかし、しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。世の終わりです。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになります。この誘惑は悪い友人の声です。その人々によって私たちの良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめるべきです。神についての正しい知識を持っていない人たちが私たちの周りにはたくさんいます。死んでしまったらすべてが終わるわけではありません。最後の、審判が待っています。人生の清算をする方が私たちを待っています。その時に、死んだらすべてが終わりだと言いながら、飲み食いを楽しんだ人々は、裁かれます。しかし、人生の最後の清算を真剣に見つけた人々、特に、キリストの復活を信じ、受け入れた人々には栄光の復活が待ち構えています。

この四月、私たちの心が復活に満たされますよう祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23