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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その23 --> 問題紙


一人息子を遣わされた神様の愛

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコの福音書12:1-17
要 節:マルコの福音書12:6節「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。」

マルコの福音書を勉強し始めて、半年近くなりました。マルコの福音書も最後の部分に差し掛かりました。今日の御言葉から2章にわたって十字架事件を控えたイエス様の最後の教訓が述べられています。祭司長、律法学者、長老たちに向けられたこの言葉は、イエス様の切なる願い言葉であり、イエス様が彼らに述べ伝えられた福音とも言えます。今日から2章に渡る御言葉を通してイエス様の福音を耳にすることができますようにお祈りいたします。

I.ぶどう園の農夫の例え(1-12)

1節の御言葉をご覧ください。イエスは、たとえを用いて祭司長、律法学者、長老たちにに福音のお話を始められました。まず、たとえ話です。

ある人がぶどう園を造りました。このぶどう園には主人の思いと夢が詰まっていました。主人はぶどうの木を害する動物からぶどう園を守るために、ぶどう園に垣を巡らしました。また、収穫のための酒ぶねを掘り、美味しい葡萄酒を作る準備をしました。盗人からぶどう園を守るためにやぐらまで建てました。主人は完ぺきなぶどう園を用意しました。それから、それを特別に選んだ農夫たちに貸して、旅に出かけました。このぶどう園は主人の誇りであリ、思いの詰まったところでした。

2節をご覧ください。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わしました。主人は、主人に対する感謝の気持ちに満ちた農夫たちの笑顔と元気な姿に出会うことを喜びとしていました。主人は今度、主人と農夫との正しい関係を再確認し、収穫の一部をその代価として受け取ることを願っていました。

ところが、3節をご覧ください。彼らは、期待していたこととは裏腹にそのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰しました。主人はびっくりしました。そこで、今度はよく訓練された謙遜な別のしもべを選び、主人の気持ちをよく伝えるよう頼み、農夫たちのところに遣わしたが、彼らは、今度はそのしもべの頭をなぐり、はずかしめました。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまいました。忍耐強い主人は続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは主人のしもべたちを袋だたきにしたり、殺したりしました。

6節をご覧ください。その主人には、なおもうひとりの者がいました。それは愛する息子でありました。主人は真剣に考えた末、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を農夫たちのところに遣わしました。ところが、その農夫たちはお互いにこう話し合いました。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨ててしまいました。

ここであらわれるぶどう園の主人は神様を、農夫は特別に神の民として選ばれたイスラエルの民を、しもべはその時代ごとにイスラエルの民たちに派遣された主の預言者たちを、最後の息子は「イエス・キリスト」を意味します。神様は選ばれたイスラエルの民たちのためにすべての良いものを用意し、立派なぶどう園をおつくりになりました。主人の願いはただ一つ、ご自分が主人で、彼らはぶどう園で働くために選ばれた農夫であることを、お互いに深く認識することでした。それが彼らの幸せであり、彼らの本名であり、生きる目的でした。農夫たちは主人に感謝し、主人は彼らのすべての人生を責任持つ主人と農夫の関係性を保つことが求められていました。

最後に、ご自分の息子を遣わされるとき、主人は言いました。『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』これが神様のその民に向けられた願いであり、お求めになるものでした。それは、主人とその息子を敬うことです。神を神として崇めること、これがイスラエルの民に求められた神様のただ一つの要求でした。それが彼らの幸せにつながり、人生の保証となり、平和の根拠でした。しかし、息子に対する彼らの反応は、『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』と記録されてる通り、農夫たちの心は財産にありました。しかも、主人の財産を自分たちの財産にしようとする泥棒の心でした。いくら頑張って主人の財産を自分たちのものにしようとしても、それはできるものではないのです。ぶどう園は主人のものであって、農夫たちのものではないのです。いくら頑張っても農夫たちのものにはならないのです。それは貸し出されたもので、しばらくの間、そこで働き、ついには主人に返さなければならないのです。しかし、農夫たちはそのぶどう園が自分たちのものになると思い違いをしていたのです。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』息子だけ殺せば、ぶどう園は自分たちの財産になると誤解していたのです。

私たち人間には農夫たちのような愚かさがあります。神様から与えられたぶどう園がまるで自分たちのものになれると思ったりしています。神様から与えられた命がいつかは神様に返すべき、神様のものであると思っていません。自分たちのもので、自分勝手にすかって、自分勝手に使用してよいと思っています。神様から与えられた体も心も魂も、感謝して大事に管理し使って、ついには神様に返さなければいけない神様のものであることを知らないのです。この体も自分のもので、勝手に傷つけてよいと思ったり、自分勝手に改造してもよいと思ったりします。心も魂もよく管理して、聖なる形を保ち、神様についには返さなければいけないことを忘れがちです。神様に幾分、献金を求められたり、幾分の時間を割り当ててもらおうとすると、そのお話をするしもべたちに向かって腹を立て、袋たたきにし、ついには殺す計画までするのが私たち人間です。聖書は最初から最後まで、人間と正しい関係を保ち、人間が神様に敬うことを求めています。神様がすべての主人であり、私たちは選ばれた農夫であることを認識することを求めています。私たちの心に神にささげる「収穫の分けまえ」をもったいないと思ったり、私の職場も、私の給料も、私の時間も、私の体も、私にものにしようとするなら、どうなりますか。

9節、「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」私たちは心を謙遜にし、わがままな自分を認め、常に神様の前に立ち悔い改め、罪を赦していただくために祈るべきです。惑わすものの勢力にとらわれることなく、神に返す物を神に返し、神様と正しい関係を結ぶべきです。その時、私たちへの約束があります。詩編はこう言っています。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

10節の御言葉をご覧ください。イエス様は言われます。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」

神様の期待と忍耐にも関わらず、彼らはついに、その息子を殺すことを、イエス様は見ています。イエス様はついに家を建てるものの見捨てた石になることを予言しています。しかしながら、イエス様は聖書の御言葉を持ってそれが主のなさったことであると確信しています。しかし、私たちの目には不思議だらけです。

ここで私たちは神様の忍耐と、最後まで続く愛の行動、また、人間の最後まで続く自己中心的な行動に神様のメッセージをつかむことができます。また、イエス様の十字架の死は家を建てるものが見捨てた石のようですが、しかし、神様は見捨てた石を、救いの礎の石に仕上げられたのです。最後まで自己中の人間を、イエス様は十字架の死をもって救いの道を開かれたのです。かたくなな人間は十字架以外に救いを得る道がありません。イエス・キリストの十字架は家を建てる者たちの見捨てた石ですが、それが救いの道の礎の石になりました。これは主のなさったことです。私たちの目には、不思議なことです。頭で理解できる救いでもなければ、私たちの力によって得られる救いでもない、すべて神様により計画された完ぺきな救いなのです。私たちは一人として、自分の能力や熱心では救いを手にすることができない存在です。しかし、イエス・キリストの十字架の力により、私たち罪びとは、信仰により完ぺきな救いを、完ぺきな赦しを、完ぺきな平和と保障を手にするものとなったのです。この神様の不思議な救いを、感謝讃美いたします。これが福音であり、述べ伝えるべきメッセージです。

彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしましたが、やはり群衆を恐れ、イエスを残して、立ち去りました。私たちは本文に出ている祭司長、律法学者、長老たちの姿をしています。しかし、イエス・キリストの十字架の死は私たちのようなもののために用意された、完ぺきな救いを用意されています。どんな人でも、十字架を受け入れる人に救いと許しが訪れます。

II.ぶどう園の農夫の例え(13-17)

12:13 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。 12:14 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」 12:15 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」 12:16 彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。 12:17 するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。

はれるや

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23