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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その14 --> 問題紙


エパタ

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ7:24-37
要 節:マルコ7:34「そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に『エパタ。』すなわち、『開け。』と言われた。」

今日の御言葉は、ツロ・フェニキヤ生まれの女が捧げた、イエス様への切なる願いと祈りについて記録しています。また、イエス様が耳の聞こえない、口のきかない人のために神様に捧げた切なる願いと祈りです。この二つの祈りについて、マルコは見事にかなえられたことを記録しています。私たちはかなえられる祈りをささげたいと願っています。私たちの祈りにがかなえられるためには何が必要なのか、今日の御言葉を通して学びますよう、祈ります。

I. ツロ・フェニキアの女の願い(24-30)

24節の御言葉をご覧ください。イエスが、ツロの地方へ行かれました。ツロは異邦人の町でした。イエス様はツロとシドンの人々のことを、かたくななユダヤ人を責めるときに用いるほど、ユダヤ人たちに無視されていた町でした。イエス様はそのツロに行かれました。そこには神に熱心な人がいませんでした。そこはもはや、燃え盛る異邦人の町でした。イエス様がツロのある家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われました。しかし、マルコはイエスが隠れていることはできなかったと記録し、イエスのうわさは異邦の町にまで広がっていたことを記録しています。イエスの行いと奇跡、イエスの教えは異邦の地方にも広がっていたのでした。25節をご覧ください。汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来ました。この女はイエスの行いと、イエスが起こした奇跡のうわさを聞いていたはずでした。女がイエスの話を聞いてすぐにやってきたことから、女の願いはどれだけ強いものなのかが伺えます。女の娘のための懇切な願いが込められていました。イエス様への期待と、イエス様への願いが強いものでした。イエス様のお話を聞いて、女はすぐにイエス様のおられるところにやってきました。また、イエス様の足もとにひれ伏しました。女はイエス様に服従して、その憐れみを切なる願いで求めていました。26節を見ると、この女はギリシヤ人で、ツロ・フェニキヤの生まれでありました。これはローマの支配を受けている、ツロ・フェニキヤ人であること、ユダヤ人ではなく、異邦人であるという意味です。神様のことを大切にしてきてない、自分勝手な道を歩んできた人であることです。

しかしながら、今、この女はイエスの所にやってきて足もとにひれ伏しました。以前はどのような生き方をしたのか分かりませんが、今はイエス様に服従し、イエス様に期待し、イエス様に切なる願いを持ちました。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けました。イエス様に期待を込めました。イエス様の軌跡を求めました。イエス様の能力を体験したいと願いました。一回、二回、願いをしたことにとどまりませんでした。マルコは彼女の姿について、願い続けたと記録しています。彼女はかなえられるまで、帰ろうともしませんでした。それはイエス様への期待と願いが困られていたからでした。彼女の願いは懇切なもので、粘り強いものでした。

するとイエスは彼女に言われました。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」これはまず、神様のことを大切にしてきたユダヤ人、信者の子供のために私は働くべきだ、という意味でしょう。ユダヤ人や信者たちに上げようとするパンを、子犬に上げるのは良くない、というお話でした。彼女のことを、犬、彼女の娘のことを、子犬、と扱われました。人間のことを犬扱いするなんて、「あなたがどんなに力のある人であるのか分かりませんが、何?、犬だって、そう、私は犬だ、犬の力を味わわせてやろう!」と叫びながら、「わん、わん、わん」と吠えることもできたはずです。気持からすれば、噛みつき、しっかり仕返しをしてあげたい気持ちだったことでしょう。「私を何だっと思っている。犬。犬。犬」と言いながら興奮を隠せないのが普通のツロ・フェニキアの女の姿でした。ツロ・フェニキアの女の反応はきつく、強烈なものでした。

しかし、28節の御言葉をご覧ください。女は答えて言いました。「主よ。そのとおりです。」女はイエス様の判断に反発しませんでした。いや、むしろイエス様のお話に、「そのとおりです」と答えました。イエス様の判断は間違いないと、答えました。そうです。私は神様から恵みを頂く資格のないものです、と答えました。異邦人で、罪深い人間で、神様のことを大切にしていない、子孫として生まれたものです、と答えました。しかし、女はそれでも、続けてきた願いや祈りをやめませんでした。パンは頂く資格がないのなら、食卓の下に投げるパンくずでも下さい、と願い続けました。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

29節の御言葉をご覧ください。そこでイエスは言われました。「そうまで言うのですか。」イエス様は感動をしました。イエス様を感動させたのは何でしょうか。

ひとつは、女の心の謙遜です。

女は犬扱いされて、また、その愛する娘が子犬扱いされた時、「主よ。そのとおりです」と答えました。自分は神様を知らないもので、神様に仕えてきてないもので、神様を大切にしてきたものでもなければ、その家系でもない生まれであることを、以前は、勝手な道を歩み、神様から恵みを頂くほどの行動も、業績も、実績もないものであることを認めました。彼女はイエス様のご判断に、何一つ反発する根拠がないと、考えました。主張しようとすれば、主張することはあったはずでした。異邦人で生まれたのは彼女のせいでも、神様のことを知らずに生まれ育ったのも、彼女が責められるものでもありませんでした。しかし、彼女は神様のご判断がもっとも正しいものと考えました。その判断が自分の理性に反するものであっても、「主よ。そのとおりです」と答える人間でした。自分の理性や感情や判断よりも、神様のご判断がもっとも正しいと思う人でした。彼女は本当の意味で、心の謙遜な人でした。

もう一つは、粘り強い祈りでした。

女はイエスの答えから、もう、これ以上祈っても、これ以上願い続けても結果はないものと判断できました。すばやく諦めるのが正しいと思われがちでした。しかし、彼女はあきらめませんでした。彼女は子どもとして受けるパンがないのなら、その資格がないのなら、子犬として受けるパンくずでも下さい、と願い続けました。私はパンがほしいのですが、パンを貰いたいと思って祈り続けてきましたが、パンを受ける資格がないのなら、主の判断が正しいのでしょうから、子犬が受けるパンくずでも頂きたいと願いました。彼女の願いは粘り強いものでした。彼女の願いはイエス様を感動させました。

イエス様は答えました。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」 女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていきました。彼女の願いは叶えられました。謙遜な彼女の心は叶えられました。粘り強い彼女の願いは叶えられました。マルコは、この記録を残し、この時代、神様に願い続けている私たちの祈り、異邦人で子犬のような私たちが、どんな姿で祈るべきであるのか、教えています。心の謙遜な、粘り強い祈りは、必ずこたえられます。これがマルコが残したメッセージです。

II. イエス・キリストの願い(31-37)

31節をご覧ください。それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られました。今回の異邦人のために旅行で、イエス様は感動的な異邦人に出会いました。ガリラヤ湖に戻られたとき、人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願っていました。この人は耳が聞こえないので、口もきけない人となりました。イエス様はその状態がどの人よりも悲しく思われました。耳が聞こえないので、神様の声も聞くことができない、福音を受けることも、御言葉から来る感動を味わうことも、ましてや喜んで神様を信じることも、どの人よりも厳しい状況にありました。イエス様は人々が彼を連れてきたとき、その人だけを群衆の中から連れ出しました。その人、ひとりへの思いを、イエス様は付きこみました。イエス様は、その両耳に指を差し入れました。福音が聞こえない耳に、指を差し入れました。感動的な神様の御言葉が聞こえない耳に、指を差し入れました。その両耳に神様の御声が聞こえることを願って、その両耳が開かれることを願って、開くことを願って、指を差し入れました。何が、彼の耳をふさいでいるのか、指を差し入れながら、かわいそうに嘆息しながら、その耳が開かれることを祈りながら、指を差し入れました。何度も差し入れては声を出し、また差し入れては声を出し、その姿を確認しました。

それからつばきをしては、その人の舌にさわられました。その舌が柔らかくなることを願って、触られました。触りながら神様への願いと、触りながら神様への祈りが心の奥底から噴出されました。34節をご覧ください。イエス様はその祈りをするために天を見上げ、深く嘆息しました。聞こえない、聴けない彼のことを思うたびに、心の深い嘆息がやみませんでした。そして、心の奥底から噴出した祈りを、天を見上げて神様に捧げました。願いを込めて、祈りをしました。天を見上げたとは、神様との対話を、神様との交信をされたことです。イエス様は神様への祈りと、神様からの答えを聞いておられました。イエス様は天を見上げてから、その人に叫びました。「エパタ。」「開け。」このイエス様の叫びから、私たちは何を学びますか。

ひとつは、イエス様の行為です。

イエス様は耳が聞こえない、口がきけない人を見るや、悲しみと深い憐れみに包まれました。それだけではありませんでした。イエス様は彼をお連れして、その両耳に指を差し入れました。聞こえない耳に手を加えました。イエス様は悲しみと憐れむ心をもって、終わりませんでした。イエス様は聞こえない耳に指を差し入れられました。イエス様はその耳がどうにかして聞こえるようにしたい強い願いがありました。イエス様は指を差し入れられました。また、口がきかない、その舌を触りました。触るだけでなく、そのツバキをもって、触りました。持っているもの、できることを、可能な限りのことを行いました。神様はそのイエス様の行為を、喜ばれました。その行為にこたえられました。

もう一つは、イエス様の祈りです。

イエス様は可能なことを行い、燃え盛る嘆息の気持ちを持って、祈りました。天を見上げました。神様の憐れみを求めました。ツロ・フェニキアの女が、イエスに求めたと同じように、パンくずでも頂きたいと、強い願いで祈りました。そして、叫びました。「エパタ。」「開け。」これはイエス様の祈りでした。これはイエス様の祈りの叫びでした。

私たちはツロ・フェニキアの女のように、イエス様のように、神様への願いがあります。ある人は良い成績を、ある人は良い就職先を、ある人は良い性格を、あるい人は良い子どもの育ちを、私は「聖書の言葉を感動する学生たちの生まれ」を願っています。私の子どもから、私の学生から、長崎大学の学生たちから、言葉に感動する、涙を組む、その人生をキリストの精神と信仰に捧げる、キリストの弟子が生まれることを願っています。しかし、ツロ・フェニキアの女のような粘り強い願いが、謙遜な願いが、イエス様のように叫ぶ願いが、足りないことを悟ります。パンくずでも頂きたい願いを、耳が聞こえて、口がきけるように、「エパタ」と叫ぶ祈りが必要であることを悟ります。

神様、心の高ぶっている私を憐れんで下さり、ツロ・フェニキアの女の謙遜を下さいますように、粘り強さを下さいますように、イエス様のように、行動と叫びを伴う祈りを、捧げるように祈ります。長崎大学に12弟子を立てる日まで、この姿を通り続けますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23