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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その30 --> 問題紙

よみがえられたイエス様

Messenger:MSN.Caleb

御言葉:マルコ16:1-21
要 節:マルコ16:14「しかしそれから後になって、イエスは、その11人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」

エジプトには私達が良く知っているピラミッドがあります。ピラミッドの中でもっとも大きいものは、高さが146メートル、幅230メートルで、石ひとつの重さは2.5トンで230万個が使われたそうです。このピラミッドを作るためにおよそ30年かけて10万人が動員されたそうです。さらに、その前にお守りのスピンクス像も建てられました。中国にも皇帝の数百メートルに達する巨大な墓があります。そのためにも70万人が動員されました。韓国にも地位が高ければ高いほど大きな墓を作る風習がありました。それでは人々はどうしてお墓に気を使い、次の世代に残そうとしているのでしょうか。それは、自分の人生がこの世で消えてしまう事実を否定したいからです。生きていた時の名誉と功績を何とか保存しておきたい気持ちがあるからです。しかし、イエス様は葬られた後、遺体もなくなり墓もどこだったのか人々の記憶から消えてしまいました。イエス様は復活されたからです。イエス様はりっぱな墓より、私達に十字架による赦しの恵みと永遠の命を残してくださいました。

聖書は私たちに驚くべき事実を教えています。それは、人の人生は死で終わるのではなく、信仰によって復活され、永遠の命を得る道が開いていることです。私達のからだは土に戻りますが、神様を信じる人はよみがえり、神の国で愛するイエス様と永遠に生きることができます。私達人間は罪のために苦しみ、その代価として死を味わうことになりました。死んだ後は、厳しい審判が待ち受けています。しかし、死を乗り越えたイエス様の復活は、罪の解決を意味し、永遠の命への道が開いたことを意味するのです。イエス様の人生は十字架の上で空しく終わっていません。人々から捨てられ失敗に終わった人生ではありません。イエス様は死の力に打ち勝たれ、死者の中からよみがえられました。私達の間にどんな苦しみ・悲しみがありますか。どんなどうしようもない限界にぶつかっていますか。よみがえられたイエス様が私達とともにおられるとき、私達は罪と死亡の勢力から来る恐れと空しさから完全に開放されます。この時間、御言葉を学ぶ中で私達の中にある不信仰を悔い改め復活信仰を持ち、どんな厳しい環境の中でも力と感謝のあふれる信仰生活を送ることができますように祈ります。

1節をご覧下さい。「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。」この日はイエス様が十字架につけられ死なれてから三日目になる日でした。彼女達は、イエス様に最後の愛情のしるしを与えるために来たのです。彼女達はイエス様から救いの恵みを受けたので、心を尽くしてイエス様に仕えました。彼女らにとってイエス様は生きる意味であり、目的であり、希望でした。ところが、それほど恵みと愛の豊かなイエス様が十字架につけられ惨めに死なれたのです。彼女達は大きなショックを受けて悲しみと空しさと絶望に陥りました。生きる意欲や希望を失いました。愛するイエス様のことを考えるたびに悲しみに包まれて涙ばかりが溢れ出ました。そのような中で最後にイエス様の死体に香料を塗りに朝早く墓に向かって行きました。イエス様に対する彼女達の忠誠心は変わりませんでした。それゆえに、彼女達は最初の復活の証人となることができました。

ところが、3節をご覧下さい。「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」当時ユダヤ人は洞穴を墓として使っていましたが、墓の入口は大きな石で塞いで置きました。彼女達は、自分達の力でその石を動かすのは不可能であることを知って心配していました。ところが、その時予期せぬ光景を見るようになりました。目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあったのです。彼女達は驚きました。彼女達が墓の中にはいったところ、墓の中に納められているはずのイエス様の死体は見当たらず、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えたのです。6節をご覧下さい。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」

彼女達がここまで来たのは、イエス様をとても愛していたからでした。しかし、彼女たちが探していたイエス様は十字架につけられたイエス様でした。世の権力に負けて死なれたイエス様でした。他人を救ったが、ご自身は救えなかったイエス様でした。悲しみあふれるイエス様でした。彼女達はこのイエス様を考えると悲しくなりました。このような彼女達の信仰は限界があり、運命的なものでした。

しかし、青年ははっきりと彼女達に伝えました。「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」それではイエス様がよみがえられたことは私達にとってどんな意味があるのでしょうか。

第一に、罪の赦しに対する確信を与えます。

アダムが罪を犯したゆえに死はすべての人々を支配するようになりました。死は人からすべてのものを奪い去ります。イエス様はこの死と罪の問題を解決するために十字架につけられ死なれました。そして、三日目によみがえられたことによってこの事実を明らかにされました。もしイエス様がよみがえらなかったのなら、イエス様が私達の罪のために死なれたことを確認することができません。私達の罪はお風呂に入っても、涙を流しても清くなるものではありません。罪の赦しとは、十字架につけられ死なれ、三日後に蘇られたイエス様に出会って信じることによって得られる特別な神様からのプレゼントなのです。

第二に、イエス様の復活は究極的な勝利を与えます。

イエス様は罪の赦しの証拠と真の勝利の証として死の幕を破り、死者の中からよみがえられました。使徒パウロは次のように言いました。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:55、57)。神様は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。神様は生きて働いておられる方です。この神様は信じる者に勝利を与えてくださる方です。

第三に、よみがえられたイエス様は私達に神の国に対する生ける望みを与えてくださいます。

イエス様は眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。イエス様の復活は将来私達もイエス様のように復活するという望みを持つようにしてくださいました。人々はまるでこの世の生活がすべてであるかのように生きています。死ねばすべてが終わりだと思い、この世での生活にすべてを掛けます。しかし、世の栄光は草の花のようなものです。花瓶に飾ったきれいな花でも、いつかはしおれ、ごみとして捨てられます。世の望みは永遠なものではなく、私達を失望させます。しかし、神様が私達に与えてくださった復活の望みは決して私達を失望させることがない生ける望みです。この世に望みを置いている人は、時代の流れという波によって揺れ動きます。心配と不安で満ちています。しかし、生ける望みを持っている人はどんな状況の中でも揺れ動きません。

7節をご覧下さい。御使いは女たちが行って弟子たちとペテロに、「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。」と伝えるように言いました。女たちは、墓を出て、そこから逃げ去りました。すっかり震え上がって、気も転倒していたからです。そして恐ろしかったのでイエス様の復活を弟子達に知らせることができませんでした。それほど復活は彼女達にとって衝撃的な出来事でした。イエス様はよみがえられた後、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされました。よみがえられたイエス様に出会ったマリヤは喜びに満たされたでしょう。マリヤはその喜びを悲しんで泣いている弟子達に知らせました。「イエス様はよみがえられました!」しかし、弟子たちは信じようとはしませんでした。マリヤがショックを受けてたわごとを言っていると思いました(ルカ24:11)。

12節をご覧下さい。「その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。」イエス様は暗い顔つきをしてエルサレムからエマオという村に行く二人の弟子に現れました。イエス様は彼らに聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされました。そして、彼らとともに食事をしている時、彼らの目が開かれ、イエス様だとわかりました。二人の弟子もエルサレムに戻ってイエス様の復活を知らせました。しかし、弟子達は彼らの話も信じませんでした。

女たちは死んだイエス様を探して悲しみ、弟子たちはイエス様の復活の話を受け入れませんでした。彼らの心は固くなり、不信仰に満ちていました。しかし、イエス様は彼らをあきらめずにあらゆる方法で彼らの心の門をノックされました。

14節をご覧下さい。「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」イエス様は弟子たちの不信仰とかたくなな心をお責めになりました。いくら多くの証拠がっても、信じようとしない人は信じることができません。イエス様は彼らを咎められた理由は、彼らに復活信仰を植え付けるためでした。それは彼らに対する愛の表現でした。信仰は不信仰とかたくなな心を悔い改めて謙遜に復活の御言葉を受け入れる時に所有することができます。復活を信じるか信じないかは永遠のいのちにかかわる大切な問題です。私達の罪のために十字架につけられ死なれたイエス様は墓の中におられず、よみがえられました。この時間、よみがえられたイエス様を受け入れ復活の世界に入ることができるように祈ります。

弟子たちに復活の信仰を植えられたイエス様は、彼らにどんな使命をお与えになりましたか。15節をご覧下さい。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」イエス様は弟子たちに世界宣教の使命をお与えになりました。彼らに復活の信仰を植えられてから世界宣教の使命を与えてくださったのは、復活信仰なしにはこの使命を担うことができないからです。また、彼らが宣べ伝える福音の内容はイエス様の十字架と復活だからです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」この御言葉から私達は幾つかの大切な事実を学ぶことができます。

第一に、福音を宣べ伝える対象は全世界のすべての人々であることです。

すべての人々に福音が必要です。富む者にも貧しい者にも必要です。白人にも黒人にも必要です。男の人にも女の人にも必要です。誰でも福音が必要な存在です。なぜでしょうか。それはこの福音だけが人々を罪と死から救うことができる唯一の道だからです。

第二に、福音の絶対性です。

16節をご覧下さい。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」福音はいのちにかかわる何よりも大切なものです。この世には福音を知らず、死んでいく多くの人々がいます。イエス様は彼らに福音が知らされることを切に望んでおられます。ですから、世界宣教は何よりも優先的にしなければならないことです。ここに福音の絶対性があります。

第三にイエス様のビジョンです。イエス様は弱い弟子たちの肩に全世界をゆだねました。これはイエス様のビジョンであり、信仰です。イエス様は弟子たちに望みを置いておられました。それは彼らが人類の歴史を変える偉大な福音の働き人となることです。イエス様のビジョン通りに彼らは偉大な福音の働き人となりました。同じくイエス様は私達にもビジョンを置いておられます。そして、そのビジョンの通りに育ててくださいます。私達がイエス様の世界宣教の命令に心から従う時、主が私達とともにおられます。

17,18節をご覧下さい。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」イエス様は福音を信じる人に力を与えてくださいます。イエス様の御名によって悪霊を追い出す力を与えてくださいます。また、すべての危険から守ってくださいます。使命人は神様がその使命を果たすまで安全を守ってくださいます。

主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれました。イエス様は万物の主として人間の歴史と万物を支配しておられます。そこで、弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えました。主は彼らとともに働き、御言葉を確かなものとされました。イエス様の命令に聞き従う弟子たちと主はともにおられました。恐れおののいていた弟子たちは復活信仰によって世界宣教の御業に用いられました。弱い弟子たちは力ある主のしもべとして変わりました。

「God World」 という宣教団体の 福重 隆さんがいます。日本の鹿児島出身で日立に入社、30数年間勤務、世界最初の超薄型LCDを、アメリカと共に開発した、NHKが共同でハイビジョンを開発する時も参加した人物です。証しの本「肉が死んで霊が生きた人」の主人公です。その証によると、福重さんは2004年スキー場で倒れ脳専門病院に入院、脳梗塞で昏睡状態が続き、漸く21日目に神さまの不思議な導きによって目覚めました。昏睡から目覚める直前、福重さん旧約聖書のイザヤ43章2節の「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」という御言葉通りのことを体験していました。そんな時、奥さんが看護師に内緒で重いステンレスの十字架をベッドの足にテープで巻いておいたものが、20日近くたってテープが緩んで硬い床の落ち病院中の皆がびっくりするような大きな音がしました。その音で隆はびくっと目を覚ましたそうです。医者や看護師たちは、こんな患者は診たことも聞いたこともないと一様に驚き怪しみ、また興味深く観察したそうです。奥さんの切なる祈りと神様の愛の合作で福重さんは復活の体験をしたのです。そして彼は現在、「God World」という宣教団体で日本と韓国、世界宣教のために活躍しています。

私は福重さんの話を聞いて、神様の中では失敗も絶望もないことが分かりました。人々は苦難の中で、あるいは試練が訪れると、どうしてわが身にこんなことがおこるのだろう。神様は私を愛していないと問題の原因を神様のせいにしたり、神様の愛を疑いしたりします。しかし、福重さんの奥さんは、人生一番の試練の中で復活信仰をもって、夫のためにいのり意識不明の状態の夫に御言葉を聞かせ続けました。神様は世界宣教のために福重さんの家庭を用いられています。

昨日、私は韓国からR宣教師のお父さんが交通事故に会い、意識不明の状態であるとの連絡を受けました。ちょうど復活の御言葉を準備している間最中のできことでした。瞬間私は、どうして私達にこのような試練をくださいますかとつぶやくより、神様私達がこのような状況で何をすればよろしいでしょうかという祈りをするように助けてくださいました。そして、これは神様のいたずらではなく、私達夫婦を含め韓国の両親をとても愛しておられる神様の愛の表現であるとの確信をもつことができました。同労者のR宣教師も慌てず、感情的にならず、電話で家族に大胆に福音を伝えることができました。神様の愛には痛みが伴うこともあります。しかし、神様は私達が信仰によってそれを乗り越えれば、永遠の命に私達を導いてくださいます。神様が私に復活の御言葉を容易してくださったことを感謝します。数日間「復活」という言葉を黙想するようにしてくださり、実際体験できるチャンスをくださった神様に感謝します。福重さん夫婦が体験した奇跡のわざを私達の夫婦も体験できるように、韓国にいる家族が今回の事件をきっかけに神様を信じることができるように祈ります。また、私達の家庭を日本と世界宣教の御わざに尊く用いてくださいますように祈ります。私が最後まで心の不信仰と戦い、復活信仰を持って神様の栄光を表すことができるように祈ります。

結論、イエス様は死者の中からよみがえられました。このイエス様は私達に勝利を与えてくださいます。弱い私達を力ある福音の働き人として変えてくださいます。悲しみ、失望している弟子たちを、喜びと勇気に燃える輝かしい人々に変えてくださいました。この時間、よみがえられ、今も生きておられるイエス様を感謝賛美いたします。私達が主の命令に従い、信仰の上に堅く立って福音の御わざに励むことができるように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23