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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その19 --> 問題紙


どんなことでも神にはできる

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ10:1-31
要 節:マルコ10:27「イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

今日の御言葉は、離婚について、子どもについて、神の国や永遠の命について、最後は神の国を望んでいる弟子たちの心の準備について、イエス様の細かな教えが与えられています。今日の御言葉を通して、私たちは信者の様々な悩みに解決の糸口を探し出すことができます。イエス様から教えられる正しい信者の生き方について学びますよう祈ります。

I. 離婚について(1-12)

1節の御言葉をご覧ください。イエスは、カペナウムを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれました。すると、そこでもイエスの所に群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられました。イエスは群衆の集まりを喜び、彼らにいろいろと教えられました。それは神の国についてでした。マルコは、2節から具体的な教えについて記録しています。

2節をご覧ください。パリサイ人たちがイエスのみもとにやって来て質問しました。質問の内容は「夫が妻を離別することは許されるかどうか」とのことでした。私たちはこの質問の中に「夫が妻を離別すること」明記していることです。「妻が夫を離別すること」ではないのです。これは当時の時代背景を物語るものです。当時は夫が妻を勝手に離別し、別の女を妻としていたのです。また、2節の最後には「イエスをためそうとしたのである」と記録しています。パリサイ人たちはイエスがモーセの律法に反するかどうかを、常に試していました。今回も、イエスはモーセの律法にどのような見解を示しているのかが注目されていました。イエスの教えからしては、夫が妻を離別することを許すわけにはいかない、しかし、しっかりとモーセの律法にはそれを許していたからです。どちを取ってもイエスは彼らのわなにはまる可能性のある質問でした。

3節をご覧ください。イエスは答えて言われました。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」彼らは自信持っていいました。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」これにイエスは言われました。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。」イエスの結論は、離婚がモーセによって赦されたのは、あなたがたのかたくなな心のために、女たちに被害があまりにも多く、あなたがたの勝手な行為を防ぐために命じられたものであることを、教えました。つまりモーセの離婚の許可は、離婚を許したわけではなく、自分勝手な夫たちの妻を捨てる行為を、離婚状をもって防ぐ狙いがあったのだと、説明されました。

当時の女は、人数を数える数の中にも含まれず、夫たちの自分勝手な行為により苦しみ、悲しむ生涯を送っていました。夫たちは好き勝手に妻をめとり、好き勝手に妻を捨てていました。モーセは彼らのこのようなかたくなな姿のため、離婚状をきちんと書くことができなければ、妻を離別することを許しませんでした。パリサイ人たちは離婚状を書いて、妻を離別することを許した、と解析しましたが、イエスは離婚状がない離婚を認めない、とその律法を解析されました。彼らは律法を好き勝手に解析しましたが、モーセの律法はその根底を探らなければ好き勝手に解釈することは危険な行為なのです。

イエス様は言われます。「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」結婚とは一心同体であると、イエスは言われます。一心同体とは心も、体も、一つの生命体である、という意味です。もはや二人という意味を、夫婦では使えない、ということです。夫婦は一つの生命体で、結婚とは二人の人を一心同体とされた神様の創造物なのです。神様は人を、男と女に作り上げ、結婚をもってもう一つの生命体をお造りになられたのです。一心同体になるのです。それは夫婦がもはや一人一人の二人ではなく、一人の生命体と同じように、一つの生命体として作り上げられた神様の作品なのです。夫婦は揃って一つの神様の作品です。その中に女の分が、男の分が、女の言い分が、男の言い分があるわけではないのです。結婚はそれだけの重みがある、神様の創造の傑作なのです。ですから、人は神が結び合わせたものを、引き離してはいけないのです。引き離すことは命を絶つことほどの厳しいさばきと悲しみと苦しみが伴うのです。モーセの離別の律法は、許したのではなく、彼らの心がかたくななので、命令を作り、離婚を防止したのです。これだけ、結婚は聖なることであり、神様の作品であり、神様の創造の傑作なのです。美しく、不思議に包まれた結婚を、夢見ることができますように、また、結婚された方々は、美しい神の創造の作品を存分に深入り、神様の創造の美しさを表すことができますように祈ります。

10節をご覧ください。家に戻った弟子たちが、この夫が妻を離別する問題についてイエスに尋ねました。そこで、イエスは彼らに更に進んだモーセの律法の見解を説明されました。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」イエス様は夫も、妻も、離別を前提に結婚してはいけない、離別を念頭に結婚の神様の創造の作品を受け取ってはいけない、とはっきりと説明されました。結婚は神様の作品であって、離婚を前提とするものではなく、新しい創造物をもって神様の栄光を表すべき、二人揃って努力していく生命体なのです。イエスが離婚を姦淫と関連付けられたのは、『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』とした神様の戒めに禁じたものとして、離婚を解釈してることが分かります。離婚は姦淫の罪に値するほど、神様によって厳しく禁じられたものです。特に、信者はこの言葉を口にすることも、恐るべきです。

II. 神の国について(13-31)

13節をご覧ください。さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来ました。ところが、弟子たちは彼らをしかりました。イエスの仕事を助けてやろうと、したのが原因だったことでしょう。多くの大人が相談に来て、様々な教えが大人に必要なイエスにとって、物事の分別力がない子どもたちは煩わしい存在だと、成果が形に表せないと、弟子たちは見ていたことでしょう。弟子たちは少なくとも、子どもたちよりも大人を優先していたことは間違いありません。

しかし、14節を見ると、イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた、とマルコは記録しています。「憤って」と、マルコは当時の状況を詳述しています。「憤って」とは、「あるひどい状態に対して、こんなであっては いけないと怒りを感じること」を意味します。イエスは弟子たちの行為が、つまり、人々が子どもたちを、イエスの所に連れてきたことを、辞めさせが行為が、憤りを感じさせる原因になったのです。なぜでしょうか。イエスは次のようにその理由を説明しています。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

当時は女と子どもを、人を数える数に含ませませんでした。その存在を否定していました。しかし、イエスは子どもの立派な姿に、神の国を受け入れる資格を関連付けられました。それでは「子どものように、神の国を受け入れるもの」とは、何を意味しますか。子どもたちのように素直に、疑わずに、単純に、神の国を受け入れるものが、神の国に入り、神の国を体験し、神の国を所有するものとなるのだと、説明しています。神の国は大人のものではなく、実に、子どもたちのようなもののために用意された神様のプレゼントです。「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました。」イエスの祝福を受ける資格は、子どものような心にあるのです。

17節をご覧ください。イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねました。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」この質問に、イエスは彼に言われました。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」イエスは彼が使った「尊い」という言葉使いが気になりました。彼は律法を守り、神の世界を体験したものですが、神についての関心よりも尊い先生、つまり人間についてしか、関心がありませんでした。英語を見ると、尊い先生を、「Good Teacher」としています。彼は人間よりも、もっと神に関心を持つべきだったのです。それで、イエスは彼に言われます。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」英語を見ると、イエス様の彼への言葉の意図がはっきりします。"Why do you call me good?" "No one is good--except God alone."彼の関心事が人間ではなく、神にあるべきだと、指摘されたのです。私たちも、イエスについて、ある人は良い先生、良いお医者、良い弁論家、良い牧者とみるより、良い先生は神で、良いお医者さんも神で、良い弁論家も神で、良い牧者も神であると考えるべきです。そうでなければ、神と私には区別がなく、常に、私中心の考えから離れられないんどえす。彼の質問からも、その姿が十分にうかがえます。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」神に関心がないので、神の律法を守ることも、自分のためであり、永遠の命も自分のものであり、それを手にするのも、自分の努力によるものと、思っていたのです。彼の信仰人としての姿は、内向きになっています。自己中心になっています。外向き、神様中心に関心事を変えるべきだったのです。戒めについて、また戒めを与えら得た神様に関心を持つべきだったのです。そこで、イエスは言われます。「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」すると、その人はイエスに言いました。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われました。「いつくしん」で、とは「愛して」という意味です。イエスは彼を愛しました。戒めを守った彼を愛しました。しかし、イエスは彼に言われました。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

イエスからして、愛する彼に求めたものは、自分に向いていて、努力を重ねていて、常に努力するお姿を称賛しつつ、愛しつつ、彼がこれからは、神様に関心を持つものになることを、強く求められました。彼の関心事は誠実と、積み重ねられた戒めを守るための努力、それに、富でした。彼には神についての関心事がありませんでした。イエスからして、彼にとって一番大事なのは、神でした。「Jesus first, First is God!」これがイエスの求めた彼のこれからの人生でした。人生に大事なことはたくさんあります。Good Teacherに巡り合うことも、律法や規律を身を削りながら守ることも、お金をためることも、裕福な生活をすることも大事ですが、イエスにとって最も大事なこと、その人に推薦したい大事なことは、「神おひとり」でした。それで彼が積み重ねて集めてきた関心事の財産から、その関心事と目を神に向くよう、求めました。Jesus firstになる、弟子になれると求めました。

22節をご覧ください。すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからでした。彼は多くの財産を、神より、弟子になることより、優先することができませんでした。イエスは、見回して、弟子たちに言われました。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」お金や名誉や地位や権力等の、世のものに関心を持つ以上に、神に関心を持つことはどれだけ難しいことでしょうか。

24節をご覧ください。弟子たちは、イエスのことばに驚いていました。自分たちも、あの人の気持ちを幾分、理解していたからでした。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われました。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」金はこの世においては神様です。金があってできないこおてゃほとんどありません。近年は、金を持って命を作ろうとしています。これだけ金には力があります。これだけ力と影響力のある金に関心を持つ人が、見えない、説明しずらい、もやもやした神に関心を持つことは、大変難しいことです。まさしく、金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしいのです。弟子たちは、ますます驚いて互いに言いました。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」これは、金に関心のない人間がいるか、という反発の声です。この世の誘惑に勝てる人間がいるか、という声でもあります。

イエス様はこのような弟子たちに何と答えられますか。27節をご一緒に読んでみましょう。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」この世において信者を得るのは、神の業です。金持ちが神の国に入ることも、できます。これも神の業です。人間が優先する信仰は、躓きますが、神が優先する信仰は、躓くことがありません。金持ちも、神によれば神の国に入ることができるのです。私たちは金持ちになることや、立派な人間に関心を持つこと、律法を立派に守り、身を削って努力することに関心を持つことも大事ですが、それより最も大事にすべきことは、神に関心を持つことです。神に関心を持つ人に、キリストに関心を持つ人に、福音に関心を持つ人に、約束があります。29-31節は結論的に説明されます。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」

私たちはGood Teacherより、神に関心を持つべきです。私たちは律法を守る努力より、律法を定め、律法を与えてくださいました、神に関心を寄せるべきです。私たちは金に関心を持つ以上に、これは体に染みついているので自然にできますが、神に関心を寄せるべきです。これは至難の業です。しかし、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」これが、正しい信者の姿です。信仰は自分が積み上げた努力の結晶体ではありません。神が作り上げる極上の姿です。私たちを、極上の姿にまで導いてくださいますよう、祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23