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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その17 --> 問題紙


主の栄光と信仰

Messenger:MSN.Caleb

御言葉:マルコ9:1-29
要 節:マルコ9:23「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』」

先週、私たちはイエス様がキリスト、メシヤであることを学びました。イエス様は私たちを罪から救うために多くの苦しみを受け、殺されることだけではなく、よみがえられなければならないことも教えられました。しかし弟子たちは、自分を捨てること、自分の十字架を負うことに抵抗感を持っていました。永遠の命や神の国のことより、現実の幸せと 栄光を求める心がありました。イエス様はそのような彼らに栄光の世界、信仰の世界を見せてくださいました。この時間、御言葉を通して輝かしいイエス様の御姿を見、信仰と祈りを学ぶことができるように祈ります。

I. 御姿が変わられたイエス様(1-13)

1節をご覧ください。イエス様は弟子達に言われました。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」この御言葉はイエス様がキリストとして受ける苦難と死、復活に対して教えられたところ、それを負担に思っていた弟子達に与えてくださったものです。イエス様は彼らにイエス様の本来のお姿、霊的な世界を見せようとされました。

2節をご覧ください。イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれました。なぜ、この3人だけを連れて行かれたでしょうか。その理由はよく分かりません。考えられることは彼らが格別主に信頼されていたことです。実際に、ペテロは初代教会の代表的な人物として働きました。ヤコブはエルサレム教会のリーダーとして、また最初の殉教者として自分の使命を全うしました。ヨハネは12弟子の中で一番長生きしながらヨハネの福音書、ヨハネの手紙、ヨハネの黙示録を書き残しました。

イエス様が3人の弟子たちを連れて高い山に登って祈っておられると、弟子たちの目の前で御姿が変わりました。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さでありました(3)。イエス様が本来持っておられる栄光の姿に変わると、その輝きは人間の力ではとてもできないほどの白さでした。実際に、イエス様は天地万物を創造された神様として力と栄光に満ちた方です。やがてイエス様が再び来られる時には、私たちも目の前で輝かしいイエス様の御姿を見ることができます。また、その姿はイエス様を信じて従うクリスチャンたちが、将来イエス様が来られるその時に変えられる栄光の姿です(Ⅰコリント15:49)。

 弟子達はイエス様の姿が変わられるのを見て驚いていました。その時、さらに彼らを驚かせることが起こりました。4節をご覧ください。エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエス様と語り合っていました。旧約の多くの預言者達の中でモーセとエリヤが現われたのにはどういう意味があったでしょうか。

第一に、主のために苦難を受けた人には天の御国で輝かしい栄光の姿が与えられるということです。 一般的に苦しみは避けたいもの、死はすべての終わりであり、敗北であり、失敗として思われています。しかし、モーセやエリヤの生涯を通してみると、神様のために受ける苦難は決して無意味なものでありません。また、死がすべての終わりではありません。モーセはイスラエルの民を出エジプトさせて、荒野で導くために多くの苦しみを受けました。エリヤも、当時の偶像崇拝者たちと戦いながら民の信仰を守らせるために多くの苦しみを受けました。しかし、今は神の御国で栄光の座に着いているのです。彼らは死で終わったのではなく、今なお生きていたのです。ですから、彼らは主と福音のために苦難を受ける人がどんな栄光を受けるかを見せてくれた証人です。確かに、キリストの弟子として自分を捨て、自分の十字架を負って行く道は苦難の道です。しかし、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの」です。イエス様はこの出来事を通して弟子達が苦難を受ける姿勢を変えて積極的に十字架を負ってイエス様に従うように助けてくださいました。

第二、信仰によって生きる人に与えられる神様の報いです。モーセも、エリヤも信仰の人でした。

信仰によってモーセは成人した時、パロの娘の子として呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。(ヘブル11:24,25)。エリヤも信仰の勇士でした。そのように信仰によって生きた人々が神の国では栄光に輝く姿に変わっているのです。

ところが、この驚くべき光景を見たペテロはどんな提案をしましたか。5節をご覧ください。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは霊的な意味を悟ろうとしないで、自分の気持ちで反応しました。6節は「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。」と言っています。彼は恐怖に打たれたので自分も知らないうちに本音を言ってしまいました。今までペテロはイエス様に従いながら多くの苦労があったでしょう。時には群衆のために食事する暇もありませんでした。ある時にはとてもお腹がすいていたので麦の穂をつんで食べたこともありました。ですから、彼の心の中ではこれ以上は苦労したくないという思いがあったかも知れません。ペテロはまだ若いですから神の国へ行くのは遠慮したい気持ちがあったし、うるさい群衆と多くの十字架が待っている山の下におりることはいやでした。そこでペテロは山の上に家を建て、そこでイエス様やエリヤ、モーセとともにすばらしい生活をしたいと思いました。しかし、神様はこのようなペテロと弟子たちに何と言われましたか。

7節をご覧ください。 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました。イエス様は弟子たちに十字架の道を言われました。ところが、彼らは苦難、十字架、使命に関する御言葉を聞こうとしませんでした。しかし、神様は弟子たちにイエス様の言うことを聞きなさいと言われたのです。野球のイチロ選手は世界的なスターになりました。イチロという存在は野球少年であればだれでもあこがれの存在です。彼が今のイチロになったのは偶然に起こったことでしょうか。遊びたいときいつも遊んで、やりたいこと全部やって、そのようになったのでしょうか。今でも彼は他の選手たちよりたくさん練習していると言われています。私達は栄光の背景にはいつも苦難が伴うことを覚えなければなりません。怠けもの、体の快楽を求める者は滅びに至りますが、十字架は人をいのちの道に至らせます。ですから、神様は弟子たちがイエス様の言うことをよく聞いて毎日自分の十字架を負ってイエス様に従うに助けられました。10年、20年信仰生活をしたとしてもイエス様の言うことを聞かなければ、霊的な力を失い、信仰の成長もありません。イエス様の言うことを聞く事、つまり十字架の道を歩むことこそ、栄光ある人生、偉大な人生に導く近道です。

8節をご覧ください。弟子達が急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエス様だけで、そこにはもはやだれも見えませんでした。イエス様は、メシヤは栄光を受ける前に必ず多くの苦しみを受け、さげすまれる十字架のことを言われました。イエス様はその十字架を負うために山から降りていかれます。では山の下ではどんなことが起こっていましたか。

Ⅱ。信じる者にはどんなこともできるのです(14-29)

14節をご覧ください。イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山から降りて来られると他の弟子達は回りに大勢の人の群れがいる中で律法学者達と論じ合っていました。群衆の一人がイエス様に事情を話しました。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子達に、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子達にはできませんでした。」(17,18)。子どもの父親は事情とともに無力な弟子達について告げました。子どもの父親から事情を聞かれたイエス様は何と言われましたか。

19節をご覧ください。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」イエス様は「ああ、不信仰な世だ。」と嘆かれました。イエス様は不信仰な世を悲しまれました。弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは、不信仰が原因だったのです。弟子だけではありません。父親も、弟子も、世の人々も「あなたがた」ということばに含まれています。イエス様は私たちの不信仰に嘆かれます。

20節をご覧ください。そこで、人々はイエス様のところにその子を連れて来ました。人々がその子を連れて来たことを考えてみると、彼らはイエス様の嘆きのことばを聞いて自分たちの不信仰に気づかれたようです。サタンはどうしても私たちが信仰を持たないようにしかけます。サタンは人々がイエス様のところに子どもをつれて来ると、信仰のみわざが起こることを恐れたでしょう。悪霊はすぐに子どもをひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、転げ回りました。悪霊は子供の状態をもっと悪化させることによって人々が信仰を持たないようにしました。しかし、イエス様はその父親にどんな質問をされましたか。21節をご覧ください。この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。イエス様は話をかけて父親を助けておられます。父親は言いました。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私達をあわれんで、お助け下さい。」

この父親は、はじめイエス様に「もし、おできになるものなら」と言っております。けれども、問題の焦点は「イエスさまにはできるかどうか」ではありません。「彼自信がイエスさまにはできるということを信じるかどうか」ということです。イエス様は天におられる父なる神様のひとり子であられ、全知全能の神様です。ですからイエス様に出来ないことは何一つありません。イエス様にとってはどんなことでも出来るのです。 私達はこれを信じるべきです。

23節をご一緒に読んで見ましょう。「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』」イエス様は彼を同情するところか彼の不信仰を叱られました。そして、「信じる者にはどんなことでもできる」と言われました。この御言葉から見ると信仰の人には不可能がないことがわかります。

民数記14章には、イスラエルの民たちが約束の地カナンについた時、12の族長が遣わされ、彼らはそれぞれモーセに報告しました。彼らはみな恐れおののき、否定的な報告をしました。食い尽くされそうで民たちはその夜、泣き明かしたと言っています。しかし、そのうちヨシュアとカレブは、同じものを見てきたものの正反対の報告をしました。『私達が巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私達が主の御心にかなえば、私達はあの地に導き入れ、それを私達にくださるだろう。あの地には乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私達のえじきとなるからだ。』このように信仰があるか否かによって、同じ状況、同じ環境でも全然違う結果をもたらすのです。

モーセは大人の男だけで60万3550人、つまり何百万人の人を連れて出エジプトしました。十戒という映画を見ると、よく分かりますが、彼らがエジプトを脱出して荒野に入った時、そこには何も食べ物がありませんでした。農業もできなかったし、パン屋もお菓子屋もありませんでした。それで、人々はつぶやきました。不信仰の人たちは「カナンに行くことはできない、もうあきらめましょう、エジプトに戻りましょう」とつぶやきました。しかし、モーセには信仰がありました。信仰によって神様に祈ると、神様は彼らに朝ごとにマナを与えてくださいました。お肉が食べたいというと、ウズラを送ってくださいました。鶏肉はおいしいものですが、飽きるほど食べることができました。水がないときには岩から水を出させてくださいました。このように私たちに信仰があれば、神様の奇跡を体験することができます。私たちに信仰さえあればどこに行っても勝利の人生、力ある人生を過ごすことができます。信仰によって福音のみわざにも勝利を体験することができます。

24節をご覧ください。イエス様に叱られたその子の父親はすぐに、叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」彼は自分の弱さと不信仰と疑いを真実に主に告白しました。そして信仰を持つように助けを求めました。それが祈りです。どうか、神様が不信仰な私を助けてくださるように祈ります。

25節をご覧ください。イエス様は彼の祈りを聞かれその子をいやしてくださいました。イエス様は、汚れた霊をしかって言われました。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行きました。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言いました。しかし、イエス様は、彼の手を取って起こされました。するとその子は立ち上がりました。イエス様は悪霊を追い出せる権威を持っておられる方です。

イエス様が家にはいられると、弟子達がそっとイエス様に尋ねました。「どうしてでしょう。私達には追い出せなかったのですが。」弟子達はイエス様が悪霊を追い出した秘訣が何であるのかを知りたいと思いました。すると、イエス様は言われました。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」イエス様が信仰の力について言われた後、祈りについて言われました。祈りは信仰の表しです。信仰があると言いながら祈らない人、その人は自分を信じる人です。

イエス様は祈りによらなければ、悪霊を追い出すことができないと言われました。信仰は祈りです。祈りと信仰のセットで、神様は働かれます。祈る人に信仰があります。信仰の人は祈ります。

私は今日の御言葉を通して、自分の信仰のなさ、十字架なしの栄光を求める心、祈りのない信仰生活を送っていることに気づきました。生活問題、将来に対する不安は霊的な力を奪っていました。時間をかけて準備した就活の失敗が繰り替えることによって、信仰が薄くなっていました。研究においても語学においても、主の御業においてもよくなりたい、成長したいという気持ちはあるものの実際の十字架を負いませんでした。何よりも自称信仰人と言いながら祈りのない生活をしていました。私は、今日の御言葉を通して、信仰生活の基本から見直すべきであることを学びました。8月から私は単身赴任という形で生活環境が変わります。人間的にはつらいことですが、神様が用意してくださったベストの環境だと信じます。私が毎週長崎に戻りたい気持ちを捨てて、8ヶ月の間に霊的な基本生活に充実し、研究においても認められる実績を上げることができますように祈ります。来年度からの仕事も自分の力ではできませんが、主を信じてチャレンジし、主の祝福を手にすることができますように祈ります。何よりも私が祈りの僕として成長することができますように祈ります。

結論、主が不信仰な私たちを助けてくださるように祈ります。何よりも信じる者にどんなことでもできるという信仰を持つように祈ります。夏のバイブルキャンプに対する不信仰も悔い改めて参加だけではなく豊かな恵みをいただける信仰を持つように祈ります。神の国の栄光を望み、自分に与えられている使命・十字架を充実に負うことができるように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23