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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その24 --> 問題紙


生きている者の神様

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコの福音書12:18-44
要 節:マルコの福音書12:27節「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

今日の御言葉ではイエス様がサドカイ人、律法学者、群衆たちと一緒に聖書勉強をしています。イエス様はサドカイ人たちには、『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』という言葉の意味を深く勉強しました。律法学者たちとは『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』という言葉の勉強をしました。また、群衆たちとは『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』という言葉の意味について勉強しました。今日の御言葉を通して、聖書勉強の深い意味について学びますよう祈ります。

I.生きている者の神(18-27)

18節からの御言葉をご覧ください。当時、聖書が教えていた「復活」について、サドカイ人たちは「復活がない」と主張していました。彼らはその主張の根拠に、モーセの教えの矛盾を取り上げていました。ダビデの時代、祭司として活動していた「サドク」の名前にちなんだ「サドカイ人たち」は聖書の意味について論争することを楽しむ人たちでした。彼らは誰よりも聖書勉強に熱心でその意味を探ることやその意味を議論することに人一倍でした。彼らはモーセを信奉し、モーセの書が正しいのに、矛盾があるとするならば、その考えが間違いであると主張しました。彼らがイエスのところに来て、質問しました。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』サドカイ人たちは、「モーセは私たちのために」この言葉をくださったのだと、言っています。なのに、この言葉に矛盾があるのなら、それはおかしい、という論理です。「復活」があるのなら困ることがたくさんある、という意味です。彼らの論調はこうです。

「七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」と、その矛盾を問い詰めました。イエス様は彼らの問題について何と言われますか。24節の御言葉をご覧下さい。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」

第一に、聖書はすべて、神の霊感によるものです。

聖書は一点一画も変えることのできないものです。聖書はこの宇宙が滅ぼされるときにも、変わることのない絶対真理の御言葉です。私たちの目には矛盾がありそうであっても、聖書の言葉そのものには全くの矛盾がない、と信じるのに値するものです。特に、テモテの手紙第二の3章16節、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」という言葉は意味深いものです。特に、「聖書はすべて」という言葉はこれは正しく、これは怪しい、というものはない、という意味です。サドカイ人たちモーセの律法は正しいのですが、そのほかは怪しいとしていたのです。モーセの律法は間違いなく、他は少々矛盾がある、としていたのです。しかし、イエス様は彼らに、「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」と指摘しておられます。聖書はすべて、神の霊感によるものです。部分的に正しく、部分的には間違いがあるものではないのです。

第二に、復活はあり、人が死人の中からよみがえりが待ち受けています。

サドカイ人たちはモーセの書に書いてあるのが現実的には矛盾が生じる、ので「復活はない」と反論していました。その理由が何でしょうか。それは彼らが神様の力を人間的に解釈したためでありました。人間的な目で見てはあり得ないことも、神にはできるのです。マルコの福音書10章、ルカの福音書18章を見ると、神の国に入れる金持ちの人について話をしている時、金持ちが神の国に入るより、ラクダが針の中を通る方がました、とすると、弟子たちは「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」とイエス様のお話を怪しげに考えました。そのとき、イエス様は言われました。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」神様の力を限定するとき、私たちは信仰も、神の国も、聖書も受け入れることができません。聖書は正確にいえば、神の力を教えるものです。聖書の言葉通り、復活はあり、人が死人の中からよみがえりを体験する時が来ます。「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

結論的に、イエス様は彼らが絶対とされるモーセの書を持って、復活を補足しています。26-27節の御言葉をご覧ください。「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』この言葉は、モーセに自己紹介をしておられる神様の御言葉です。モーセの時代、アブラハムは死んでいましたし、イサクも、ヤコブも死んだ先祖でした。しかし、なぜ、あえて神様は死んだ先祖たちの名前を取り上げてまで、自己紹介をされているのでしょうか。彼らの体は死んだものの、生きているときに信仰によって生きていて、神の国では死を味わってない、永遠の命に移っているのです。神様は信仰によって永遠の命を手にした人々の神様であって、不信仰と罪に溺れて死んでしまった神様ではないのです。私たちの神様は死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様です。これは別の言葉から言えば、神様は不信仰の者の神ではなく、信仰人の神様である、ということです。不信仰の神としては働きませんが、信仰する人々の神として働いておられる方です。

アブラハムのように、イサクのように、ヤコブのように、異邦の地に住みながらも、カナンを与えると約束してくださった神への信頼を衰えることがなく、持ち続けた信仰人の神様です。神様はこのようなアブラハム、イサク、ヤコブの名前を使って、ご自分の自己紹介をすることを喜ぶ方です。信仰人の揺るがない信仰を喜び、信仰人の続ける祈りを喜び、信仰人のつかんだ言葉を喜び、実現することを惜しまない方です。私たちに信仰があれば、永遠の命があります。私たちに信仰があれば、神の国が保証されます。私たちに信仰があれば、復活が待ち受けています。私たちに信仰があれば、私たちは神様の栄光を表す人生を送ることができます。

長崎大学から3パーセントの信仰の塩を得ますように祈ります。世界のキャンパス宣教の源として遣ってくださいますように祈ります。

II.心をつくし、思いを尽くし、力を尽くして(28-44)

28節の御言葉をご覧ください。律法学者がひとり来て、サドカイ人たちとの議論を聞いていました。律法学者はこのイエスに尋ねました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」これは律法学者が求めていたものでした。これは彼の研究課題であり、常に頭の中で整理できない悩みの種でもありました。彼はこれが整理できないまま、重苦しい心を整理することができずにいました。彼は一障害、この答えはないと思っていたのかもしれません。彼はこの真剣な問題を、イエスにぶつけました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」

29節をご覧ください。すると、イエスは答えて言われました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」これはモーセの律法を簡潔にまとめた、につに素晴らしい回答でした。これはモーセの律法の教えの総括でした。これは聖書の総括でもありました。そこで、この律法学者は、イエスに言いました。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」彼はイエス様のお話を聞いて、大切なことをたくさん悟りえました。主は唯一の神であること、その神にどのように使えるべきであるのかについて、見事な正解を得ました。イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われました。「あなたは神の国から遠くない。」神の国は主の言葉を聞いて、悟りえるときに近づくものです。神の国は福音により得られるものです。神の国は福音による信仰から獲得できる世界です。福音は人々に神の国を紹介するよい知らせです。この福音を聞く人、悟る人には喜びがあります。大勢の群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていました。しかし、彼らをその喜びから誘惑するものがありました。それは律法学者の教えです。「長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きなことです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをすることです。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。見えることを好む心を捨てて、御言葉から来る喜びを好むべきです。形よりも、大切なものは、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことです。

41節からイエス様は一つの例えをもって、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことの大切さを教えています。イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられました。多くの金持ちが大金を投げ入れていました。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れました。それは一コドラントに当たるものでした。つまり、スズメを二羽変えるお金でした。ローマでは一回の銭湯に入れるお金でした。正確に計算しても、200円に満たないお金でした。その献金の様子を見て、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことの模範を説明されたのでした。このような生き方を、聖書は求めておられますし、そのような人々を永遠の命に招待されます。そのような人々の名前をもって、自己紹介することを喜んでおられます。神様は生きている者の神です。死んだ者の神ではありません、

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23