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2010年クリスマス聖書勉強、その3 --> 問題紙

飼葉おけに来られたイエス・キリスト

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書、2:1-20
要 節:ルカの福音書、2:11-12「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

Merry Christmas !!

クリスマスとはどんな日でしょうか。子どもたちにはプレゼントがもらえる日、楽しい日であり、若者たちにとってはなんだかわくわくする日でもあります。長崎では今年度から、「長崎クリスマス」という行事を計画していて、24日、夕方からクリスマスのライトアップした町を、聖人たちが歩いた道をたどりながら歩くことを計画しているようです。是非、参加してみたいと思っているのですが、クリスマスはイエス・キリストの誕生の日をお祝いしている日なのです。

今日はローマ帝国時代、西暦1世紀時代、お医者さんであり、歴史家であったルカが記録したルカの福音書の中から、特に、クリスマスの意味、イエス・キリストの誕生の物語を記録したところを、学んでみたいところです。

1節の御言葉を見ると、「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」とあります。皇帝アウグスト、BC 31 - AD 14年まで合計45年間、ローマ皇帝として、ローマ帝国の最高の繁栄をもたらした時代の人物です。ローマ帝国の最高の全盛期、イエス・キリストの誕生の街、エルサレムを統治していたシリヤの総督はクレニオでした。その時、住民登録がありましたは、ローマ帝国は軍隊を維持するためのお金を、植民地の人々の一人頭いくらの「人頭税」を発案し拠出していました。

住民登録がある年には、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行かなければいけませんでした。それには例外が許されませんでした。「イエスの父ヨセフも、今住んでいるガリラヤの町ナザレから、血筋のユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行きました。」ヨセフは、ダビデの家系であり血筋でもあったので、生活の基盤を置いていたガリラヤの町ナザレから、先祖の土地、ベツレヘムに移動を強いられました。

5節を見ると「身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」とあります。ヨセフはいいなずけ妻が妊娠している状態でしたが、登録するためにガリラヤの街、ナザレからダビデの街ベツレヘムに旅をしなければなりませんでした。妊婦は歩くのが大変で子供の体重を支える足には負担が多く、旅には適していませんでしたが、ルカはお医者さんで、その身重になっているマリヤの大変さもよくわかっていましたが、長い旅道に強いられている時代背景を記録しています。皇帝アウグストの命令は誰一人例外なく、本籍地に行って、住民登録をしなければいけない、強制力がありました。

6節をご覧ください。「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。」とあります。男子の初子とは当時のイスラエルの習慣からして、喜びの知らせであり、歓迎される出来事でした。しかし、ルカはヨセフとマリヤの初子の誕生を迎えた様子を、次のように記録しています。「それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」これには深い意味があります。

ヨセフとマリヤの初子を、布にくるんで飼葉おけに寝かせた、ことです。

初子を飼葉おけに寝かせたことを、ルカはなぜ、記録しているのでしょうか。初子はふつう、大事に扱うものです。当時の飼葉おけはどんな雰囲気であったのか、想像できないものですが、一般的に考えて飼葉おけは馬小屋のための空間に置かれ、人間には適してない環境の、馬小屋の食事のために用意されたものです。馬小屋で、初子を生むしかなかったマリヤの心情はどうだったことでしょう。また、初子のために馬小屋しかご用意できなかったヨセフの心情はどうだったことでしょう。さらに、馬小屋の飼葉おけに寝かせられた運命的な生まれのイエス様は、その運命をどのように受け止められたのでしょう。

私たちはいくら悲しい運命であっても、馬小屋で生まれた人はいないでしょう。しかし、ヨセフとマリヤの初子、イエス・キリストは馬小屋で、布にくるまって、飼葉おけに寝かせられたのです。

ヨハネの福音書9章を見ると、イエスさまと弟子たちはある日、旅道の途中で、生まれつきの盲人に出会います。弟子たちは彼についてイエスにこう質問します。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」弟子たちは生まれつきの盲人の姿を、見るだけでも悲しく、かわいそうでしたが、その理由を、その人の罪、あるいはその両親の罪が原因だと思っていました。彼の悲しみは、その原因が彼にあったり、その両親にあったりする、と考えました。しかし、イエス様は弟子たちにこたえて言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」罪を犯したのでもなく、両親のせいでもない、神様のわざがこの人に現れるために、この人は生まれつきの盲人としてこの世に存在するようになったのだと、イエス様は見ておられたのです。私たちの目には運命的な環境も、私たちの目には悲しい状況も、神様からすれば、不思議な目的が込められているのです。

ルカは10節から12節の間に、イエス・キリストの飼葉おけでのお生まれを、御使いの声をお借りして、次のように記録しています。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」飼葉おけは悲しみと運命の場所だと思いがちです。飼葉おけは悲しみのしるしだと思いがちです。実際、そうです。しかし、神様の目から見れば、御使いの話からすれば、その飼葉おけは、救い主のしるしであると、言っています。民全体のためのすばらしい喜びの知らせ、であると言っています。

聖書は私たちの人生を見るとき、神様の目線を持つよう、教えています。聖書を勉強する時、私たちは神様の目線で、自分の人生を見る力が生じます。神様の目線で自分の人生を見ることができれば、生まれつきの盲目も深い人生の意味があります。神様の目線で自分の人生を見ることができれば、神様が私たちに与えられた人生を生きることができます。聖書によれば、人は誰でも、独特な人生を持っており、その人だけが実現できる使命があります。

神様の目線で見れば、「飼葉おけ」は運命ではなく、喜びのしるしなのです。救い主のしるしなのです。人生を取り換える根源なのです。イエス・キリストにとって飼い葉おけは隠しておきたい運命的な生まれ場所でした。悲しい条件でした。思い起こしたくない事実でした。しかし、神様の目線で見た時、御使いは、民全体のためのすばらしい喜びの知らせ、であると言っています。聖書勉強をしてみると、それは明らかだったからです。

私たちの隠したくなる飼葉おけ、悲しくなる飼葉おけ、運命的な飼葉おけは何でしょうか。御使いは私たちが神様の目線でこれらの飼い葉おけを見つめるよう勧めています。そして、恐れることなく、飼い葉おけが喜びの知らせ、深い神様のメッセージが込められていることを見つめるよう、進めています。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

ある青年が日本の五島で生まれました。彼がまだ幼いごろ、母親を亡くしました。父親は新しい母親を迎え入れましたが、なかなかなじめませんでした。彼は年をとればとるほど、母親が恋しくなりました。新しく母親となった方からひどい目にあわれるたびごと、涙組みながら母親に対する思いが深まりました。彼は勉強もまとにすることができず、通信制学校を経て大学を卒業しましたが、運命的な人生の飼い葉おけを拭い去ることができませんでした。しかし、彼は大学生の時に、聖書にもっとうするチャンスがありました。聖書勉強ができた彼は、聖書が教える神様の目線をもつようになりました。彼はどんなことがあっても、神様のおられることと、神様が~らず、報いてくださる方であることを信じるようになりました。彼は長崎の五島で生まれた自分の人生の深い意味があることに気付きました。彼は後に、長崎の街の様々な問題に取り組む、長崎のための長崎の市民として、長崎の市長となりました。彼は天皇の戦争責任の発言で、右翼の銃弾に撃たれましたが、「赦す」と発言し、警視庁の人々を驚かせました。

神様の目線で自分の人生を見つめることができれば、御使いたちの声を耳にすることができれば、私たちは私たちに与えられた独自の人生を生きることができます。それには運命ではなく節理があり、悲しみではなく使命に向かった喜びがあります。飼い葉おけにお生まれになられたイエスさまは、神様の嬰児としての使命を全うされ、私たちの救い主となられたのです。その喜びは、民全体のためのすばらしい喜びです。私たちが、このクリスマスの時に、イエス・キリストの喜びに包まれますよう祈ります。また、このクリスマスの時に、神様の見声に耳を傾け、神様の目線で自分の人生を見つめますよう祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23