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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その22 --> 問題紙


神を信じなさい

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコの福音書11:20-33
要 節:マルコの福音書11:22節「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい。』」

今日の御言葉は、イエスさまが愛するペテロに教えた「信仰」についての御言葉です。ペテロは昨日までも葉の茂って元気だったイチジクの木が、根から枯れているのを見て叫びました。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」イエス様はそのペテロに向かって言われました。「神を信じなさい」今日の御言葉を通して、神を信じることの意味について学びますように祈ります。

I.神を信じなさい(20-25)

20節の御言葉をご覧ください。イエスさまと弟子たちは昨日も一昨日も、エルサレム城に上りました。それはユダヤ人として成人男子の出席が義務づけられている祭りに参加するためでした。祭りは七日間続く「過越の祭り」でした。祭りの三日目を迎えたイエス様一行は、今日も、朝早く、エルサレムに上る道のりを通りかかっていました。すると、彼らの通りかかる道に立っていたいちじくの木が根まで枯れていたのに気がつきました。21節をご覧ください。ペテロは思い出して、イエスに言いました。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

ペテロは何を思い出していたのでしょうか。イエスさま一行が今度の過越しの祭りのエルサレムに上った二日目のことでした。宿のあるベタニヤを出て、いつものようにエルサレムに向かう途中、イエス様は空腹を覚えられました(11:12)。道の途中、珍しく、葉の茂ったいちじくの木が遠くから見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれました。しかしそこに来ると、葉の茂ったほかは何もありませんでした。いちじくのなる季節ではないのに、葉の茂った形をし、遠くから見ては何かありはしないかと思わせる様子でした。イエスは、その木に向かって言われました。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていました。そして、三日目の朝早く、エルサレムに上る途中、あのイチジクの木が根から枯れているのにペテロは気がつきました。それでイエス様のイチジクへの呪いが思い出されました。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

ペテロはイエス様の一言で根まで枯れてしまったイチジクを見て、驚きました。あり得ないことだと思いました。しかし、根まで枯れているその様子を見て、叫びました。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」この言葉の中でも、特に、「あなたののろわれたいちじくの木」が強調されています。あなたの一言がイチジクの木を枯れさせた、という意味です。ただ、一言を言っただけなのに、イチジクの木が枯れてしまうとは、ペテロにとっては驚きでした。一体その力はどこからのものなのか、不思議でした。それでペテロは叫びました。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

22節と23節をご覧ください。その話を聞いて、イエスはペテロに答えて言われました。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」

山に向かって「動いて、海に入れ」と言えません。山は聞く耳がありませんし、動く足も付いてないからです。いくら考えても、無謀な話ですし、その言葉は力を発揮することができません。しかし、イエス様は「そのとおりになる」と言われます。いつ、その通りになるのでしょうか。どんなときに、その通りになりますか。

第一に、神を信じるときです。

神を信じるとは、神様があり得ないようなことを、する方であることを信じることです。耳もなく、足もない山に向かって、「動いて海に入れ」といっても、その言葉が神様への信頼と信仰に基づくものであれば、神様はその通りにならせる力のある方なのです。イエス様はマルコの福音書4章39節でも、荒れている風や荒波に向かって言われました。「黙れ、静まれ。」強風には耳もありませんし、荒波にはその言葉が伝えられるはずがありません。しかし、イエス様は全能な神様は強風を、荒波を静まらせる力があることを確信して、風に向かって荒波に向かって言われました。「黙れ、静まれ」「すると風はやみ、大なぎになった。」とマルコはその奇跡を記録として残しています。イエス様は神様が全能な方であり、言った通りになると信じると、その通りにならせる方であることを信じておられました。イエス様の言葉は神様への信頼と信仰に基づくものでした。私たちの言葉が神様への信頼と信仰に基づくものであれば、その言葉はその通りになる力があります。それで、イエス様はペテロの驚いている姿を見て言われました。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」

第二に、山に向かって「動いて、海に入れ」というときです。

神様の力は、とんでもないことを、全能な神様を信頼して、口から言い出すときから動き始まります。1960年代後半、UBFの活動が始まって10年近くなるとき、私たちUBFは宣教師を派遣する団体になれるように、口出して祈り始めました。1990年代初期、まだ、ロシアが共産主義のときに、同じく私たちは口出して「10年以内に、ロシアが戸を開き、宣教師たちが派遣されるように祈りましょう」と、祈り始めました。後進国が先進国に宣教師を派遣すること、共産主義の国が宣教師を受け入れるようになること、これらはすべてあり得ないようなことでした。しかし、全能な神様を勉強するたびごと、神様にはそのようなことを、手のひらを変えるぐらい、簡単なことであることを信じることができました。その信仰の中で捧げた私たちの祈りは驚くほどに、答えられました。

ある青年は大学のとき、UBFで聖書を勉強する中で、神様の驚く力に感心し、神様への信頼と信仰が生まれました。そこで神様への信頼を口にして「この私が大学の教授になれるように」と祈りました。彼の当時の姿を考えてみると、これは無謀な話であり、あり得ない話でした。その祈りは考えられないことでした。この話を聞くすべての人々が笑いました。しかし、その言葉は見事に実現しました。彼はお祈り通り大学で教える仕事につきました。信仰により言い出した言葉は、その通りになる力があります。

第三に、自分の言ったとおりになると信じ続けるときです。

「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」口出して言った言葉を、自分の言ったとおりになると信じ続けること、これが信仰人の戦いです。それには祈りが伴ないます。それで、イエス様は言われます。24節の御言葉をご覧ください。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」信じ続けること、祈り続けること、すでに受けたと信じ続けること、これがその通りになる力を体験する根源です。

私たちは長崎大学の3パーセントの学生がキリストの弟子になることを祈りの課題として取っています。これは全能の神様の力からすれば軽いものです。私たちが口出したので、祈りし続けるとき、信じ続けるとき、疑いと戦い続けるとき、このことは現実化されます。私たちはまず、長崎大学の3パーセントの学生たちがキリストの弟子になったことを信じて感謝することです。

私は今の職場に安定したとき、神様は私に何を求めておられるのか、昨年の一年間、熟慮してきました。神様はこの私に一年を通して主の言葉を下さいました。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう(黙示録2章10b節)」「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。しかしあなたは実際は富んでいる。(黙示録2章9a節)」「『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。(ヨハネ4章37節)」

これらの言葉を涙を持って黙想しながら、私に任せられたことは「長崎大学の宣教」であり、「聖書勉強」や「立派な聖書先生になる」ことが、私の祈りの課題、驚く神様の実現のみであることを悟ることができました。これらは必ず実現に向かって動いている神様の御業であることを、確信しています。私はこれらの祈りの課題が実現したと信じることができます。しかし、主は私に言われます。「立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」私がますます、人を赦す力を保つべきです。私が人の過ちを赦し、私の過ちを赦してくださる神様と正しい関係を保つために努力すべきです。その時、神様は私に不思議と、神様の御業を体験してくださいます。

II.神様からの権威(27-33)

イエス様の一行はまたエルサレムに上りました。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来て、イエスに言いました。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」それは、イエス様が宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかったからでした。彼らはイエス様の行動がいったいどこからの権威によるものなのかを調べたいものでした。そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合っていました。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」彼らは群衆を恐れていました。彼らは神様を恐れるべきでした。彼らは神様のしもべとして正しい姿を持つべきでした。しかし彼らは政治家の姿をしていました。彼らはヨハネが確かに預言者だと思っていたが、ヨハネを受け入れることはありませんでした。彼らがヨハネを受け入れたのならば、イエス様も受け入れたはずでした。彼らが神様を敬わなかったがために、彼らは躓きました。そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません。」と言いました。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と応えられました。

イエス様の権威は神様からのものです。この権威を認めない人は躓きます。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23