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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その28 --> 問題紙

あなたのみこころのままを、なさってください

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコの福音書14:32-72
要 節:マルコの福音書14:36節「またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」

今日の御言葉はイエス様の十字架を迎える準備と、決断を、また一方ではイエス・キリストの十字架を迎える弟子たちの様子と決断を、比較的に記録している場面です。マルコは、今日の御言葉の中でイエス様の祈りの勝利を、ペテロの自己発見をリアル描いています。今日の御言葉を通して、イエス様の祈りを、決断を、またそれに伴う喜びを学びますように祈ります。また、私たちの弟子としての様子を発見する時間となりますよう、祈ります。

I.あなたの御心のままを(32-18)

32節をご覧ください。イエス様は弟子たちと最後の晩さん会ののち、オリーブ山へ行かれました。それはオリーブ山の別荘にお休みをするためにではなく、お祈りをするためでした。ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われました。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」イエス様は弟子たちに祈りの支援をお求めになりました。さらにイエス様は33節を見ると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れてさらに深い山に入りました。そこで、イエスは深く恐れもだえ始められた。英語では、he began to be deeply distressed and troubled.と書いてありますので、心配と苦しみに包まれたことを意味します。そして彼らに言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」他の人たちには、座っていなさい、と言われました。三人の弟子たちには、目を覚ましていなさい、と言われました。これらの意味は、寝ないで起きているようにというお願いでした。それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、お祈りを始められました。イエス様は弟子たちが寝ないで、祈りに一緒に参画することを願われました。イエス様は一人でも多くの祈りの支援者を背景に、祈ることを願われました。

これだけ懇切にささげたイエス様の祈りが何でしょうか。35節の後半部をご覧ください。「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように」というお祈りでした。ご自分に対する予定が予定通りに実行されずに、過ぎ越されることを祈りました。出エジプトの前に、エジプトにいるすべての長子が死んでいく中で、神様の恵みにより、ユダヤの人々の長子たちが助けられたように、神様の御恵みにより助けられることを願いました。イエス様の祈りは一つの確かな確信に基づくものでした。それは神様のお力によれば、この予定がすぎ去ることも可能であることでした。神様にはお出来にならないことがないという確信でした。神様にささげる祈りは必ず実現する、という確信でした。それは神様への信頼であり、祈りは受け入れられるという確信でした。

ヤコブの手紙5章16節には次のような言葉があります。「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」神様に義と認められた信仰人の祈りには大きな力がある、ということです。イエス様はその上、お出来にならないことがない、という確信がありました。信仰人が祈ればその人生が変わり、信仰人が祈ればその家族や子供の人生が変わり、信仰人が祈れば私たちの周りの環境が変わり、長崎大学キャンパスの雰囲気が変わり、信仰人が祈れば、日本の歴史が変わり、世界の歴史が変わるのです。それがイエス様の祈りに対する信頼でした。イエス様は祈りを持って、お出来にならないことがない、確信を持っておられました。イエス様は祈りが天地創造の力を引き出すものであると、確信しておられました。それでイエス様はこう祈って言われました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。」そして、続けて祈りました。「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」イエス様はご自分に与えられた杯が取り除かれる願いを持っておられました。イエス様はその願いを素直に言葉に出し、お願いをしました。しかし、イエス様ははっきりした方針がありました。心の決め方がありました。それは、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」ということでした。

イエス様は重い杯のために、深く恐れ悶えておられました。弟子たちには「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」と悲しみを言い表し、祈りの支援を求めておられました。「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように」と祈られました。イエス様は絶命的な祈りをささげておられました。身の回りの怖れから、その恐怖心から救い出されることを祈っておられました。私たちは絶命的に命の危険を感じるときに、自然に手を合わせ、「神様」にささげる祈りがあります。私は海軍時代、肉体訓練があまりにも厳しく、ロープの上から力づきで手が放され、体が空中に浮き、下に落とされました。瞬間的に私は「神様、私を憐れんでください」と祈りをささげた記憶があります。イエス様の祈りはそれ以上の、懇切な祈りでした。しかし、イエス様は最後に、次のように祈られました。「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」この祈りは、イエス様の祈りが命の危険を感じながらも、神様のみこころが実現されることを祈ったことです。これはご自分の命よりも、ご自分の計画や願いよりも、神様の願いと神様のご計画を重んじている祈りです。命の危険を感じたイエス様の願いと祈りは懇切なものでしたが、それよりも神様の願いと計画はご自分の命よりも、もっと懇切で緊急なものであると、確信しておられました。

First God. Jesus First.

これがイエス様が教えてくれた、信者の正しい考え方であり、目標です。私は昨年から、一つの祈り課題を持っています。この長崎で私にできることを、教えてください、ということです。きっかけは神様が長崎で仕事の定年を迎えるようにしてくださったためでした。少なくとも、あと十五年間、私にできることを実行に移したいと願っていますし、はっきりした神様の私への願いを見つけたいと思ったからでした。今日の御言葉を準備しながら、私は一つ、神様から教えられた気がしました。それは、「First God, Jesus First」であることです。私の計画より神様の計画を優先することです。大きな計画を作ろうとするより、現在の十字架、現在の仕事、現在与えられた任務を、不平不満を言わず、不満足な気持ちで行わず、感謝しながら実行に移すことです。神様は言われます。テサロニケ第一、5章16節から18節は言われます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」私がこの言葉を主が与えてくださった言葉とし、定年を迎えるまで守り、長崎大学で神様の実を結びますよう祈ります。「First God, Jesus First」

37節をご覧ください。イエスがゲツセマネの祈りから戻って来て見ると、三人の弟子たちは眠っていました。イエス様はその中のペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」イエス様はペテロに祈りの支援を求めました。そして、再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていました。ひどく眠けがさしていたのでした。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わかりませんでした。イエス様はまた、離れて行き、まえて同じことばで祈られました。そして、三度目に来て、彼らに言われました。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」弟子たちは眠りから起き上がることができませんでしたが、イエス様は三度も、ゲツセマネの祈りを捧げました。汗が血の滴のように、懇切に祈られました。サンド祈られたイエス様の口からは勝利の声がありました。「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」祈りは勝利です。何事も、まず祈りで勝利を収めること、これがイエス様の物事に挑む姿勢です。祈りで勝利と確信しました。祈りで勝利を収めました。

II.イエス様の逮捕とペテロの否認(43-72)

勝利の確信があったのち、十二弟子のひとりのユダが現われました。剣や棒を手にした群衆もいっしょでした。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものでした。イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいました。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけをしました。人々は、イエスに手をかけて捕えました。イエスは彼らに向かって言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

イエス様の逮捕は裏切り者ユダのせいでした。大祭司や律法学者、パリサイ人たちの妬みと、高慢のためでした。しかし、イエス様は言われました。「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」私たちへの不幸や突然襲い掛かる悲しみ、思いもしなかった病気や事故などを、私たちはどのように受け止めるでしょうか。「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」と告白すべきです。そして、これらを狙って誘惑するサタンの猛烈な働きに対処すべきです。祈りはそのカギであり、勝利の源です。私たちに勝利のカギと源を与えてくださった神様に感謝讃美いたします。

みながイエスを見捨てて、逃げてしまいました。ある青年は裸で逃げました。当時の恐ろしい雰囲気を物語るものでした。彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来ました。ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行きました。イエスの首弟子、ペテロもイエスを離れました。イエスは大祭司と列席の人々により、イエスには死刑に当たる罪があると決められました。ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけました。「言い当てて見ろ。」などと言ったりし始めました。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打ちました。イエスは逮捕され、残酷な十字架刑につくための苦しみが始まりました。だれ一人、イエスについている人がいませんでした。弟子も、首弟子ペテロも、イエスを否認しました。「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」ペテロはイエスを否定しました。「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」三度もイエスを否認したとき、鶏が、二度目に鳴きました。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出しました。それに思い当たったとき、彼は泣き出しました。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23