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2010年クリスマス聖書勉強、その1 --> 問題紙

私たちの間に住まわれたイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書、1:1-18
要 節:ヨハネの福音書、1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

Merry Christmas !! イエス・キリストのお誕生、おめでとうございます。

今日からクリスマスの準備を始めますが、今日は特に、クリスマスの喜び、イエス・キリストのお誕生の喜びについて、イエス・キリストの弟子、ヨハネが伝えた福音を通して、学びたいと思います。 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ことばとは神様の言葉を指します。しかし、聖書の言葉です。この言葉はすべての始まりの時にあったのだ、と宣言しています。神様とともにありましたし、いわば、神様です。言葉は神様なのです。言葉を信じることは神様を信じることですし、言葉は神様のような力を持ち、人を動かしたり、国を動かしたり、人生を動かしたりするのです。神様の言葉は神様であって、力があり、能力があります。この言葉は初めにあり、すべての根本です。すべての原理ですし、すべての始まりの基盤となったのです。

2節を見ると、「この方は、初めに神とともにおられた。」とあります。この方とはイエス・キリストを指します。イエス・キリストについてはこれからお話をするつもりですが、このイエス・キリストは初めから、神様とともにおられた方、神様によって存在するようになった私たちとは違って、初めに、神様とともにおられた方であると、教えています。ヨハネは、このイエス・キリストのついてもうちょっと詳細に説明を始めます。

3節、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」すべてのものはキリストによって作られたのだと、宣言しています。創世記1章1節を見ると、次のように記録しています。「はじめに神が天と地を想像した。」とあります。ヨハネはこの神様がイエス・キリストであると説明しています。特に、そのイエス・キリストは神様であり、「ことば」であると説明しています。ヨハネは福音書以外に、別の書信を残していますが、ヨハネの手紙、第一には、次のように記録しています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、お話します」と、手紙を記録しています。ヨハネは、手紙の受信者たちに、「このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。」としています。イエス・キリストは永遠の命であると説明しています。

いのち、これは不思議なものです。人間の命、野菜の命、動物の命、昆虫や虫の命、どのいのちも不思議に包まれています。宮崎大学と九州大学にしばらくいて、今は国立研究所で、このいのちについて研究をしているバルナバMは、このいのちの不思議さと血とつなげて関連付けて、研究をしています。血の不思議さを追求すると、もしかしたらいのちの不思議さに到達するかもしれないと、言われたことを聞いたことがあります。いのちは不思議なものです。私たちの体にすっぽり入っていますが、見えませんし、手で触れるものでもありません。目で見れるものでもないのです。このいのちが体のどこかに潜んでいて、人は動いていて、活動を続けています。しかし、このいのちがなくなるとき、私たちの体は活動を停止します。ヨハネはこの不思議ないのちについて、特に、時期になると止まってしまう命ではなく、永遠の命について、証ししています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。」

ヨハネはイエス・キリストが神様であると同時に、その方自体が、永遠の命であると説明しています。4節にも、「この方にいのちがあった。」と説明しています。私たち人間は、ひとりひとりに不思議な命が与えられています。しかし、このいのちは限界があり、年をとると、死に至ります。いつかは私たちも、体の命から活動停止命令を受けるときがきます。しかし、このいのちは神様により永遠の命が与えられたのです。ヨハネは「このいのちが人の光である。」と説明しています。光はやみの中に輝いています。だれも受け入れず、だれも関心がなく、だれも興味がない中、完璧に踏みにじらせそうな状況でしたが、これらの闇はこの光を打ち勝てませんでした。それは神様から遣わされた預言者、バプテスマのヨハネによる証言のためでした。

7節はこのヨハネについて記録しています。「この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。」信仰をもたらすために、ヨハネは使わされた預言者でした。どんなに受け入れず、信じきれず、反対し、拒否しても、光は闇に飲み込まれませんでした。「バプテスマのヨハネは光ではありませんでした。人々は彼の様子や活動を見て、光だと思われました。しかし、彼はただ光についてあかしするために来た人でした。時代はそろそろ、すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていました。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れませんでした。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権を、神様はお与えになりました。」

永遠の命はこの方を受け入れる人々、その名を信じる人々に与えられます。イエス・キリストを受け入れる人々、その名前を信じる人々に与えられた特権です。特権とは特別に与えられた権利のことです。しかし、この受け入れること、信じることも、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と言われています。信者は神様によって生まれた特別な存在です。イエス・キリストを受け入れ、信じる人々は自分の努力や知恵によるものではありません。代々の先祖が信者だからということでもありません。イエス・キリストを受け入れて喜び、その名を信じることは、神様によって生まれた、特別に区別されたものだからです。

世界中には神様に選ばれた人々がいます。同じ喜びと同じ感動に包まれた人々がいます。アフリカの人も、ドイツの人も、ロシアの人も、中東の人も、北朝鮮にも、神様は選ばれた人々を置かれています。同じ喜びと賛美に包まれた不すぎなグループです。選ばれた人々です。永遠の命が保障された人々です。長崎にもそのような人々がいます。喜び分かち合う人々がいます。神様はそのような人々をご用意しておられます。このクリスマスには、このような神様の者たちと一緒に喜び、賛美をささげたいところです。多くに人々とともに、イエス・キリストの誕生の喜びをお祝いできるように祈ります。

14節をご覧ください。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」イエス・キリストは言葉が人となって、私たちの間に住まわれたお姿です。ヨハネはその目で、この方の栄光を見ました。触り、目で確認していました。じっと見ていたこのイエス・キリストについて、恵みとまことに満ちていたと証言しています。

「律法はモーセによって与えられましたが、恵みとまことはイエス・キリストによって実現されたのです。いまだかつて神を見た者はいません。しかし、イエス・キリストによって、父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのです。」


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23