Counter: 1141, today: 1, yesterday: 0

2009年長崎UBF、マルコの福音書、その29 --> 問題紙 --> SBC問題紙

赦しと十字架の愛

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ15:1-47
要 節:マルコ15:37-38「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」

今日の御言葉を通して私たちは、イエス様の赦しと十字架の愛について学びたいと思っています。イエス様の赦しと十字架の愛、これは「イエス・キリストの人生」そのものです。今日の御言葉を通して、イエス様の人生により示されました「赦しと十字架の愛」を学びますよう祈ります。

I.イエス様の十字架刑 (1-32)

15章1節の御言葉をご覧ください。夜が明けました。昨夜、イエス様は愛する弟子・イスガリオテユダとともに来た、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられた人々によって捕まえられました。彼らはイエス様を大祭司の所に連れて行きました。すると、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来て、全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めました。しかし、何も見つかりませんでした。イエスに対する偽証をした者は多かったのですが、一致するものは何一つありませんでした。ある人が、『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造って見せる。』と訴えましたが、これも証言に一致した点がありませんでした。最後に、大祭司が質問をしました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」どんな不利な証言にも答えを出さなかったイエスは、この質問にはっきりと答えました。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言いました。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」この発言が終わると、祭司長、長老、律法学者たちは全員で、「イエスには死刑に当たる罪がある」と決めました。

この審判が下ると、ある人々は、イエスにつばきをかけました。また、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけました。「言い当てて見ろ。」「殴ったのは誰だ?」更に、イエスの身柄を受け取った役人たちは、イエスを平手で打ちました。このようにしてイエスはその夜、人々によって好き勝手に扱われました。

その日の夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡しました。祭司長は、イエス様が神をけがしたのだ、として、死刑に当たる罪があるとしていました。しかしピラトには、自称・ユダヤ人の王と主張し、ローマの皇帝、カイザルに背く行為だと訴えました。彼らの訴えを聞いたピラトはイエスに尋ねました。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスはこの質問についてもはっきりと答えて言われました。「そのとおりです。」すると、ハイエナのような祭司長たちはイエスをきびしく訴えました。ヨハネの福音書を見ると、彼らは「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」と言っていました。祭司長たちは普段、カイザルを王と認めたことがありませんでした。一度も、快くカイザルを王であると言い出したこともありませんでした。しかし、今、彼らはカイザルのほかに自分たちには王がないと、叫んでいました。この姿を見て、ピラトは一度イエスに尋ねて言いました。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」それでも、イエスは何もお答えになりませんでした。5節の後半部を見ると、著者マルコは「それにはピラトも驚いた。」と記録しています。その驚きは、不利な祭司長たちの訴えに答えを出さなかったからでした。それは神様の御子に対する驚きであり、救い主としてのお姿に対する驚きでした。ピラトの驚きは、神様の臨在に対する驚きでした。

6節をご覧ください。ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていました。ピラトは植民地の人々を扱う方法を知っていました。ユダヤ人にとって大事な、過ぎ越しの祭りと種なしパンの祭りに、ユダヤ人の好意を得るため、彼らが願う囚人を一人、赦免することを実施していました。いつもの慣習に従って、群衆から、一人の囚人を今回も赦免してほしいとの要求がありました。そこで、ピラトは彼らの要求を聞いたときに、自ら進んで、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか。」と言いだしました。10節を見ると、「ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいて」とあります。ピラトはこの機会にイエスを釈放することを望んでいました。努力を重ねました。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言いました。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」更に、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせました。ピラトは最初から、イエスを訴えた彼らの意図に気付きました。彼らが最初、イエスをピラトに訴えたのは、イエスを殺す計画を固めてからでした。彼らは殺意に燃えていました。ピラトは腹が立ちました。「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか。」彼らは待っていたかのように答えました。「十字架につけろ。」「十字架につけろ。」「十字架につけろ。」ピラトは彼らに答えました。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく叫びました。「除け。除け。十字架につけろ。」

緊迫した場面が続きました。彼らの意図は明らかでした。最初から殺すつもりで、イエス様を訴えてきたのでした。カイザルを背く、という罪名は形だけのものでした。そのような場面で、ピラトが下した判断は何でしょうか。15節の御言葉をご覧ください。「それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。」ここで、私たちはピラトが下した二つのことばに注目すべきです。ひとつは、ピラトが群衆のきげんをとろうとしたこと、もう一つは、イエスを鞭打ってから十字架につけるように引き渡したことです。

裁判員制度が始まりました。人を裁くことへの難しさを、広く一般に知らせる機会となりました。皆さんの中にもし、裁判員となり、ピラトのような裁判官がいるとしたら、つまり、「群衆のきげんを取ろうと思い」裁判の判定を下すとしたら、どんなお気持になりますか。ヨハネの福音書を見ると、ピラトはイエスにこう話していました。「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」しかし、イエスは「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」答えられました。権威は上から与えられたものです。ですから、権威は慎んで使うべきです。イエスを裁くことのできるピラトの権威を、ピラトは慎んで正しく使うべきだったのです。しかしながら、ピラトはその権威を、「群衆のきげんを取ろうと思い」使いました。ピラトは人を裁く権威を、群衆を自分の味方にするために使いました。神から与えられた人を裁く権威を、自分のために使いました。神から与えられた権威を自分のために使うとき、その人生はピラトのような人生を歩みます。神から与えられた権威は、謹んで神のために使うべきです。謹んで隣人のために使うべきです。その時、その人生は神の喜びとなり、光り輝く人生として飾られます。

もう一つ、ピラトがイエスを、鞭打って、それから十字架につけるよう、指示したことです。ピラトはイエスを鞭打ってから、血まみれになったイエスの姿を持って、群衆のきげんを取ろうとしていました。しかし、ピラトの判断は、見事に外れました。兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めイエス様をからかいました。そして、ピラトの指示通り、鞭打ちを加えました。イエスは120回程度、鞭打たれたのだと推定されています。イエスの体は血まみれになりました。その苦しみは堪え切れないほどでした。背中の皮膚は鞭についていた鉛により掘り出され、鞭打ちの苦しみのために気力が失いつつありました。その時の様子を、ヨハネは詳細に記録しています。鞭打ちの直後、ピラトはユダヤ人たちにイエス様の悲惨な姿を見せながら言いました。「さあ、あなたがたの王です。」少なくとも、ピラトはイエス様の悲惨な姿を見るだけでも、彼らの間に動揺が広がると思っていました。これぐらいにしておこうと、言う気持ちが広がると判断していました。しかし、それは大きな判断ミスでした。彼らはむしろ、激しく叫んびました。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らの叫びに思わずつぶやきました。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」しかし、祭司長たちは答えました。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」彼らのイエス・キリストへの殺意は頂点に達していました。

イエス様は鞭打ちの苦痛のため、十字架を背負って歩くことすらできない状態になりました。彼らはイエスを鞭打ち、十分に嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せました。それから、イエスを十字架につけるために連れ出しました。しかしながら、イエスは十字架を背負ったものの、前に進む気力がありませんでした。イエスは渾身の力を振り絞って十字架を背負いましたが、倒れました。また足首に力を入れましたが倒れました。十字架を背負って起き上がる力はもはやありませんでした。

21節をご覧ください。「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせんました。」そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行きました。そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしましたが、イエスはお飲みになりませんでした。イエスは少しも十字架の苦しみを和らげるものを口にされませんでした。24節を見ると、「彼らは、イエスを十字架につけました。」イエスの両手と両足に、大きな釘が突き刺されました。大きな釘は皮膚と骨を通り抜け、イエスの体を十字架に貼り付けました。イエスを釘つけた十字架が高くそびえたちました。お昼の12時でした。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてありました。

兵士たちは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけました。無知な人々は、頭を振りながらイエスをののしって言いました。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言いました。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちも、十字架の上からイエスをののしりました。

II. イエス様の十字架の死(33-47)

さて、午後三時になったとき、全地が暗くなりました。この暗闇は、午後六時まで続きました。お日さまもイエスの十字架の死を見つめることができませんでした。私たちもこの十字架の苦しみを、目を隠さずには見ることができないものです。目を覆い、目をつぶりたくなるほど、心の痛みと苦しみを感じます。そして、午後六時に、イエスは大声で叫びました。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」それから、イエスは大声をあげて息を引き取られました。著者マルコは、その時のことについて、イエス様の叫びとともに、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたと記録しています。著者マルコが、イエスの息を引き取ったことと、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたことを関連付けたのにはどんな意味がありますか。

私たちはここで、イエス・キリストの死が神殿と深くかかわっていること、また、イエス・キリストの死の意味が神殿の幕を真っ二つに裂けることにつながっていることを学びます。

第一に、イエス・キリストの死はイスラエルの神殿と深くかかわります。

イスラエルの神殿はモーセに命じられて作られたもので、イスラエルの民が荒野で天幕生活を営む時から彼らの天幕の中に存在していた、今でいえば礼拝の場所・教会で、神がおられるところでした。この神殿は民の罪を購うためのもので、罪を贖うための全焼のいけにえが捧げられる場所として使われました。雄牛と子羊がほふられ、焼き尽くされることにより、民の罪の赦しが行われていた場所でした。モーセとアロンにより、その後はレビ族により受け継がれた祭司職は、この神殿で働き、民の罪のための贖い儀式を行いました。

イエス・キリストの十字架の死は、民の罪のために犠牲となった雄牛のように、子羊のように、神殿でほふられ、神にささげられた子羊でした。民の罪を取り除く、神の子羊として、私たちの罪を背負い、私たちに赦しをもたらすための贖いの死を意味するものでした。その意味で、イエス・キリストの十字架の死は、神により神殿に用意された全焼のいけにえでした。イザヤはこのことを次のように証言しています。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」十字架の死は私たちのすべての咎を彼に負わせたものでした。

第二に、イエス・キリストの死は聖所と至聖所の幕を真っ二つに裂けることに繋がります。

神殿の聖所と至聖所については、へブル人への手紙に詳細に記録されています。イスラエルの天幕に作られた神殿には聖所と至聖所が設けられていました。燭台と机と供えのパンが用意された聖所、そして、垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられました。そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。聖所と呼ばれる幕屋では、祭司たちがいつもはいって礼拝を行いましたが、第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいることが許されました。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありませんでした。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものでした。つまり、至聖所では大祭司の罪が赦されるための、また、民が知らずに犯した罪が許されるための、年に一度の贖罪の儀式が行われた場所でした。なぜ、神様は聖所と至聖所を区別されていたのでしょうか。

ここで、私たちは雄牛や子羊をほふる行為、悔い改めの行為、反省の行為が、モーセやアロンにより受け継がれた儀式によっては完全に解決できなかったことを悟ります。聖なる神様はその解決できない問題、大祭司の罪の問題、民が知らずに犯した罪の問題を見逃すことができない方なので、この至聖所で年に一度、血を携えたうえで、解決する道を、設けて下さったのです。選ばれた大祭司は、年に一度、この至聖所で罪の赦しのための儀式を捧げなければいけませんでした。これは毎年、行うべき儀式でした。しかし、イエス・キリストが十字架につけられ、死なれた時、この聖所と至聖所の垂れ幕が真っ二つに裂けました。それはイエス・キリストの十字架の死により、聖所と至聖所を区別した垂れ幕が必要でなくなったことを意味します。

へブル人への手紙9章12-14節はこのことを、次のように説明しています。「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」また、10章19-20節、「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」

罪の問題は人類の問題です。罪の問題は個人の人生を破壊させます。罪の問題はどんなに優れた反省行為や儀式によってでも解決できるものではありません。どんなに厳しい修業を積んでも、解決できない問題です。いくら慈善事業を拡大しても、いくら自分の体を苦しめても、泣いても、わめいても解決できない人類の問題であり、人間の問題であり、私の問題です。聖所で行われる全焼のいけにえによる贖いの儀式は人間として行う反省や悔い改めを意味します。悔い改めの行為をもって、修業を積み上げることによって、自分の体を傷つけるほどの禁欲的な行為をもって、反省し、悔い改める行為は、聖所で行われる儀式に繋がります。しかし年に一度、至聖所で行われるように命じられた神様の儀式は、我々の人間としては解決できない、どんなに自分を苦しめても、反省し、悔い改めても解決できない問題を、神に選ばれた大祭司によって、解決してもらう儀式でした。大祭司の罪の問題を、また民が知らずに犯した罪の問題を、至聖所での儀式によって神の赦しを受けました。しかし、イエス・キリストの十字架の血の力により、私たちはもうこれ以上、至聖所の儀式の義務を負わなくてもよいことになりました。イエス・キリストの十字架の血の力は、なんと、私たちの良心をもきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とするのです。こういうわけですから、私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるようになったのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。人類の罪の問題、人間の罪の問題、私の罪の問題が、イエス・キリストの十字架の力により完璧に解決できたのです。

宗教改革を起こしたマルティン・ルターはもともと聖アウグスチノ修道会の修道司祭でした。しかしながらルターはどれだけ熱心に修道生活を送っても、祈りを捧げても、誠の心の平安を維持することができませんでした。厳しい修業生活を重ねても頭に浮かびあがる情欲的な罪の考えにさいなまれ、苦しみました。膝が血まみれになるほど自虐的な修行を積み重ねてもなくならない罪の本性に、心の不安を覚えました。心に誠の平安がありませんでした。しかし、ヴィッテンベルク大学学生寮の塔内の図書室で聖書勉強中、新しい福音の光が与えられる体験をしました。それは人間は善行(協働)でなく、イエス・キリストの十字架の死とそれを信じる信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みであるという信仰の原理を悟ったことでした。

使徒パウロも同じ経験をしたことを、ローマ人への手紙に記録しています。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」しかし、パウロは次のように叫んでいます。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」

私たちをイエス・キリストの十字架の愛から引き離すのはありません。患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、私たちをキリストの十字架の愛から引き離すことはありません。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。イエス・キリストの十字架の死を信じる私たちはこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある十字架の神の愛から、私たちを引き離すことはできません。これが十字架の赦しであり、想像を絶するほどの大きな十字架の愛なのです。

十字架の上で、私たちの罪を背負い、私たちに罪の勢力からの完ぺきな勝利と完璧な救いをもたらして下さいましたイエス・キリストを感謝賛美いたします。イエス・キリストの十字架の赦しと、十字架の愛を賛美します。

ハレルヤ

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23