Counter: 1327, today: 1, yesterday: 0

2009年長崎UBF、マルコの福音書、その16 --> 問題紙


あなたはキリストです

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ8:27-38
要 節:マルコ8:29「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」

今日の御言葉は、イエス様についての人々の評価、また、弟子たちの評価が記録されています。今日の御言葉を通して、イエス様は弟子たちに向って、弟子たちの道について、そのメリットとデメリットについて説明されます。イエス様は弟子たちが自主的に、弟子としてのプライドと、弟子としての覚悟をしっかりと心の中に保つことを願っておられます。今日の御言葉を通して、イエス様の弟子たちへの期待と願いを学び、私たちの気持ちを改めることができますように祈ります。

I. あなたはキリストです(27-29)

27節の御言葉をご覧ください。イエスの一行が盲人の目をいやしてから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤという村々へ出かけられました。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」

当時の人々のイエス様への評価は様々でした。28節を見ると、弟子たちはイエス様の質問にこう答えました。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」マルコの福音書6章を見ると、当時の王・ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」と言っていました。ルカの福音書9章を見ると、弟子たちはイエス様の質問に、「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」と答えています。当時の人々はイエスについて、偉大な主のしもべが生き返った人物であると思っていましたし、また、そのような活動を期待していました。バプテスマのヨハネのように、王に向って直言し、その過ちを叱る大胆な活動を求めていました。それにふさわしく、それができる人物として考えていました。エリヤのようにどんなに敵が強くても、必ず勝利をおさめる神のしもべとして確信していました。また、一方ではそのような強い預言者として、彼らの間で力を発揮してほしい願いもありました。彼らの気持ちを満たしてくれる主のしもべになれることを求めていました。

29節をご覧ください。人々の反応を聞いたイエスは、弟子たちに尋ねられました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言いました。「あなたは、キリストです。」これは人々の答えと内容を異にしていました。ペテロの告白はイエスが神様の願いに沿って生きる、神様の油注がれた人物、神様の働きを明らかにする人物として、更には、神様そのものであるとの告白でした。「あなたはキリストです」とは私のすべてを尽くし、あなただけを見上げます、との信仰告白です。「あなたはキリストです」とは、あなたは神に油注がれたもの、神様のもの、神様の分身、神様そのものです、との告白でもあります。マタイの福音書16章を見ると、イエス様はこの告白の上に教会をたてる約束をされました。どんなに強い悪魔も、打ち勝てない教会を約束されました。姦淫と罪の時代にあって、サタンの働きを封じ込む力を、信仰告白の上に与える約束をされました。教会に与えると約束されました。その意味で、ペテロの告白は悪魔の力を打ち勝てる根源なのです。ペテロの告白はイエス様についての適格な評価だったのです。イエス様はその御名が、悪霊を打ち勝てる名前だからです。

「あなたはキリストです」

この告白は悪魔の支配から聖霊の支配にその人生を変える告白です。この告白は選ばれた人々の証拠であり、神のものとしての確認です。「あなたはキリストです」この告白は誰もができるものではなく、神を神として認め、その足元にひれ伏して、自分をさらけ出す人だけに許された告白です。「あなたはキリストです」これはイエス様の喜ばす信仰告白です。私たちが毎日、毎朝、主に向って、「あなたはキリストです」と告白できますように祈ります。主の力によって悪魔の勢力から守られるものとなりますように祈ります。

II. 弟子の道(30-38)

30節を見ると、イエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められました。神様のご計画と神様の御業を守るためでした。それから、31節で、イエス様はキリストが行くべき道について説明されます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」、このことを、弟子たちに教え始められました。しかも、はっきりとこの事がらを話されました。それはこの道が、神様が求められたキリストの道であり、神様が予定している神様の御業だからでした。イエス様は神様の願いに沿って、神様の御心にかなう道を歩む決心をされました。その道は険しく、苦しく、悲しみの道でしたが、しかし、イエス様はその道が神様の願う道であることを知って、その道へ進む決心をされました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない。」するとペテロは、イエスをわきにお連れして、イエスをいさめ始めました。いさめ始めたとは、イエス様のお話に強く反発したことを意味します。強く反対表明をしたことを意味します。それはイエス様にそのようなことがあってはいけない、という意味でした。師匠のイエス様にそんなことがあるのは、自分の責任だ、という意味でもありました。自分の力のある限り、そのようなことはないように努力したい、との決意でもありました。キリストであるイエス様に、それはあってはならないことだと思っていたのでしょう。

33節をご覧ください。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われました。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」ペテロの考え方は弟子として当然の考えでした。イエス様をキリストとして告白したものとして取るべき正しい姿でした。しかしなぜ、イエス様はそのようなペテロの行為を、「サタン」の行為であると決めつけられましたでしょうか。イエス様は引き続き、次のように言われています。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロは人間として、師匠の将来を考えていました。ペテロは人間的に、師匠を守ろうとしました。ペテロは常識的な社会通念に基づいて、神のしもべ、イエス様を見上げていました。イエス様はそのペテロに向かって言われました。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これは逆にいえば、人間的に見ればあなたに感謝をしたいのだが、神様の立場からすればサタンの行為だ、という意味です。ここで私たちは、イエス様の求める、ペテロの姿勢について学びます。イエス様はペテロ・首弟子が取るべき正しい姿について、人間中心ではなく、神様中心の考え方を持つべきであることを、教えています。

私たちの体は自分が中心であり、人間が中心です。初めから他人を中心とした人はいないように、同じように、初めから神様を中心とした人はいません。イエス様はペテロが人間を中心の人から、神様を中心の弟子として生まれ変わることを願っていたのです。人間中心の考え方は神様を否定しますが、神様を中心とする考え方は、聖霊の願いにふさわしいからです。この御言葉を準備しながら、私自身、99パーセント近い、人間中心の人ではないのかと思い始めました。99パーセント、自己中心の人間ではないのかなぁと思いました。1パーセントぐらい、聖書を勉強して、信者となって、神様のことを耳にして、少々変わったのかもしれませんが、依然として、自己中心的な人で、人間中心的な人であることを告白せざるを得ません。素直で正直な私の本音です。イエス様はこのような私にも言われます。「下がれサタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

34節をご覧ください。それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われました。これは首弟子・ペテロだけにとどまらず、弟子になりうる群衆にも教えるべき真実であることを意味します。イエス様は神様中心の考え方を、ペテロだけに求めたわけではありませんでした。首弟子のペテロ一人だけが持つべきものであると思われませんでした。イエス様はこれから弟子となりうる群衆を、弟子たちと一緒に呼び寄せて言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

ここで、私たちはイエス様の弟子の道を学びます。

第一に、イエスの弟子になるためには、自分を捨てるべきです。

自分を捨てるとは、自分に甘い考えを捨てる、ことを意味します。一般的に人々は自分には甘く、人には厳しいものです。しかし、弟子は逆に、自分には厳しく、人にはやさしい人にならなければいけません。常に自分のことを考えているくせに、自分のことを考えてくれない人や、団体や、組織を批判することをやめるべきです。それが弟子です。

また、自分を捨てることは自分に利益となることを捨てることを意味します。人々は常に、自分に利益となる方向で物事を進めます。しかし、弟子は自分に利益となることを捨てるべきです。そして、人に利益となるものを求めるべきです。それが弟子が持つべき正しい姿です。

第二に、イエスの弟子になるためには、自分の十字架を負うべきです。

自分の十字架とは、追いたくない運命的な仕事を指します。食べるために働くことや、家族を担うために追うべき仕事、宣教師であるがために行うべき行事や普通の人には課せられてない、特別な行事等を指します。弟子でない人々はこのようなことをしません。弟子でない人々はこのようなことを避けて通ります。しかし、弟子たちは自分が負うべき十字架を、しっかり負う人です。私には家族の十字架がその一つであり、学問の十字架がその一つであり、更には宣教師としての十字架がその一つです。大学のキャンパスにイエス・キリストの弟子を増やそうとする神様の御心を担うこと、これが私の十字架です。私はこれらのことから逃げようとする気持ちがあります。常に、楽しようとする気持ちが働きます。しかし、弟子はそのような十字架をしっかり負う人です。イエス様が十字架の前に、祈りをもって十字架を担われたように、イエス様が十字架を担う力を下さるように、神様に求めながら、しっかりと十字架の任務を全うされたように、イエス・キリストの弟子は、自分の十字架を負う人です。

イエス様は言われます。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」自分のために働く人は命を失います。しかし、イエス・キリストと福音のために自分を捨てる人は、命を得ます。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得もありません。失われた自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。命が失われたのちは、何一つ差し出すのにふさわしいものを、人間は持っていません。命よりも尊いものはないからです。このような姦淫と罪の時代にあって、神様の言葉は恥ずかしいものと扱われやすいです。私たちは姦淫と罪の時代に生きるとき、イエス様やイエス様のことばを恥じるような者になりがちです。しかし、イエス様も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。

姦淫と罪の時代にあっても、神様と神様の御子・イエス・キリストを、また、その御言葉を誇りに思う弟子になりますように祈ります。また、それにより命を手にする幸せなものとなりますように祈ります。

ハレルヤ

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23