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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その13 --> 問題紙


きよいものと汚すもの

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御言葉:マルコ7:1-23
要 節:マルコ7:23「これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

今日の御言葉は、イエス様が偽善を行うパリサイ人に与える警告のメッセージです。パリサイ人達は誰よりも神様を愛し、神様の戒めをよく守っていると思っていました。しかし、イエス様の目から見ると、彼らは口先では神様を愛していたものの心は神様から遠く離れていました。信仰生活が習慣的で形式的になると、誰にでもこのような事が起こり得ます。この時間御言葉を通して、私達の信仰生活を省み、心から神様を愛し、喜ばせる信仰とはどういうものかについて学ぶことができますように祈ります。

I. 神様の戒めと人間の言い伝え(1-13)

1、2節をご覧ください。パリサイ人と律法学者たちが、エルサレムから来ていてイエス様の回りに集まりました。彼らはイエス様の弟子のうち、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べているものがあるのを見ました。ここでパリサイ人たちが気にしているのは、手の「よごれ」ではなく、「けがれ」であることに注目する必要があります。よごれとけがれ、漢字では同じ字をあてることができますが、読み方を変えると、響きがまったく異なる字となります。「けがれ」というのは「よごれ」よりももっと複雑で重い感じがします。「よごれ」は石鹸で洗えば落ちそうですが、「けがれ」はもっと深くその人の人格に結びついている言葉のように思われます。

3-5節をご覧ください。「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」」とあります。パリサイ人やユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守っていました。これは単純に衛生上の問題ではなく昔からの言い伝えを守るための宗教的な慣習でした。彼らは手を綺麗に洗わないと手に付いていた悪魔が内側に入り、その人は汚れると思っていました。市場では異邦人との接触もあったので、何か汚れたものが付いた可能性もあり、特に注意して体まで洗わないと食事をすることができませんでした。彼らはまるで新型インフルエンザの対策を毎日しているようなものでした。しかし、イスラエルにも新型インフルエンザの患者が発生しています。彼らが守っていた言い伝えには食事の前に手を洗うこと意外に613項目ものしきたりがありました。もちろん最初しきたりを決めた彼らの意図は、神様の民として世の中で区別されて信仰生活をするためでした。しかし、問題は時間が経つにつれて神様の言葉より、言い伝えの方が先立ち、それによって人々の信仰生活が評価されるようになったことです。

そういうことで、パリサイ人たちは、汚れた手でパンを食べている弟子たちの行動を到底理解することができなかったのです。

昔、ある修道院にねずみが多くて、猫を一匹飼うことにしたそうです。ところが、この猫が礼拝時間になるとあちこち回りながら礼拝をじゃましていました。それで、修道院長は「礼拝の時には必ず猫を礼拝堂の外にひもでつないで置くように指示しました。それ以来、その修道院では礼拝時には必ず猫をひもでつないで置くことが一つの言い伝えになりました。年月が経ってその修道院長も猫も死にました。しかし、その修道院では礼拝堂の外に猫がいないのが気になり、わざわざ別の猫を買って紐でつないで礼拝をすることにしたそうです。笑い話ですが、私達の間にも知らず知らず当初の意図や動機や本質から離れて、形式的で習慣的に行っている行事があると思います。

6-8節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」イエス様は、彼らが口先では神様を敬っていますが、自分たちの言い伝えによって、神様の戒めをないがしろにしていることを指摘されました。言い伝えを堅く守っているものの、彼らの心は神様から遠く離れていました。礼拝にしても、決まりがあるから守る、ただ安息日だから会堂に行って御言葉を聞くだけのものになってしまいました。神様との関係より人間関係、自分の体面、宗教的な立場をもっと重要視していました。

神様は私たちの心をご覧になる方です。もちろん、食事の前に手を洗う必要があります。寝る前は歯磨きもしましょう。しかし、聖書には「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。問題は心というのは目に見えないことです。汚れた手は目に見えるために、すぐ洗います。しかし、心は目に見えないために隠しておこうとします。隠しておけば誰も知らないと思います。しかし、そのまま放置して置くと知らないうちに悪臭を出して腐ってしまいます。

9-13節をご一緒に読んでみましょう。「また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」

イエス様は、モーセの律法から、父や母を敬うことについて語っておられます。十戒の五番目は「あなたの父と母を敬え」です (出20:12)。申命記5:16節を見ると「あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。」とあります。私たちは父と敬う時、長くいのちを保ち、幸いを得ることができるのです。私たちは父と母を敬わなければなりません。ところが、当時のユダヤ人の言い伝えの中には、自分の持っている物を神へのささげ物にすれば、親にはそれに相当するものをあげなくてもいい、ということがありました。今風に言えば、「私は教会で神様に仕えているから」と言って、本当はあまり神様の御業にも一生懸命仕えないくせに、親のことに無関心だったり、親の意思に反する行為をしたり、自分の事ばかり考える生活をしたりすることです。それがゴルバンというものです。十戒のうち、最初の4つの戒めは神様に対するもので、後の6つの戒めは親と隣人に対するものです。神様は私たちが第一に神様を愛し、それと共に家族や隣人の事も大切にすることを願っておられます。なによりも神様は私達が習慣的で形式的に神様に仕えることを嫌われる方です。私達は毎週聖書勉強をし、礼拝を捧げています。礼拝の時間には使徒信条と主の祈りを持って信仰告白をします。しかし、それが喜びにならず、面倒なことに感じられたり、体は礼拝に来ているものの心は別の場所にいたり、賛美も祈りも信仰告白も口先だけのものになったりすると、神様は私達の礼拝や信仰生活を受け入れてくださいません。本当に神様を愛するならば、私達の心に喜びと感謝があふれます。自ら進んで神様を賛美し、言葉を伝え、教会を美しくします。心から神様に仕える人は幸せであり、神様はその人生を祝福してくださいます。

II. 人を汚すもの(14-23)

14、15節をご一緒に読んで見ましょう。「イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」弟子たちはこの御言葉の意味が分かりませんでした。イエス様は家にはいられると、その意味を説明してくださいました。

17-19節をご覧ください。「イエスが群衆を離れて、家にはいられると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」とあります。

イエス様は、体内に入れるものはあくまでも体に関することで、それ自体が人を汚すことはないとはっきり言われました。良くないものを食べると、たしかに体をこわすこともあるでしょう。消費期限の過ぎた食べ物を食べて食中毒になることもあります。タバコを吸ったりお酒を飲みすぎたりして体を壊すのはよくないことです。けれども、人の心が汚れて自分の欲望を満たすために変なものを口に入れることはあっても、それら自体が私たちのたましいを汚すことはありません。それでは、本当に私たちを汚すものは何ですか。

20-23節を読んでみましょう。「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」」イエス様は人を汚す12種類の悪について言われました。殺人、よこしま、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさは、十戒の第六の戒めである「人を殺してはならない」に該当するものです。また、不品行、姦淫、好色は、第七の戒めである「姦淫してはならない」に当たります。盗みは第八に戒めであり、欺きは第九の戒め、貪欲は第十の戒めに当たります。これらの十二の悪はすべて内側から出てくるもので、人を汚し、醜くします。この中で、殺人、よこしま、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさは、相手の人を妬み、非難し、罪に定め殺す行為です。最近、インターネット上では、このような感情を無分別に表す場合が多いです。人々はお互いの顔が見えなくで書けることを利用して、人をいじめたり、傷つけたりします。実際、人を死にまで追い込む場合も少なくありません。神様を信じている私達はこの時代のために祈らなければなりません。私達は人を愛し、生かす道を探るべきです。

もう一つ人の内側から出てくる悪に情欲があります。堕落した人間は常に快楽を求める本性を持っています。メディアの発達により誰でも軽く誘惑に陥る可能性があり、目を覚ましていなければ、いつでもサタンのえじきになってしまう環境に住んでいます。ですから私達は、外側をきれいに飾ろうとするより、心を清めるのに力を注ぐべきです。信仰生活とは心を守ることです。

それではどうやって心をきよくし、守ることができるでしょうか。

第一に、私達の罪を認め、悔い改める必要があります。

ヨハネの手紙第一の1:9節には次のように書いてあります。「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達を清めてくさいます。」私達が知っているダビデ王は、情欲の罪を犯した上、それを隠蔽するために自分の忠臣を殺す殺人罪を加えました。しかし、彼は自分の罪が指摘されたとき、言い訳をしたり、怒ったりせず心より神様の前で悔い改めました。その時神様は彼の罪を赦し、イスラエルの指導者として用いてくださいました。

第二に、私達の心を神様の御言葉で満たすべきです。

私達が罪を告白し心を痛めるだけにとどまると、再び罪の奴隷になってしまいます。私達の心はつぼのような入れ物ですから、何かによって満たされるようになっています。私達の心が世の中の事で満たされると色んな心配や恐れ、悩みが生じ、また運命的な考え、暗くて汚い考えで苦しめられます。しかし、私達の心を神様の御言葉で満たせば、様々な罪の本性が消え去り、聖霊に満たされるようになります。

第三に、熱心に主と福音のために自分の使命に忠実すべきです。

消極的に心を守ろうと思っても、私達の力や意志では心を守ることができません。私達はもう少し、安定的で余裕のある生活を望みます。しかし、人は暇ができると、罪の誘惑にさらされやすくなります。私達が楽な生活、十字架のない人生を求めるより、むしろ積極的に自分の人生を神様に捧げ、一生懸命に主と福音のために生きることができますように祈ります。そうすれば神様が私達にまことの心の平安と幸せをくださると信じます。

この時間神様が私達に自分の信仰生活や心を省みる恵みをくださったことを感謝します。私達は心の中で他人を憎んだり、悪口を言ったりしました。愛すべき人を罪に定めたり、無視したりしました。世の中の情欲や金に心を奪われたり、醜い姿で神様を悲しませたりしました。コルバンと言いながら親を敬わず、子供として親孝行もしませんでした。子供には親としての責務をりました。職場では光と塩のような生活ができませんでした。自分の事で精一杯で、羊のために教会のために時間と心を注ぎませんでした。この時間、神様の御前でパリサイ人のように生きてきたことを悔い改めます。神様は人の心を見られる方です。私達が主の前で、純粋な心をもって清い信仰生活を送ることができますように祈ります。

結論的に、神様は私たちがイエス・キリストによってきよめられ、心から神様を愛し、心から神様の御言葉を守ることを望んでおられます。今週も私たちが心を神様に向けて生きることができるように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23