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2010年長崎UBF、イースター、その1 --> 問題紙

復活の福音

Messenger:MSN.David

御言葉:コリント人への手紙第一、15:1-11
要 節:コリント人への手紙第一、15:3,4「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」

今日から、イースターのための礼拝を三回に分けて行います。イースターとはイエスさまの復活を祝うものです。別の言葉で、復活祭とも言われています。復活は死んだ人が蘇ったことを意味します。私は小さいごろ、卵からヒヨコが生まれることをみて、不思議な感じを受けたことがあります。私の家のベランダには美しいチューリップが咲いていますが、チューリップの球根からはなかなかチューリップの花を想像することが難しいです。球根は枯れた草の根、葉っぱの塊のように見えるからです。しかし、卵からかわいくて美しいヒヨコが生まれます。球根からいろんな花が咲きます。同じように、私たちの体は死ぬことが決まっていますが、それですべてが終わりではありません。聖書は復活が待っていることを教えています。今回のイースター、復活祭を通して、私たち一人一人が復活を身近なものとして認識するものとなりますように祈ります。

15章1節の御言葉をご覧ください。「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。」パウロがコリントの人々に福音を知らせたいと言っています。福音はパウロがコリントの人々に伝えたもので、コリントの人々が受け入れ、それを信じたものです。福音はヘラ語ではユアンゲリオン(euaggelion)といい、良い知らせ(Good News)を意味します。もともとは戦争用語で、勝利を意味し、勝利した人に与えられる保証などを含むことばとして使われていたそうです。パウロはこの福音、良い知らせを、コリントの人々に知らせたいのだと言っています。2節「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」パウロが知らせたいのは福音による救いです。

人間は自分の力では救いを得ることができない、存在です。人はだれでも年をとるにつれて、人間の存在がどれだけ惨めなものなのか、悲しい存在なのかを悟るようになります。若い時には認められなかったものが、年をとればとるほど、私たちは人間が救いに値するものがない、ことに気づかされます。稲穂も熟すると頭を下げる、ということわざがありますが、まさにその通りです。人間は救いようがない存在なのです。若い人々からすれば納得のいかないものが多いでしょうが、その行いや生き様を見るたびごと、人間そのものについて絶望をします。神様の前で一人として救いを得るものはいないのです。

しかし、パウロはコリントの人々にこの救いを伝えています。それは彼が伝えた福音の言葉です。3節と4節をご覧ください。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」パウロはこの福音を、自分も受けたものであるとしています。また、聖書に示されたものであるとしています。パウロが伝えた福音はパウロが作り出したものでもなければ、パウロの頭から始めて生み出されたものではないものです。パウロも受けたもので、聖書に示されたものです。その福音が何でしょうか。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」です。

福音の第一に、キリストが私たちの罪のために死なれたことです。

イエス・キリストの物語は読めば読むほど、悲しい物語です。何の悪意もない、若いイスラエルの青年が、当時、ローマの植民地で、ローマの一番厳しい刑罰とも言われた十字架につけられ、死なれたのです。空も、大地も、泣き、空が暗くなって三時間も続いたのだと記録されています。有名な映画ベンハーでは、イエス・キリストの十字架の上での死ぬ瞬間を、風と雨て雷で間接的に表現しています。しかし、聖書はその悲しい十字架での死が、神様の罪びとへのさばきであること、イエス・キリストが罪を取り除くための神の子羊であったことを、事前に示していたのです。イエス様ご自身も、聖書の示し通り、罪を取り除くための贖いの子羊として確信をもって、従順されたのです。ベンハーの心の憎しみと復讐心が、解けたように、ベンハーの母親と妹のらい病が、イエス・キリストの十字架の苦しみののちに、不思議にも癒されたように、イエス・キリストの死の中で、私たちは罪からの逃れを体験するのです。先日、出張時に久しぶりに父親と再会しましたが、今でも私は父親に対する気持ちの変化、心の変化が不思議でなりません。そうしてはいけないと思いつつ、私の心の奥底に根強かった父親に対する憎しみといやしさが、根底からないのです。深い信頼と感謝に結ばれているのは、私がイエス・キリストを主として受け入れてからの奇跡です。皆さんも、もし、誰かに対する憎しみが心の中に残っているのなら、それは罪の勢力であり、その罪の勢力はイエス・キリストの十字架の上で完璧に解決できた問題です。まだ、尻尾が残って振り回されているのかもしれませんが、すでに頭は砕かれているのです。

福音の第二は、イエスさまは葬られたことです。

葬られたとは、罪へのさばきが完璧に行われたことを意味します。罪の勢力が墓の中に、暗闇に処せられたことを意味します。イエス・キリストの中で完全にその代価が支払われたことを意味します。ローマ人への手紙を見ると、罪は情欲の罪から始まって、次のように羅列しています。あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者、などがそうです。神様は聖書で、そのようなことを行なえば、死罪に当たると定めています。しかし、罪びとたちはそれを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。私たちは一人として例外なく、聖書に定められた罪びとであり、誰一人、神様の前で救いに値するものがいません。しかし、聖書はイエス・キリストが私たちの罪のため、死なれ、葬られたことを教えています。イエス・キリストの中で、私たち人間は、過去の罪、現在の罪、未来の罪をすべて葬ったのです。信者とはイエス・キリストの中ですべての罪が葬られたことを信じる人です。まだ尻尾が残っていて、悲しませたり、苦しめたりもしますが、それは本物ではなく、影です。この影も、イエス・キリストの再臨のときには完璧に砕かれ、形も様子もなくなるのです。イエスさまは私たちの罪のため、十字架で死なれ、葬られたのです。完全なさばきが、御子イエス・キリストの体に示されたのです。

福音の第三は、イエスさまは聖書に従って三日目によみがえられたことです。

イエスさまの蘇りは信じがたいものです。イエスさまが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたことも、神様の恵みがなければ信じられないものですが、三日目に蘇られたことはなおさらのこと、信じられない事実です。蘇りは見たことがなく、今もなお謎だからです。しかし、パウロはその蘇りについて次のように記録しています。「また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」パウロはイエスさまの復活を、今もなお大多数が生きていた時代、誰もが疑いを持って聞いたら、すぐにでもその証人が立てられることを話しています。これは覆されない事実であること、誰もが認めざるを得ない歴史的な証拠があることを物語っています。イエス・キリストの復活は当時、誰も否定できないものだったのです。パウロは引き続き、こう言っています。「その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」これは人から聞いた話ではなく、自分自身、復活されたイエスさまに対面したことを証言しています。

イエスさまの復活は聖書の言葉の真実を裏付けるものであり、神様のお約束が実現されたことを物語ります。イエスさまは十字架につけられる前から、何度も、三日目に蘇ることを予言していたのです。この蘇りは、神様がイエス・キリストの十字架を通して、私たちの罪を赦されることへのお約束の確証です。それだけではありません。イエスの復活を一番最初確認したペテロは、その手紙で次のように記録しています。ペテロの手紙第一、1章3節、4節、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」イエス・キリストの復活は信じる人々に天の御国へのお約束を与えるものです。

復活はイエス・キリストが与えてくださいました信者への最高のプレゼントです。私たちが一人一人、この復活を疑うことなく、受け入れ、この世においても罪の勢力から勝利を得、後に来る天の御国においてもイエス・キリストとともに暮らすものとなりますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23