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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その25 --> 問題紙


福音がまずあらゆる民族に

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御言葉:マルコの福音書13:1-13
要 節:マルコの福音書13:10節「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」

人々はこの世が永遠に続くものだと思っています。また人々の中にはこの世で永遠に生きられるかのように思い、必要以上に欲張っている人がいます。しかし、朝があり夜があるように、夏が終わり、秋が来て冬になるように、この世は必ず終わりの日が訪れます。この中にはまだ二十歳にもなっていない若者もいます。まだ人生の経験が少ないのに、もう終わりの話しをするのは申し訳ありませんが、未来のことが分かれば、これからの人生をどう送るべきか、人生において何が一番大切なことかを知るという面で非常に重要な話だと思います。私達が今日の御言葉を通して、この時代を見分ける力を頂きますように祈ります。また、神様が私達に与えてくださった福音を宣べ伝えることに一層励むことができるように祈ります。

1節をご覧ください。イエス様が、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエス様に言いました。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」エルサレムの中心部にあったこの宮はヘロデ大王が政権を握った後、ユダヤ人の歓心を買うためにBC20年に着工されたもので、ヘロデ神殿とも呼ばれているものでした。悪名高いヘロデ王ですが、彼は公共事業では数多くの業績を残した人物です。ヘロデ神殿の評判は諸国に広がり、諸国に滞在していたユダヤ人をはじめ、多くの参拝者が訪れるようにもなったようです。私達は8月に夏の修養会の帰りに名古屋城に寄りました。名古屋城は1612年、徳川家康が築城したもので、わたしたちは「何とみごとな石でしょう。何とすばらしい城でしょう」と言いました。しかし、それよりはるかに古くから建てられたエルサレムの神殿は、弟子たちにとって驚嘆そのものでした。

AD1世紀に活動した政治家で著述家であるヨセフスによると、神殿の土台となる石一つの大きさは長さ十三メートル、高さ4メートル、幅6メートルもあったそうです。神殿の床は白い大理石で、内部は金銀で飾ってありました。神殿の柱は大人3人が両腕を伸ばしてやっと届くくらいの大きさでした。特にドーム型の屋根には純金が塗られ、朝、太陽が上るとその光がまぶしくて正面に見ることができないぐらいだったそうです。長崎で生まれ育った人が初めて東京に行くと、高層ビルや人の多さに驚くように、田舎出身の弟子達は神殿のすばらしさに驚いて口を閉じることができませんでした。今の時代だったら、デジタルカメラで記念写真を撮ったはずです。ところが、イエス様は弟子たちに何と言われましたか。

2節をご覧ください。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」イエス様は祈りの家となるべき宮が強盗の巣になっているのをご覧になりました。イエス様は心を痛めながら、この宮が徹底に破壊されることを予告されました。弟子たちは、宮の霊的な状況より、建物そのもののすばらしさに驚いていました。私達も人に会うとき、また今の時代を見るとき、弟子たちのように外見だけを見て判断しがちです。あの人はハンサムで金持ちだからきっと幸せだろう。この国は戦争もなく豊かだから、みな幸せだろうと思い込みがちです。しかし、イエス様は、人はすべて悔い改めが必要な罪人であること、この世で永遠に残るものは一つもないと宣言されました。人はいくら幸せそうに見えても、それなりの悩みをもっており、自ら罪の問題、死の問題を解決することはできません。金も職場も名誉も権力も神様から一時的に預かったもので、いつかは神様に返すときが来るのです。イエス様は弟子たちが気づくことのできない霊的な面、人の心を見抜いておられました。そして、今は輝いている宮であっても将来必ず崩れ落ちることを予告されました。実際、イエス様の予言は50年も経たないうちに現実となりました。AD66年ユダヤ人の乱が起きました。抵抗が激しくなるとローマ軍はエルサレム神殿を完全封鎖し、3年間包囲することによって9万7千人が捕虜になり、110万人が徐々に迫る飢餓と剣によって滅ぼされました。さらにローマ軍は神殿に向けて火の矢を放ち、純金メッキの屋根が解けて、下の石の隙間に流れ込みました。兵士たちは、その金を取るために、神殿の石を取り除き、結局イエス様が言われたとおりに、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありませんでした。

弟子たちはイエス様のお話を聞いてびっくりしました。当時エルサレムの崩落は世の終わりであるという認識がありました。弟子たちは緊張して、もう少し詳しいことを聞きたくなりました。世の終わりの前にどういう前兆があるか知りたくなりました。これに対してイエス様はこのような弟子達に何を警告されましたか。

5、6節をご覧ください。そこで、イエス様は彼らに話し始められました。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大勢現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」イエス様以来数々の偽キリストが現れました。その中には「エホバの証人」や「統一教会」などがあります。「エホバの証人」は、神様と聖霊とイエス様の三位一体を否定し、この世で神の王国が実現されると伝え、人々の心を惑わしています。統一教会の教祖である文氏15歳の時にイエスの使命を受け継いで欲しいという神からの啓示を受けることを契機に新しい真理を悟ったといい、韓国や日本を含めて多くの人々を惑わしています。それだけではなく国内には新興宗教またはカルト宗教がたくさん存在します。私達がよく知っている団体だけでも、法の華、オウム真理教、創価学会、統一教会、幸福の科学、PL(パーフェクトリバティ)教団などがあり、政治界、芸能界、スポーツ界などにも浸透しています。しらべてみると、私達がよく知っている有名人もたくさんいます。中には、キリスト教という看板を使ったり、聖書を教材として使ったり、一見健全そうに見える教団もありますが、いずれにせよ教祖を崇拝したり、聖書の特定の部分のみを拡大解釈して人々を心を混沌させているのです。ある専門家の話しによると、このような世界にはまりやすい人の特徴としては、心配性の人、こうでなければならなりと思い込んでいる真面目な人、孤独な人、話し合う人がいない人、超能力などが好きな人、自分に不満を持って変わりたいと思っている人が要注意人物だそうです。しかし、いくら強い人でも自分は絶対惑わされないと言い切れる人は一人もいないでしょう。私達は神様の御言葉である聖書の教えに信仰の根を深く降ろし、これらの惑わしに心を揺らしてはいけません。

7、8節をご覧ください。「また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉も起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。」終末、つまり世の終わりの前兆として戦争が起こります。人類は第一次、第二次世界大戦を通して戦争の恐ろしさや悲惨さを経験しました。長崎市民はだれよりもその悲しみと恐ろしさをよく知っています。しかし、世界の国々ではいまだに、絶えず戦争や紛争が起こっています。方々に地震があり、飢饉も起こります。世界の各国で地震が起きています。特に日本は地震大国と言われるほど地震が頻繁に起きています。東海大地震がいつ起きてもおかしくないと思うと恐ろしくなります。地震だけではありません。21世紀になった今日でも、西アフリカ、インド、東南アジアでの飢饉は慢性化しています。日本は豊かな国ですが、地球の反対側では世界の人口の半数以上の人々が飢えて苦しんでいると言われています。地球温暖化により自然環境はますます悪化しており、人々はみな不安を感じています。ところが、このような災難は聖書的に見ると、やがて新しい時代を産むための産みの苦しみの始まりで、まだ終わりではありません。また、妊婦が産みの苦しみを経験した後に新しい命が誕生するように、災難の後には、イエス様が輝かしい栄光の中で雲に乗って来られます。その日はノンクリスチャンたちにとっては恐ろしい審判の日ですが、クリスチャンにとっては勝利の日、救いの日となります。ですから、災難の中でも神様がすべてのことを主管しておられることを信じて恐れる必要がありません。すべてのことを働かせて益としてくださる神様を信じて、信仰によって乗り越える必要があります。

9節をご覧ください。「だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。」議会に引き渡されるとか、会堂でむち打たれるとかは、ユダヤ人の迫害を意味しています。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます(Ⅱテモテ3:12)。しかしここにはどんな神様の御旨がありますか。「それは彼らに対してあかしをするためです。」とあります。迫害はむしろ福音を宣べ伝えるよい機会となります。日本では宗教の自由があり、教会に通うことで物理的な迫害を受けることはありませんが、実際北朝鮮や中国では、宣教師たちが逮捕されたり追放されたりします。しかし、このような命をかけての献身によって福音が宣べ伝えられているのです。

10節をご覧ください。一緒に読んでみましょう。「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」イエス様は世の終わりの前兆について言われてから「福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」と言われました。神様の天地創造によって人類の歴史が始まりました。しかし、アダムの罪によって、人類はパラダイスであったエデンの園から追放され、一生苦しんで食を得なければならなくなりました。しかし、神様は女の子孫から救い主イエス様を送ってくださり、イエス様の十字架と復活によって救いの道を開いてくださいました。これが福音、ゴスペルなのです。そして、あらゆる民族にこの福音が宣べ伝えられてから終わりの日を迎えるようになります。このように聖書は歴史の始めがあり、終わりがあることをはっきりしています。世の人々は政治、経済を重要視しています。政権交代によって民主党の鳩山政権が、幸せをもたらしてくれると期待しています。アメリカのオバマ大統領が世界の歴史を動かしているように見えます。しかし、歴史の主管者は神様です。私達に本当の喜びと幸せをもたらしてくれるのは神様の御言葉です。神様が世の中の権力者を通して親しく歴史を動かしておられるのです。

イエス様は「福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」と言われました。ここで「まず」というのは、時間的に先という意味より一番価値あるもの、一番大切なものという意味です。福音が全世界に宣べ伝えられ、すべての国、民族、人々にあかしされてから終わりの日が来ます(マタイの福音書24:14)。これがキリスト教の歴史観です。

私達にはやるべきことがたくさんあります。生活のための仕事があります。学生はよい成績を取るために勉強をしなければならないし、アルバイトの十字架もあります。子供がいる家庭では家事や子供の世話で忙しいです。学校や地域社会でそれぞれの役割があり、それもしっかりやらなければなりません。一日一日これらの生活に追われると落ち着いて聖書を読んだり、祈ったり、羊たちに福音を伝えることは簡単ではありません。しかし、本当は私達が優先的にしなければならないことは、福音を宣べ伝えることです。イエス様は何を食べようか、何を着ようかと心配している弟子達に言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)。私達と私達が祈っている人がいつまでも元気で福音を伝えるチャンスが無限に多ければ別ですが、実は時間的にも空間的にも非常に限られています。ある人には今の瞬間が最初で最後のチャンスかもしれません。私は先週しばらく韓国に一時帰国していました。久しぶりに家族と会いましたが、いつものより家庭の福音化について切なる心が生じました。特に両親は年老いて福音を受け入れるチャンスが少なくなってきたからでした。このような中で神様は私に祈る勇気と信仰を与えてくださり、福音を伝えるように助けてくださいました。神様が私と同労者の家庭を哀れんでくださり家庭福音化を成してくださいますように祈ります。また、職場ではKさんとTさんのために個人祈りをしています。私がこれまでは人間的な信頼関係を結んできましたが、これからは具体的に福音を伝えることができますように祈ります。

11節をご覧ください。「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」弟子たちが迫害を受ける時、なぜ何と言おうかなどと案じる必要がありませんか。聖霊が私達を助けてくださり、言うべきことを親しく教えてくださるからです。

12、13節をご覧ください。福音のために、自分の家族に迫害されたり、みなに憎まれたりすることは耐え難いことです。しかし、どんな人が救われますか。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。信仰生活は短距離の競争ではありません。それはマラソンのようなものです。人生の旅の目的地に到達するまで堪え忍ぶ必要がありまます。その時、私達には永遠の命が与えられ、神の国を相続するのです。

私達は聖書勉強を通して福音を宣べ伝えています。聖書は人類に与えてくださった神様の最大のプレゼントです。聖書の主題はイエス・キリストです。聖書はイエス・キリストを信じることによって神様の子供となり、永遠のいのちが与えられ、神の国を相続できることを教えてくれます。パウロは福音の力について次のように言いました。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)。

聖書勉強を通して神様の御言葉が活発に宣べ伝えられているところにはいのちの御業が活発に起こります。聖書を熱心に学ぶ時、心には感謝と喜び、平安が満ち溢れるようになります。子供たちに聖書を熱心に教える時に子供たちが立派に育ちます。ですから、聖書勉強こそ個人や家庭や国を幸せに導くものなのです。私達がこの聖書を熱心に学び、それを熱心に伝えることができるように祈ります。神様が二学期の1:1聖書勉強の御業を大きく祝福してくださるように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23