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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その18 --> 問題紙


イエス様を受け入れること

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ9:20-50
要 節:マルコ9:37「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

今日の御言葉は、イエス様が弟子たちに求めている正しい弟子象です。イエス様は弟子たちがイエス様の十字架の道を、受け入れる人になることを願っておられます。また、イエス様は弟子たちが仕える人、皆のしんがりとしての訓練をしっかりと受け入れることを願っておられます。何よりも、イエス様は弟子たちが広い心を持つ、弟子としての塩気を保つことを願っておられます。今日の御言葉を通して、正しい弟子象について学びますよう祈ります。

I. わたしの名のゆえに(30-37)

30節をご覧ください。さて、一行は変貌山の下町を去って、ガリラヤを通って進んで行きました。マルコは、ここで、イエス様が「人に知られたくないと思われた」と記録しています。イエス様はご自分が人々に知られたくないと思われました。31節で、その理由についてマルコは「それは、イエスは弟子たちを教えて、『人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。』と話しておられたからである。」と補足しています。

ここで、私たちはイエス様が弟子たちに、とても大事で貴重なお話をされたことを学びます。イエス様は人々に邪魔されないように、弟子たちに教えるべき、貴重なお話をされました。大事なお話とは何でしょうか。それは、『人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。』という言葉でした。

このお話、人々には理解できるものではありませんでした。弟子たちでさえこの言葉は厳しく追及されました。ペテロはイエス様をわきにお連れして、いさめるほどでした。しかし、このお話はイエス様の本来の姿を知るうえで、貴重な預言でした。イエス様は悲惨に、悲しそうにも、人々に殺されたのではなく、聖書の御言葉通りに、人々によって殺されましたが、三日目によみがえられ、神の右に着座されたのでした。キリストとして、王の王として、主の主として、神に選ばれた者として、苦しみと悲しみに処されたのでした。この事実を信じる人々、受け入れる人々は神の国を所有し、神の民となる特権が与えられるようになりました。この聖書の預言と、イエス・キリストを受け入れる人々は、救いを得させる力を体験する選ばれた者となりました。イエス様は弟子たちが、そのような神様の願いに荘、人物たちであることを教えておられました。イエス様は人々に邪魔されないようにして、弟子たちにお話をしておられました。しかし、32節を見ると、「弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」とあります。

イエス様に尋ねることも、恐れていたのは、同じ言葉が繰り返されることが予想されていたからでした。イエス様から出てくる言葉は同じものでした。『人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。』この言葉は覆すものではありませんでした。弟子たちは拒否し、ペテロはいさめ、絶対にそのようなことが起こらないように、命かけてでもイエス様を守ろうとしましたが、それは人のことを思っている弟子たちの考えでした。神のことを思っているのであれば、この事実、イエス様の十字架、悲しみ、さびしさ、殺されること、更には、そのようなイエス様に与えられる「よみがえり」を信じるべきでした。しかし、弟子たちは人のことをもっぱら考えていたがために、尋ねることも恐れていました。

私たちは私たちの人生の道筋を、私なりに設計してはいけません。人のことをもっぱら考えることになるからです。私たちは私たちの人生の道筋を、神様の計画に任せるべきです。私たちは現在、私たちに聞こえている主の声に耳を傾けるべきです。聖書に記録された私たちの計画や道のりに目を光らせるべきです。私たちは自分の計画を捨て、自分が負うべき現在の十字架を負うべきです。そして、イエス様についていく生活をやめないように努力すべきです。その時、私たちは復活を体験されたイエス様のように、驚くべき主のイエス・キリストの復活を自分の目のあたりにする時が来ます。その時に、私たちは主を賛美することができます。自分を捨て、自分の十字架は何かを考える、今の私たちになりますように祈ります。また、主が用意する復活を夢見るものとなりますように祈ります。

神様が長崎大学に12弟子を立てるように祈ります。今年、ひとりの弟子を得ることができますように祈ります。長崎センターに聖書勉強グループが活動し、マンツーマンの聖書勉強が活性化されますように祈ります。この時間、主の声に耳を傾けるものとなり、十字架を愛する、復活を信じる人として成長しますように祈ります。

33節をご覧ください。イエス様の一行はカペナウムに着きました。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問されました。「道で何を論じ合っていたのですか。」イエス様の質問に、彼らは黙っていました。それは、道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからでした。イエス様はその議論を耳にして彼らに一つ大事なことを、教えようとされました。質問に答えない弟子たちを呼んで言われました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

弟子たちは道々、誰が一番偉いのか、ペテロなのか、ヨハネなのか、マタイなのか、イスガリオテ・ユダなのか、議論していました。イエス様は誰を一番偉い人と思っていたのか、それが弟子たちの関心事でした。それは、彼らの夢でもあり、希望でもありました。偉くなること、これは人間であれば、だれもが持つ、一つの夢でもあります。ペテロはリーダーシップのある自分が偉いと思っていました。ヨハネは言葉は少なくても、霊的な判断力にはペテロに負けないと思っていました。イエス様は霊的なところを偉く採点すると思っていたかもしれません。マタイは世の中でも実力を発揮したように、弟子としても実力は抜群でした。偉いのはエリートの自分だと思っていたのかもしれません。イスガリオテ・ユダも負けてはないでしょう。ともかく、12名の弟子は皆、自分が偉いと思っていましたし、そのため議論が起こっていました。しかし、イエス様の「偉い」基準は彼らのものとは違いました。イエス様は言われました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」みなのしんがりとなり、みんなに仕える者になること、これが偉くなるイエス様の基準なのです。

私たちは偉くなりたいのであれば、しっかり、しんがり訓練を受けるべきです。偉くなりたいのであれば、しっかり仕える者の訓練を受けるべきです。神様はあらゆるところで、私たちをしんがり訓練、仕える訓練をしておられます。今、私たちがいるところで、わしたちはしんがり訓練計画、仕える者の訓練計画が組み込まれています。私たちはこれらの神様の訓練計画を見極めて、感謝の気持ちをこめて訓練を受けるべきです。そして、初めて、私たちは偉くなる条件が揃えられるのです。神様はあなたにどんなしんがり訓練、仕えるしもべ訓練を、組み込んでおられるのでしょうか。その訓練をしっかり受ける人、彼は偉いのです。そして、初めて偉くなる条件がそろいます。私たちをしっかりとした訓練スケジュールをお持ちの神様を、感謝いたします。

36-37節をご覧ください。イエス様はしんがりとなり、仕える者のことについて、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われました。『だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。』

ここで、大切な言葉は「私の名の故に受け入れること」です。

私の名の故に、とは、「イエス様の御名を理由に」という意味です。わがままな子供の要求、勝手さ、自己中心的な発想や今、口にすることだけを考える単純さ、腹だたしく思われる心の揺れ方を、もし、私たちが「イエス様の御名の理由に」受け入れるのであれば、それがしんがりの基本であり、仕える者の姿である、としています。つまり、子どもの要求のように、とんでもないことを、到底、受け入れないことを、イエス様の御名を理由に、その人のしんがりになり、仕える者の立場に立つ時、私たちは神様の訓練計画に沿って生きる、訓練所に入所した兵士になれるのです。そのような兵士は神のものなのです。神様を信じる人の姿なのです。神様はそのような人を、偉い人、と称されます。神様はそのような人を祝福されます。私たちが、生きている間、とんでもないことに遭遇された時、「イエス様の御名」を理由に上げて、とんでもないことを受け入れますように祈ります。私たちが人生を生きている時、悲しみもだえるとき、「イエス様の御名」を理由に上げて、悲しみを受け入れますように祈ります。私たちの人生が思い通りに行かないとき、「イエス様の御名」を理由に上げて、今の人生を感謝しますように祈ります。その時、わしたちは信者の香りを発するものとなります。そのような人を、神様は祝福の根源とされます。

メッセージを書きながら、私自身、聖書のアブラハムを尊敬し、親しみながらも、「イエス様の御名」を理由に上げて、とんでもないことを受け入れることがなかったこと、長崎や日本のアブラハムとして生きる夢はあるものの、キリストの香り、信者の香りがないことに気づかされました。悔い改めます。私が、どんなことにも、「イエス様の御名」を理由に上げて、目のあたりのことを受け入れる「信仰のアブラハム」になりますように祈ります。

II. 正しい弟子像(38-50)

38節をご覧ください。ヨハネがイエスに言いました。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」悪霊を追い出すのは、弟子たちや弟子たちの仲間の特権だと思っていたようでした。しかし、イエスは言われました。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」イエス様の味方の考え方は広いものでした。しかし、どのような人々が神の祝福を受けることになりますか。

41節をご覧ください。「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。」キリストの弟子を弟子として認めること、これが神様の祝福を受けるものです。人々は普段、友人や知り合いには水一杯を上げても、キリストの弟子だからと言って水を与えようと思えません。それは知人や知り合いがキリストの弟子より重く受け止めているからです。しかし、キリストの弟子をもっと重く受け止める人は、神様の祝福が待っています。その祝福は人間の知人や友人からの祝福よりも、はるかに立派で優れたものです。それで、イエス様は「これは確かなことです。」と、言葉の釘をさしています。私たちがキリストの弟子たちを重く受け止めるとき、私たちへの神様の報いはやみません。しかし、イエス様を信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。それは神様の怒りが与えられる時、人間の怒りをはるかに超える、想像を絶するものになるからです。

43-49節をご覧ください。「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」

この言葉から、私たちは信者の香りを守ることがどれだけ厳しいことなのか、が分かります。それは手足を切り捨てるほどの厳しさであり、目をえぐりだすほどの努力が必要なのです。50節をご覧ください。「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」信者としてのききめ、塩気を発すること、これは手足を切り取り、目をえぐりだすほどの努力が必要です。イエス様の名の故に、とんでもないことを、受け入れることであり、感謝することです。その時に、私たちは塩気が保てるのです。その時に、和合して暮らせるのです。私たちが正しいキリストの弟子像を持ち、手足を切り捨てるほど、目をえぐりだすほど、とんでもないことにも、イエス様の御名の故に、素直になりますように、従順の子になりますように、塩気を発するものとなりますように、ついには、祝福の根源となりますように、祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23