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2009年長崎UBF、テサロニケへの手紙第一、その2 --> 問題紙

福音をゆだねられた者

Messenger:MSN.David

御言葉:テサロニケへの手紙第一、2:1-20
要 節:テサロニケへの手紙第一、2:4「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」

昨日、私は子どものOpen Schoolに参加して、K神父様の講演会に参加することができました。タイトルは「私はこのように育てられました」という内容でしたが、結論はマタイの福音書25章45節、『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』でした。今日のみことばを準備するにあたり、私はこのK神父様がまさしく「福音をゆだねられた者」のように感じられました。「福音をゆだねられた者」について、パウロは自分の経験を交えて、テサロニケの人々に伝えています。どのような人が福音をゆだねられた者、でしょうか。今日のみことばを通して、福音をゆだねられた者、について学びますよう祈ります。

I. 福音をゆだねられた者(1-5)

パウロは第一章で、テサロニケの信者たちが、神に選ばれて信者となってから、さまざまな迫害の中でも働く聖霊のお力を頼って苦しみを乗り越えていることを思い出させました。テサロニケの信者たちは働いておられる聖霊に頼る人々でした。しかも、彼らには確かな希望がありました。それは彼らとともにする聖霊様がまた来られることでした。必ず死者の中からよみがえらせなさった御子が確実に彼らの前に現れることでした。やがて来る御怒りから彼らを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったことでした。聖霊様が彼らに与えた正しい信仰の姿を称賛したパウロは自分たちの生活ぶり、つまり「福音をゆだねられた者」として、聖霊様はどのような助けてとなり、彼らとともにおられたのかを証言します。

1-2節をご覧ください。兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。この言葉はパウロ一行がピリピでどんなに苦しみにあっていたのかを説明している内容です。ピリピは彼らが行きたがっていた町ではありませんでした。しかし、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」という声を、神様からの声であると確信して、訪れた町でした。信仰の人、ルデヤに出会ったのも、この町でしたが、牢に入れられ苦しみ、裸になって鞭打ちにされました。理由はローマ人であるピリピの人々に、採用も実行もしてはならない風習を宣伝している、ということでした。パウロはこのピリピでの生活を一言で、激しい苦闘の中の生活、と記しています。毎日、何が起こるか分からない生活ぶりに強いられました。しかしながら、使徒の働きの著者は、裸で鞭打たれ、激しい苦闘の中にいるパウロとシラスについて、真夜中、神に祈りつつ賛美を捧げる、霊的生活ぶりを記録として残しています。牢に入れられた時にはすべてが終わりかと思いつつ、祈りと賛美を持って聖霊の助けを求め、聖霊の励ましを求める中で、感激と聖霊の満ち溢れた喜びに包まれました。それだけではありませんでした。突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった、経験をしました。

The Heavenly Manというタイトルの本の著者は、Win兄弟と呼ばれる中国人です。現代版「使徒の働きの奇跡」と副題が付けられています。まるで、パウロとシラスが経験していたこの場面を思い浮かばせる場面がこの本にも記録されています。パウロとシラスが牢から出て、ルデヤの家に迎えられたように、彼も牢から出て支援者の家に迎えられる場面が生々しく記されています。祈りと賛美の中に働く聖霊の御業を感じさせるものです。私は先々週から心に重くのしかかるある仕事の重圧のため、毎日のような決まったパターンの生活もできず、あわてている自分に気づかされていました。祈りと聖霊を呼び求める時期であることを感じていたので、机に座っている間も、目をつぶし祈る時間が増えていました。聖霊を呼び求める必要を感じていたからでした。振り替えてみると、神様は私と共にしてくださり、感情に負けることなく、人間的に妥協することもなく、神様のみ恵みと聖霊の働きによる解決を体験することができました。

パウロはピリピでの生活の結論を、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。と結論付けています。特に、私たちの神によって、とは神様が福音の主人公であること、神様がすべてのものごとの主人公になる時、福音が人々の語られることを、記録しています。ピリピでパウロは聖霊の体験を、テサロニケの人々に思い出させています。それは、同じ聖霊が彼らの上にも働き、彼らに存在するからです。

特に、パウロは自分たちの使命について、「福音をゆだねられた者」と記録しています。3-5節の御言葉をご覧ください。 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。聖霊の働きについて述べていたパウロは、自分たちについて、「福音をゆだねられた者」として紹介しています。福音は聖霊により伝えられるものであること、また、福音は聖霊が自ら計画し、述べ伝えるものであることを明かししています。「福音をゆだねられた者」はその意味で、自分の計画や思い、へつらいの言葉やむさぼりの口実、迷いや不純な心から出るものを優先することなく、聖霊の動きを優先し、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして務めるものであることを学びます。

メッセージを準備しながら、私は私を取り巻く人々の姿に左右されやすいものであることを改めて感じ取りました。同僚の一言、職場での雰囲気、同労者の顔色を気にしながら、彼らを喜ばせようと努力している自分があります。しかし、私が最も気にしなければいけないのは、祈りの中に共にし、願い事を聞いてくださる、聖霊の働き、聖霊の動きにもっとも気をつけるべきです。私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとしなければいけません。パウロは福音をゆだねられた者としての姿についてこう記録しているからです。私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

II. 母親、父親としてのしもべ(6-12)

パウロは福音をゆだねられた者として、どんな生活をしていたのかを証言しています。また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。パウロはテサロニケの人々に、母親のように接したのだと、証言しています。母親のように、とはどんな意味でしょうか。それは、ただ神の福音だけではなく、パウロ自身のいのちまでも、喜んで彼らに与えたいと思う心で、彼らに接したことを意味します。パウロは母親がその子どもをかばうように、彼らを愛していたのです。

福音をゆだねられた者として求められる資格は、ただ、福音が伝えられれば良い、と思う心ではなく、その命さえも惜しまず与えたいと思う心です。Life Giving Spirit、これが福音をゆだねられた者に必要な姿です。その意味で、福音をゆだねられた者は、すべての民を、自分の子どものように扱う、母親なのです。私たちの名誉総裁、Sarah Barry宣教師は、結婚もされず、子どももありませんが、その心は真の母親です。先週、心を痛めながら日ごとの糧を読んでいたのですが、キリストと教会の関係が、夫婦の関係として記録される不思議さを語りながら、夫婦関係を説明する言葉を読みながら、妻になった子もない、この方の夫婦関係を語る日ごとの糧の解説に、感動を覚えました。私は福音をゆだねられた者の資格に達してないことをしみじみと感じました。それは、私の心に母親の心がない証拠でした。この私にも母親としての心を頂きますよう、祈ります。

また、パウロは福音をゆだねられた者として、もう一つ、父親としての姿を持つべきであることを記録しています。9-10節、兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。父親は働くこと、経験に生きること、正しく生きること、責められるところのないようにふるまうこと、これが求められます。その時初めて、父がその子どもに対してするように、ひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをすることができ、慰めを与え、おごそかに命じることができる、からです。

パウロはテサロニケの人々の前で、自信持って、父親として生きてきた姿を記録しています。福音は言葉だけではありません。福音は母親のようにLife Giving Spiritから伝わるものです。福音は父親のように、聖なる生き方と責められることのないような生活ぶりから、伝わるものです。福音は決して、言葉だけにより成り立つものではないことを、パウロは説明しています。私たちが真の母親になる時、真の父親になる時、福音は伝わるものです。

2:13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。
2:15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。
2:16'' 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23