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2009年長崎UBF、テサロニケへの手紙第一、その3 --> 問題紙

神のみこころ

Messenger:MSN.David

御言葉:テサロニケへの手紙第一、3:1-4:18
要 節:テサロニケへの手紙第一、4:3「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、」

今日のみことばはパウロがテサロニケの人々に切なる願いを持って頼んだ内容です。それは「神のみこころ」であるがために、愛するテサロニケの人々に向けた切実な願いでした。テサロニケの人々への神のみこころは信者となったばかりの人々に向けた神様のみこころでありますし、言ってみれば、信者である私たちに向けた神様の切実な願いです。今日のみことばを通して、神様の私たちに向けた切実な思いと心を学びますように祈ります。

I. パウロの祈り(3:1-13)

1節のみことばをご覧ください。パウロはテサロニケの信者たちを見たいと願っていました。テサロニケでの生活は短いでしたが、彼らが見せてくれた献身的なサポートを忘れることができませんでした。暴動によってある信者はパウロを家に入れたとして暴力を受けました。パウロは夜、テサロニケを逃げて出るしかないほど、暴動たちの行動は人殺しをも辞さないものでした。テサロニケを離れたパウロのところまで彼らは人々を派遣し、迫害を続けました。ましてや、テサロニケの信者たちにはどれだけの苦しみと迫害があったのか、想像がつきます。彼らはパウロが伝えた「イエス・キリストの福音」を拒否するだけでなく、パウロの福音を受け入れた人々を厳しく迫害し、暴力をふるまっていたのです。

パウロはそのようなテサロニケの信者たちに再度お会いしたいと願っていましたが、実現できず、テモテを送ってでも彼らの状態を調べたいと願っていました。3節をみると、パウロがテモテを彼らに使わした目的がありました。それは、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。なんで、信仰生活に苦しみが伴うのか、なんで、神様を信じて、清く正しく生きようとする私に悲しむことが起こるのか、と疑いを持ちやすい彼らの心の動揺を防ぐためでした。パウロは彼らにこう記録しています。「あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」

「私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。」これは信者の生活は決して、人々に称賛され、褒められるものではなく、苦難にあうように定められたものである、ということです。創世記を読んでみると、最初の人間アダムには二人の息子がいました。アベルとカインです。アベルはカインによって殺され、実に悲しみに処せられた人ですが、聖書はアベルが信仰人の最初に人として記録しています。カインは罪を誇るものとして生きていましたが、神様を第一に考えていたアベルは罪を誇るアベルの計画通り、この世において殺されてしまったのでした。私は若いごろ、正義に満ちていたごろ、正しいことが報われ、悪は裁かれるべきである、と思っていました。私が信仰生活をしてからも、この考えは変えることなく、私の信仰生活に苦しみと悲しみが続くのなら、それはおかしい、と思っていました。しかし、聖書は言われます。「私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」信者はカインの子孫たちによって苦しみと悲しみに出会うことが定めれらています。しかし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするために、パウロはテモテを彼らに送ったのです。何故、苦難の中にあっても動揺する必要がありませんか。それは実に確実な勝利が信者たちに保障されているからです。究極的な勝利が信者には約束されているからです。カインの子孫たちによって厳しい迫害と苦難に出会っても、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

10節をみると、パウロは彼らの信仰を喜び、彼らの信仰の不足を補いたいと思って、熱心に祈りの労苦をやまなかったのです。祈りは私たちの信仰を守り、補うだけでなく、私たちの願いとお求めになることを実現する力だけでなく、別の人々の信仰の不足分も補う力があるのです。私たちが祈れば信仰の弱い人々に力が湧き、私たちが祈れば世の苦しみや迫害に疲れた同労者が勇気を得るのです。パウロはテサロニケの人々に近づくことはできませんでしたが、祈りを持って常に彼らのそばにいましたし、彼らの支援者となっていました。13章の最後で、パウロは彼らのところに行きたいと願いながら彼らのために祈りをしています。12-13節をご覧ください。「私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」これはテサロニケの信者たちへのパウロの願いであり、祈りの課題でした。パウロは14章で、具体的に彼らへの祈りを解説しています。

II. 神のみこころ(4:1-18)

4章1節をご覧ください。「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。」パウロは手紙を書き終えようとしています。しかし、彼らにとても大事なお願い、いや勧告と書いています。英語ではurgeと書いてあって、督促や催促を意味する言葉を使っています。勧告とは辞書からしてみれば、「そうした方が身のためだ(当然そうすべきだ)ということを公的な立場から勧めること。」を意味します。パウロはテサロニケの信者たちに、手紙の最後でいくつかの事実をお願いをするとともに、強く勧告しています。それはテサロニケの人々のように信者となった人々への神様の御心です。それが何でしょうか。

第一に、清い信者になることです。

2-3節をご覧ください。「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、」聖くなるとは、不品行を避けることです。不品行とは夫婦として結ばれてない人々の情欲的な行為を意味します。この時代はカインが罪を誇るような時代です。統計からして日本は結婚した人10人の内、1人の割合で、離婚をしているようです。これは人口調査の統計によるもので、実質は四人の一人が離婚しているとも、言われています。ほとんどの理由は不品行であり、それがもたらす被害は計り知れないものです。パウロはテサロニケの信者たちにおごそかに命じていることの一つとして、不品行を避けるようにと勧めています。不品行は信者にとって一番の敵であり、信仰の心を揺るがすものだからです。

4-6節をご覧ください。「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。」不品行は自分の体や心を踏みにじることだけでなく、相手の体や心までも踏みにじってしまいます。それだけではありません。パウロはそれにより、自分や相手を超えて、兄弟を踏みつける行為に発展し、欺きに走ることを警告しています。不品行は情欲的な行為を犯した二人の問題ではなく、兄弟や友人までを破壊し、家庭を破壊し、社会を破壊するものです。私たちの周りに不品行のためもたらした辛い思いを、その本人だけでなく、その家族に、その兄弟や親族にどれだけ被害をもたらすのか、よく耳にします。不品行は信者にとって絶対避けるべき病気のようなものです。これは信者の信仰を揺るがすがねない問題だからです。それにとどまりません。パウロはこのような不品行について、「なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」不品行は神様の裁きが待っているのです。不品行は信者の心の根っこから脱ぎ去るべきものです。8節、「このような不品行の警告を拒む者は、警告した人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」と、パウロは言っています。不品行を守ることは、信者の信仰を守ることにつながることが分かります。これはいくら強調しても足りないものです。

第二に、互いに愛し合うことです。

9-10節をご覧ください。「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」兄弟愛とは信者同士の愛し合う行為を意味します。彼らは十分に、お互いに励ましあい、助けあってきました。しかし、兄弟愛についてパウロはますますそうであってほしいと言っています。信者同士の兄弟愛はますます強くなるべきであり、深まるべきです。犠牲を支払ってでも、愛し合うことを学ぶべきです。

パウロは兄弟愛について話をしたのち、もう一つの話をやみません。11-12節、「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」落ち着いた生活とは、静かな生活を意味します。Quite Timeを意味します。Quite Lifeを意味します。これは仕事におぼれる人にならず、静かな時を迎える人になることを意味します。自分を省みる時間、そのような人生になることを意味します。そのためには、自分に与えられた仕事に身を入れて、与えられた内容を完成すべきです。そうでないと、その仕事は私を引き鶴からです。自分の手で働くべきです。そうでなければ、本当の意味で落ち着いた生活をすることができないからです。仕事に身を入れ、自分の手で働く時、落ち着いた生活を迎えられます。外の人々、つまり信者でない人々に対してもりっぱにふるまうことができます。また乏しいことがないように生活することができます。

第三に、また来られるイエス・キリストを見上げるべきです。

4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

でした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23