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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その12 --> 問題紙


イエス様の弟子が持つあるべき姿

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ6:30-45
要 節:マルコ6:37a「すると、彼らに答えて言われた。『あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。』」

今日の御言葉はイエス様の弟子が持つ姿勢について、学ぶことができます。イエス様は自らのお姿を通して、また、お言葉を通して弟子たちが持つべき姿勢を言及されています。今日の御言葉を通して私たち、弟子たちが持つべき姿勢について学びますよう、祈ります。

I. 弟子たちの羊飼いとしての心(6:30-34)

前回の御言葉で、イエス様は、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになりました。神様だけに頼り、弟子としての権威と汚れた霊を追い出す権威が与えられたことを固く信じて、行動するようにと、彼らに命じられました。こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやしました。彼らは驚き、彼らを取り巻く人々も驚きました。彼らの活動は、当時の王にまでうわさが広められるほどでした。日本の初期の宣教師たちの活動が、江戸幕府の将軍にまで達したことと同じように、彼らの活動は聖霊の働きとともに、驚く御業が活発に起こりました。

30節の御言葉をご覧ください。「さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。」とあります。彼らは驚く当時の御業を、一つ一つイエス様に報告しました。病人の上に油を塗り、祈った時、彼らが病気から治ったことや、汚れた霊が彼らの祈りと制する力によって治められる様子等を残らず報告しました。聖霊が彼らと共にする時、彼らの活動には力がありましたし、驚きがありました。聖霊の働きがあった時、江戸時代、長崎の領主・大村純忠はポルトガルの宣教師たちに、カトリックの本部に対して、自分の領地であった長崎、今の県庁から市役所辺りまでの土地を、神様に献上したのも、聖霊の働きでした。聖霊の働きがあれば、再び、日本の国もキリストの季節になれることを、私たちはこのような事例からも信仰することができるのです。神様の聖霊の働きが伴うとき、私たちの間には驚くばかりの御業が起こるのです。ですから、私たちはどんなことよりも、聖霊に頼りすがることを、また聖霊の力を信じることをまず第一に考えなければいけないのです。聖霊の働きがあれば、私たちの人生にも驚くばかりの出来事が起こるのです。

31節の御言葉をご覧ください。そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われました。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからでした。そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行いきました。彼らはいつも、人々の出入りの多い生活に慣れ、自分たちだけの休みがありませんでした。休むこと自体が不慣れな者たちでした。しかし、今回だけはしっかり休みを取りました。自分たちだけのさびしいところを予約し、船を漕ぎだしました。ところが、33節の御言葉をご覧ください。さびしいところだと思っていた、その場所に、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いていました。イエスは、舟から上がられると、そこで初めて、多くの群衆をご覧になりました。イエス様もびっくり、弟子たちもびっくり、イエス様と弟子たちの計画は完璧にご破算になりました。

ゆっくり休もうとするとき、疲れ果てて、ちょっとでもゆっくりしようとするとき、邪魔をする人が出てくることほど腹立つものはありません。すべての邪魔者を投げかけてでも、休もうとするのが私たちの気持ちです。しかし、イエス様はこのような邪魔者を見た時に、どのようなお気持になられたのでしょうか。34節の後半部をご覧ください。「そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」とあります。イエス様は邪魔する人々の気持ちに、自分を置き換えておられました。なぜ、彼らはこんなにも邪魔ものにならざるを得なかったのか、彼らの立場で考えられました。そして、彼らが羊飼いのいな羊のようであるのに気が付きました。彼らがもし、羊がいのいる羊であれば、こんなにも邪魔しなくても、弟子たちやイエス様の休もうとする気持ちに気配りができたはずでした。彼らが羊飼いたちによって守られ、暖かく育つことができたのなら、自分だけのことを考えて、邪魔することはなかったはずでした。しかし、彼らは羊飼いのいない羊のように、生活してきました。彼らは一度も、イエス様のように、弟子たちのように、彼らの親身になって考えてくれる人に出会ったことがありませんでした。彼らは羊飼いのいない羊のように彷徨い、狼に襲われ、穴に落とされ、傷つけられ、悲しみに落とされていました。さびしい涙を流していました。イエス様は舟から上がられ、多くの群衆をご覧になった時、胸の熱い憐れみに打たれました。 この時代、大学生たちは守られていた高校生の時代から抜け出て、自由奔放の生活を送る環境が整えられています。彼らは自由に発想し、自由に考え、自由に動き回ることができ、半分、自立した環境の中で生活を始めています。必要なお金をアルバイトで稼ぎながら、社会人としての修業生活を始めている人もいます。私たちの中にも、このような大学生活を始めた子どもたちが増えています。しかし、よく考えてみれば、彼らの周りにはオオカミが多く、危険も多ければ、人々が見る彼らへの期待は、必ずしも良いものだけではありません。むしろ、イエス様はこのような彼らを見るときに、羊飼いのいない羊のように見ていた、ということを悟るようになります。私は今日の御言葉を勉強しながら、私たちがどれだけ、彼らの親身になって、羊飼いのいな羊のように、彼らのことを真剣に考え、彼らの将来を考え、彼らに責任ある立場の姿を取っていたのか、反省する気持ちになりました。彼らのためにどれだけ、考えてきたのか、恥ずかしい気持ちになりました。ある宣教師と夏のキャンプのことを話し合ったとき、私はどれだけ親身になって大学生たちを、羊たちのことを考えてきたのか、心が痛む気持ちになりました。これもひとえに、神様の御恵みによるものであることを悟ります。私自身、「羊飼いのいない羊のよう」に、人々を見る目が変わることを、祈ります。この時代、長崎大学の学生たちを、羊飼いのいない羊のように考えなかったことを告白し、この気持ちに満たされることを願い、祈ります。羊飼いの憐れむ心を学びますよう、祈ります。

II. 弟子たちの責任感(6:35-45)

35節の御言葉をご覧ください。イエス様が羊たちに対する憐れみ深い気持ちで、いろいろ教えておられるうちに、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来てこう言いました。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」弟子たちは彼ら方にも食べす、時刻も遅くなったことを考えて、解散を考えました。人数が多く、自分たちで何かを考えるには手に負えないものがありました。食べ物を命名買うようにすることで、問題を解決させようと考えました。これは誰が見ても合理的な考えでした。

しかし、37節の御言葉をご覧ください。イエス様は、彼らに答えて言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」"You give them something to eat."“너희가 먹을 것을 주어라.”これはどんな意味でしょうか。

ひとつ、あなた方であの人たちに、何か食べるものを上げることができる、という意味です。

弟子たちは自分たちだけで、5千人に近いこの人々のおなかのすいた問題を解決することはできない、と判断しました。事実、その判断には間違っていませんでした。彼らが直面した問題に、彼らがやれることはない、という判断は間違っていませんでした。しかし、イエス様は「あなたがたで、、、」と言われました。それは弟子たちを指すものでした。弟子たちは、判断に迷い、見えない先のことについて、何か食べるものを上げることができる、と判断しておられることが分かります。弟子たちはどんな人ですか。弟子たちは神に選ばれた人でした。弟子たちは聖霊が共にする人であり、神様の権威が授けられたものでした。弟子たちは弟子としての自分と、弟子にふさわしい力を増す、聖霊の合体作でした。イエス様はこの弟子たちに言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」"You give them something to eat."“너희가 먹을 것을 주어라.”

もうひとつ、羊たちの問題を、自分たちの問題のように責任感を持て、という意味です。

弟子にイエス様は責任感を要求します。それは、羊たちの問題を解決していく責任感です。弟子たちは彼らの食べる問題は、彼らが責任を持つべきだと思いました。しかし、イエス様は弟子たちを探してきた人々の食べる問題は、弟子たちが責任を持つべきだ、と断言されました。それは、彼らには羊たちに分けてやれるものがあるからでした。イエス様は彼らに言われました。それで、イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」"You give them something to eat."“너희가 먹을 것을 주어라.”

しかし、弟子たちは言いました。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」彼らは二百デナリのお金がないと考えました。彼らには五千人を食べさせる力がないし、それは手に追えるものである、と主張しました。しかし、イエス様は何と言われますか。38節の御言葉をご覧ください。「するとイエスは彼らに言われた。『パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。』」

弟子たちはできない、手に追えるもの、と判断していることに対して、イエス様は、「できる」「あるものを探せ」「行って見て、確認作業から始めよう」と言われています。これは、弟子たちは「できる」ことを教えている言葉ですし、「弟子たちには五千人を食べさせるパンがある」というお言葉です。さらにこれは、「弟子たちは、否定的な計算ばかりするものではなく、できるものを探し、動くもの」であることを教えています。

弟子たちの中には、この話を聞いて「ぶつぶつ言いだす弟子」「部屋に閉じ困った弟子」「弟子の辞表を出そうと考える弟子」など、いろいろいましたが、多くの弟子たちは確かめました。「行って見て来なさい」という言葉に従順しました。そして、彼らは言いました。「五つです。それと魚が二匹です。」これは彼らのものではありませんでした。ある少年が持っていたものでした。しかし、それは五千人のために提供できるものとして探し出したものでした。

すると、イエス様は動きだされました。歴史は動きだされました。39節をご覧ください。「イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになりました。そこで、弟子たちは人々を、百人、五十人と固まって席に着くようにしました。するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求めました。神様がこの働きに関与して下さるように祈りました。可能性としてはゼロに近いですが、神様が関与して下さるように、神様が私たちの動きを憐れんで下さるように祈りました。そして、祈りだけでなく、実際に、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられました。また、二匹の魚もみなに分けられました。すると、どんなことが起こりました。42節から44節の御言葉に、マルコは軌跡を書き記しています。

42節から44節の御言葉をご覧ください。「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは、男が五千人であった。」これはいったい何を意味するお言葉でしょうか。マルコは、何で、この記録を残したのでしょうか。それは、明らかに神様の関与が生む、不思議な力について、また、牧者心情が生む奇跡について、教えている教訓です。

信者は、弟子は、憐れむ心を持つ時、祝福されます。信者は、弟子は、責任感を持つ時、祝福されます。何よりも、弟子はないものを見つめて、不平不満を言いだす人ではなく、今あるものを見つけ出し、イエス様の前に持ってくることであり、神様の祝福を期待して、動き出すものであることが分かります。現在、私たちの人生において、イエス様が願う弟子としての正しい姿はどんなものでしょうか。この時間、私たち一人一人に求められる主の声に耳を傾け、憐れむ心をもって、あるものを探し出す人となりますように祈ります。そして、祝福を手にするものとなりますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23