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2009年長崎UBF、テサロニケへの手紙第一、その4 --> 問題紙

すべての事について、感謝しなさい

Messenger:MSN.David

御言葉:テサロニケへの手紙第一、5:1-28
要 節:テサロニケへの手紙第一、5:18「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

今日のみことばはパウロが愛するテサロニケの人々に書いた手紙の最後の部分です。パウロはこの最後のところで、テサロニケの信者たちに、いくつか、信者としての大事なことを書き残しています。また、最後には「この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。」とおごそかに命じています。パウロは自分の子どものように愛していたテサロニケの信者たちに大事な記録を残すとともに、神様の御言葉として真剣に読むように命じています。その意味で、今日のみことばは、私たちのために記録した神様の声であり、願いです。今日の御言葉を通して、改めまして神様の願いと心を受け入れることができますように祈ります。

I. 光の子ども、昼の子ども(5:1-8)

パウロは4章の最後のところで、次のように記録しました。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」イエス・キリストは今もなお、信じる人々と共にし、見守ってくださいます。祈りをし、御霊についてくる人々を喜びと賛美に包まれるようにしてくださいます。堕落した世界においても、救われた世界の中で生きる特権を与えてくださっています。しかし、ついにイエス・キリストは私たちへの確実なお約束をしています。それは最後の日に、救いの日に、世の人々にとっては裁きの日に、空中で、私たちを迎えてくださる、という約束です。信者にとってこの約束は、想像するできない信じられない光景ですが、これは神様が約束されたもので、信者にとって最高のお約束です。

1節をご覧ください。パウロはこのお約束について記録した後「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。」と言っています。何故でしょうか。2-3節「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」パウロは主の日が盗人のように来ることを既に彼らには知らせていたのです。「世の人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。」これは全く滅びが予測できないことを指します。まったく、私たちの感覚や世の動きに関係なく、訪れることを指します。それは、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなものです。しかしながら、パウロは最後に「それをのがれることは決してできません。」の記録しています。

世の人々にとって再臨はあり得ない話です。関心もなければ、笑い話として扱っています。まったく無視しています。しかし、再臨はお約束通りくることをパウロは強調しています。再臨は必ず来ますし、世の終わりが必ず予定されています。世の審判の時が待っているのです。何故でしょうか。それは私たちには聖書を通して、信仰の先祖たちを通して、パウロのような主のしもべたちを通して知らせていたからです。世の終わり、イエス・キリストの再臨は、聖書のお約束通り、訪れます。信者はその時を備えるべきです。ノアが晴れの時に、箱舟を作り始めたように、信者はこの時代、ノアのように神様の願いに沿って生きるべきです。それでは信者はどのような生き方を取るべきでしょうか。

6節「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」と記録しています。眠らないでとはぼげーとしないで、という意味です。神様が関与しているすべてのものに関心を寄せなさい、という意味です。慎み深くすることは、自分をコントロールすることです。英語では、「let us be alert and self-controlled」とあります。油断せず、注意を払い、自分をコントロールするようにと言っています。それでは信者にとって油断せず、注意を払い、自分をコントロールするとは何を意味しますか。7-8節をご覧ください。「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」夜に属するものは寝ます。夜に属するものは酒に溺れます。しかし、昼のものはそうではありません。油断を避け、注意を払い、イエス・キリストへの信仰を持ち続けるべきです。信者としての色を表わすべきです。また、愛の胸当てをつけるべきです。愛の胸当てとはその人をみると、「愛の胸当て」が付けられているように、愛の行動をとることを意味します。コリント人への手紙にはこう記録しています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。・・・。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」信者はこのような愛の胸当てをはめるべきです。胸当てとは敵の鋭い槍や銃弾から心臓を保護するものです。敵の鋭い槍と銃弾とは、不信であり、心配であり、劣等感であり、これらを指揮する暗闇の勢力です。これらから私たちの心臓を守るのは信仰と愛の胸当て以外にありません。そして、最後には救いの望みをしっかりかぶるべきです。私たちは既に救われましたが、まだたまには心配もする不完全なものです。しかし、完全な救いが私たちを待っています。完全な救いへのかぶとをしっかりかぶるべきです。これがパウロのデサロニケの信者たちへのお願いです。

II. すべての事について、感謝しなさい(5:9-28)

9節をご覧ください。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」信者への約束は確実な一つです。それは救いです。その証拠は主が私たちのために死んでくださった十字架であり、十字架を見上げ、確信を持って保ち続けることは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためのものです。ですから、テサロニケの信者たちは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合うことを続けるべきです。信仰と愛の胸当てを持ってサタンの誘惑の声を乗り越え、確実な救いを手にするためです。

最後に、パウロは愛するテサロニケの信者たちにお願いをしています。12節をご覧ください。「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。」薗お願いが何でしょうか。

第一に、主にあって指導し、訓戒する人々を尊敬し、平和を保つことです。

12-13節「あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」特に、その勤めのゆえに、愛を持って深い尊敬を払うようにとお願いをしています。それはその勤めが人からのものではなく、神様からのものであり、その勤めが神様によるものだからです。また、お互いの間に平和を保つように、としています。それは神様の御業が妨げにならないためであり、神様の働きが躓かないためです。聖霊の灯を消さないためです。神様が働く良い環境を保つためです。

第二に、いつも善を行なうよう務めることです。

14節をご覧ください。「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」パウロはテサロニケの信者たちに、これだけは絶対守るべきものであると、勧告しています。それが何でしょうか。まず、気ままなものをい眼占めることです。気ままなものとは縛られたくないものを指します。自由にふーらふーらと、人生を歩もうとする人々のことを指します。英語ではぼんやりする、へらへらするという、消極的な意味を持つ単語(idle)を使用しています。このような人々を訓戒するように、と言っています。彼らは結局、縛られたくない罪の勢力に溺れてしまうからです。気ままな人を訓戒すべきです。しかし、パウロは「小心な者を励まし、弱い者を助け」るようにとしています。気の弱そうな人々を、私たちはいじめやすいです。しかし、信者はそのような人々を励まし、助けるべきです。神様はその行為に必ず報いてくださいます。パウロはその結論として、次のように言っています。「すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」何故でしょうか。それは神様が一番に望むことだからです。これは信者の間だけでなく、すべての人に対して実行すべきです。すべての人間に対する神様の御心は、寛容であり、善を持って相手しておられるからです。神の子どもたち、光の子どもたち、昼の子どもたちは、信者にはもちろんのこと、不信者に対しても悪を持って悪を報いることをしないように気をつけるべきです。

私は最近、この年になって、やっと、自分がどれだけ心が狭く、自己中の人なのか、しみじみと感じることがあります。このような私を、20年以上も、同労者は良くも耐えてくださったのだと感謝する気持ちがあります。家族はもちろん、私の周りの人々もずいぶん苦労をおかけていた気がして、反省する気持ちになります。数多くの恩師たちには恩を仇で反すような姿勢を持っていたような気がして、自分に対していや気が刺すほどです。この私に主は今日の御言葉を持って言われます。「すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」この私がすべての人に寛容であるとき、それは聖霊によるものです。神様がこの私ででも、環境である人になれるよう、すべての人に対して、いつも善を行うよう努めることができるよう、祈ります。

第三に、すべての事について、感謝することです。

パウロはおごそかに勧告する最後の内容として、次のように進めています。16-18節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」神様が私たちに望んでいることがあります。それはいつも、喜ぶことです。いつもとは、どんなときも、という意味です。「Be joyful always.」喜ばしくない時も、喜ぶように、という意味です。何故でしょうか。それは神様が私たちにそのような態度を望むからです。神様からしてみれば、そのような態度や姿が最も正しい態度であり、姿だからです。私たちには悲しいことも、厳しいことも、さびしいことも、いつも、神様の前で考え直してみれば喜ぶことだからです。神様の立場から考えてみれば、喜ぶことだからです。神様はその選んだ人々のために、十字架を間で背負った方だからです。また、いつも祈るべきです。祈りは自分の弱さを告白することです。祈りは自分の願いを神様に告げることです。さらに祈りは、神様の助け船を呼び求める声です。聖書には祈る人の勝利を記録したものです。絶えず祈ること、これは信者の必須品です。

最後に、パウロは言っています。「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」「give thanks in all circumstances」すべてのこととは、すべての環境、すべての目の前に現れたことを指します。良いことも、悪いことも、喜ばしいことも、悲しいことも、神様に感謝するようにと命じています。それはなぜでしょうか。これらすべては神様が関与しておられるからです。これらすべては私たちのためにその一人子でさえ惜しまずにおあたえになった方によって計画されたからです。この神様は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる方です。なおさらのこと、その救いの計画を信頼し、神の望みに沿って生きる人々への配慮はどれだけ大きいものでしょうか。今の環境は神様がおつくりになられた私たちへの最高の環境であり、条件です。神様に感謝すべきであり、その中にある神様の計画を見出すべきです。神様を喜ばせるチャンスをつかむべきです。

私は恩師に逆らった経歴の持ち主です。私はこの恩師だけには従順できないと思っていました。しかし、職場が変わっても隣にいる同じような人物に対して悩みがありました。しかし、今日の御言葉を見ながら、特に、最近になって、このような私の姿を、神様は省みてくださっていること、自分の姿を悟らせていること、人に従順しない、従順を学んでない、素直でない自分の姿をいろんな形で教えられていることに気がつきました。そこで、私は決心をしました。これ以上、同じ過ちを繰り返さないこと、どんな人にも従順をし、従順を学ぶこと、すべてのことに感謝しながら、神様のみ声を聞くこと、が私に課せられた神様の願いであることを素直に受け止めようとすることです。

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
「give thanks in all circumstances」

19節「御霊を消してはなりません。」これは神様が今、私の人生に起こした聖霊の火を消さないように努力することです。今の環境、今の職業、今の悲しみと苦しみ、今の喜びと賛美の中にある、神様の聖霊の火を見分けるべきです。消してはいけません。自分の気持ちを入れてはいけません。自分の計画を主張してはいけません。神様の願いを分別するために祈りし、静かな神様の声に耳を傾けるべきです。その問いに、私たちは神様の願いを実現することができるからです。それは御言葉をつかむことであり、御言葉の警告を守ることです。

23-28節で、パウロはテサロニケの信者たちのために最後の祈りをしています。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい。この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23