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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その26 --> 問題紙


偉大な力と栄光を帯び、雲に乗って来られるイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコの福音書13:14-37
要 節:マルコの福音書13:26節「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです」

今日の御言葉は将来、イエス・キリストが雲に乗って来られる、その時期を予言している御言葉です。そのとき、人々は、イエス・キリストが偉大な力を持って、また、輝かしい栄光を帯びて、雲に乗ってくることを見ます。その時に、私たちはどのような形でイエス様に迎え入れられるのでしょうか。今日の御言葉で、イエス様は、「祈りなさい。」「気をつけなさい。」「眼をさましなさい。」と言われています。この時間、イエス様の言われる、三つのキーワードの意味を深く吟味できますように祈ります。

I.祈りなさい(14-18)

弟子たちが美しく、輝いているエルサレムの城をみて、「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」と感動したとき、イエスは彼に言われました。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」これは神様の審判の日を意味し、この世の最後を告げる日を意味するものでした。聖書はこの世の始まりがあったと同じように、この世の最後があることを告げています。私たちの人生が始まった日と、終わりの日を定めたように、神様は、この世の始まりと最後を主管しています。私たちの人生はいつまでも続くかのようですが、終わりを迎えると同じように、この世の最後を迎える日が定まっています。

イエス様はその日についてひそかに聞きに来ている弟子たちに、その日について語られました。14節をご覧ください。「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)、、、」ここで、荒らす憎むべきものとは、旧約聖書と新約聖書を通じて、ダニエル書(荒らす忌むべきもの)とマタイ福音書、そして、マルコの福音書のこの個所にだけ出ている表現ですが、偶像を指すものです。つまり、神様の代わりに神様の居座る場所に、偶像が立つのならば、というものです。しかし、聖書はよく読みとるべきです。その意味がどのようなメッセージを持っているのかを、勝手に解釈してはいけないことを警告しています。しかし、確かなことは「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなること」を意味します。またこれよりもさらに進んで、神様よりも偶像を崇拝することを意味します。自分の頭を信じ、知識を信じ、人間の知恵を信じ、科学技術や進歩するサイエンステクノロジーを信奉することです。これは今の時代であり、常に、私たちの心に潜在的に存在するものです。私たちはいつ最後の日が来てもおかしくない時代、今すぐ、明日にも世の最後を迎える準備ができている心を持っていると言えます。

そのような時代を生きている人々のために、イエス様は次のように、正す生き方について説明されています。「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中に入ってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」まず山へ逃げるようにと言われます。山は人間社会から人里離れたところです。山はイエス様が祈りの場所として訪れていた場所です。旧約時代、神様は山に現れたとされる表現が多く、山は神様の臨在のところとして位置付けられています。山に逃げるとは、神様に近づくことを意味しますし、この時代に、聖書に目をむくこと、祈りに親しむこと、聖なる生活を求むことを意味します。イエス様はまた、もし人が屋上にいたとしても、降りて家の中のものを取り出そうとせず、畑にいるものの、着物を取りに来ないように、と言われています。今いる場所で、自分の体の支度や自分のメンツを立てるための動きが大切ではないと言われています。それよりも、大事なことがあると、しています。それでは終末を迎える今の時代、私たちは何をすべきでしょうか。

17節、18節をご覧ください。「だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。」身重の女と乳飲み子を持つ女とは幸せを象徴します。しかしながら、最後の審判の日は、幸せが幸せにならなくなります。幸せがむしろ、つらいこととなり、子を産まない女がむしろ良かったのだと叫ばれます。子供たちへの苦しみを見過ごすことのできない、母親の苦しみが描かれています。そのようなときに、「このことが冬に起こらないように祈りなさい。」と言われています。ここで、私たちは、山に近づくこと、祈ること、これが今の時代を生き抜く、信者と聖なるものの向かい地であることを悟ります。「山へ」そして「祈りなさい」、この二つの言葉は、尋ねるところも多く、目をむくところの多い私たちに言われる言葉です。しかも、このことが冬に起こらないように祈る、ようにと言われます。世の最後は必ず来ます。しかし、その苦しみが神様の御恵みにより、柔らかくなることを求めるべきです。私たちの弱さを深く認め、神様の御恵みを求めることは、世の最後を迎える信者の知恵であり、神様の教えです。

II.気をつけなさい(19-31)

19-20節をご覧ください。「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。」神様の哀れみは、信者の祈りと願いによるものです。信者の祈りと願いは力があります。しかし、そのとき、信者たちには誘惑も一緒に訪れます。『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者が現れるからです。惑わす勢力は最後の最後まで、聖なる生き方、祈りを好む生き方、Jesus Firstの生き方に対して誘惑します。最後の最後まで、惑わす勢力は、信者たちへの苦しみを増やします。しかし、その時、信者の生活ぶりについて聖書は何とお話をしていますか。22節、23節をご覧ください。「 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。」

「気をつけなさい」と言われています。気をつけるとは、気を建てることです。アンテナを立てて、よく注意することです。分別することです。そうでないと、私たちは誘惑者に惑わされるからです。誘惑者の餌食になるからです。私の同労者は私に、「関心のないことには何もしない」と指摘しています。気をつけることは、何事もアンテナを張って、関心を示すことです。ぼけーとすることをやめて、積極的に取り組むべきです。惑わす勢力はボケに来ます。無関心に来ますし、アンテナが立たないときに来ます。気をつけるべきです。誘惑者サタンは、吠える獅子のように、私たちを餌食にしようと目を張り巡らしています。しっかりアンテナを張り、緊張を緩めず、神様の願いが何であるのかを悟りえようと努力すべきです。

世の最後について、イエス様は言われます。「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」天の万象とは宇宙の原理であり、地球や宇宙を支える力です。このような力と原理が揺れ動くと、言われます。すべての原理が崩され、想定できない最後の日を迎えるのです。その時は世の最後であり、世の審判の日です。26節、27節をご覧ください。「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」最後の審判の日、聖なる生き方をし、神を神として崇め、正しいことを正しいと認めていたひぃと人には、救いの日となります。

「いちじくの木から、たとえを学ぶべきです。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると悟るべきです。」A君と一緒に調査に行ったとき、私たちは目の前に広がるイチジクの木を見て、一生懸命写真を撮りました。葉が重て、イチジクがなり、熟している最中でした。秋のさなかに入っていることを意味するものでした。同じように、天の万象が揺れ動き、宇宙の原理が利かなくなり、太陽が暗くなり、月が光を放たなくなるとき、私たちは世の終わりが近づいていることを感知すべきです。自然現象の中にはもう、これ以上、人間の力では対応できないことが見えています。鳩山政権の二酸化炭素の削減率も、このような怖れと警告から来たものです。信者は今の時代、審判の日が近づいていることを悟るべきです。

31節をご覧ください。「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」天地はほろんでいきますが、滅びることのないものがあります。それは神様の御言葉です。神様の御言葉は審判の審議書であり、審判の裁判基準であり、最後の日のメッセージです。私たちが聖書を勉強するようになったこと、神様の御言葉に出会うようになったことはどれだけ幸せなことでしょうか。神様の御恵みが私たちにあり、言葉をくださった神様に、感謝をささげ、もっとことばに近づくものとなりますように祈ります。

II.目を覚ましていなさい(32-37)

最後の日について、イエス様はつづけて言われます。「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」つづけてお話の内容を説明されます。「それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。」

私たちは神様に任せられた仕事があります。割り当てられたタラントと求められる要求があります。私たちはただの60年間の人生、80年間の人生、または1年間の仕事、四年間の学生生活、20年間の職場など、その時ごと任せられたものがあります。神様が旅から帰ってこられたとき、私たちはそれぞれ結果をもって判断されます。結果を持って「良いしもべ」であったり、「悪いしもべ」であったりと、判定されます。イエス様は言われます。「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」これらは神様を知っている人であろうとも、そうでない人であろうとも、同じです。それを知っている私たちは幸せです。最後の日に、忠実で良いしもべとししての判定をうけるように、目を覚ましていきますよう祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23