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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その11 --> 問題紙


十二弟子をお遣わしになったイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ6:1-29
要 節:マルコ6:7「また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。」

前回、私たちは信仰により病気から自由になった二人について学びました。12年間、長血を患っていた女が、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と確信し、苦しい病気から自由になった事件、また、「恐れないで、ただ信じていなさい。」というお言葉を、信じきれない中でも信じ続けた時、12歳の娘が生き返る軌跡を体験した会堂管理者ヤイロの事件がそれです。

今日の御言葉で、マルコはイエス様の郷里の人々の不信仰について記録しています。イエスは彼らの不信仰に驚かれました。不信仰の原因が何でしょうか。そのような不信仰の時代、イエス様は何をされましたか。今日の御言葉を通して、不信仰の時代、イエス様が行った御業について学ぶことができますように祈ります。

I. イエス様の郷里で(6:1-6a)

1節の御言葉をご覧ください。イエス様は久しぶりに郷里に行かれました。イエス様がなかなか郷里に来ないので、家の人々や兄弟が、わざわざイエス様の所に訪ねたこともありました。しかし、今回は弟子たちもお連れして、郷里に行かれました。久しぶりの訪れにいろんなことがありましたが、マルコは安息日のことを記録し、当時の、イエス様に対する郷里の人々の反応を明らかにしています。イエス様が郷里に行かれた時、安息日のことでした。イエス様は会堂で教え始められました。それを多くの人々が聞きました。人々の反応は驚きそのものでした。人々の反応についてマルコは高記録しています。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」そして、最後に、郷里の人々はこうして彼らはイエスにつまずいた、としています。

イエス様は彼らと一緒に子どもの時を過ごしました。一緒に遊び、一緒に食べ、一緒に生活し、一緒に学び、一緒に成長していきました。マリヤの子で、その兄弟にはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンがいました。男たちだけでなく、妹もいました。彼らとはいつものような近所付き合いで、生活をしていました。イエスは成長して、大工として生活費を稼ぎ、生きていました。しばらくでしたが、イエスのことについては誰よりも彼らが知っていました。最近、見えなかったイエスについて様々なうわさがありました。家族たちも心配して、イエスの活動場に訪れてイエスの様子を見たりしていました。そのイエスが郷里に来て、安息日に会堂で神様の御言葉を読み上げ、その意味を語る話は、もはや以前のイエスではありませんでした。教えるお言葉には力があり、知恵があふれていました。うわさされるイエス様の御業は驚きそのものでした。

このイエス様の力ある業、その教えは聖霊によるものでした。神様の力でした。しかし、彼らはその力と知恵の驚きについて「いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」と否定しました。普通の人だ、友達だ、友人で、小さい頃はよく泣いていたやつだ、大したものではない、とイエス様の力と知恵を素直に認めようとしませんでした。5節をご覧ください。「それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。」とあります。

信仰の力は不信仰を克服するときに訪れる神様の祝福です。神様はどのような信仰を私たちに求めていますか。へブル人への手紙11章を見ると、「きっと治る」信仰、「死んでも生かされる」信仰、生きている間にもこのように信じ続けることはもちろんですが、信仰の人々として死ぬこと、何一つ約束のものを手に入れることはなくても、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白してる人々、この人たちが信仰人です。この人々を、神様は喜びます。この人々をイエス様は本能的に反応します。この人々を、イエス様はお付き合いされます。その人生を保証して下さいます。生かされますし、その人生を通して生かされる御業を引き起こされます。

私たちが不信仰な人にならず、信仰人となり、神様を喜ばす人となりますように祈ります。人生が生かされ、人生を生かす御業に仕えられますように祈ります。

II. 十二弟子の派遣(6:6b-29)

6節をご覧ください。「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」とあります。イエス様の反応の中に、驚かされたと記されている個所は数少ないのです。ここに、マルコはイエス様の驚きを記録しています。その驚きは「不信仰」からきたものです。イエス様は落胆したことでしょう。彼らの不信仰な反応に呆れたことでしょう。その時に、イエス様は何をされましたか。

第一に、イエスは、近くの村々を教えて回られました。

イエス様は受け入れない人々、不信仰な人々、躓く人々とお付き合いをすることをやめて、別の近くの村々を回られました。信仰人を求め、動きだされました。神様が用意されました信仰の人々に出会うために、近くの村々を教えて回られました。見てみると、信仰の人々はあふれていました。ルカの福音書10章2節を見ると、イエス様は弟子たちにこう言われました。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」イエス様は切に祈りました。また、弟子たちにも祈りを頼みました。信仰人探し、これがイエス様の不信仰な時代に心をこめて行われた御業でした。

第二に、イエス様は12弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始められました。

12弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始められたとは、積極的に信仰の人々を探す御業を始められたことを意味します。不信仰な時代、イエス様は積極的に神様が用意されました信仰の人々に出会う活動を始められただけでなく、12名の弟子を呼び寄せて、彼らを二人づつ組を作って、信仰人探しの活動を開始されました。

7節を見ると、イエス様は12弟子を派遣される時に、彼らに「汚れた霊を追い出す権威」をお与えになった、とあります。12弟子の仕事は用意された信仰人を探すだけではなく、汚れた霊のために苦しむ人々を助ける目的がありました。これを見ると、弟子には汚れた霊を追い出す権威が授けられています。汚れた霊とは悪霊のことです。エペソ人への手紙6章12節は、次のように記録されています。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」弟子にはこれらの勢力を制する力が与えられたのです。なぜでしょうか。弟子の格闘は血肉に対するものではないからです。弟子とは、見えるものを見て、形を見て、少々足りないから、みっともないから、恥ずかしいから、といって、そのような問題を解決するために努力する人ではないのです。弟子は、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対して戦いに挑むものです。見えるものの背景にある勢力、主権と戦いをするものです。暗闇の世界を支配する悪霊との闘いをするものです。

イエス様はその戦いのためには、徹底して神様に頼る必要があることから、弟子たちに命じられました。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」旅人にとってお金は必須です。カバンも必須です。下着も、パンも必須です。これが用意できてなければ、旅は出発できません。しかしながら、イエス様は旅のために、杖一本のほかに何も持って行ってはいけないと言われます。これは神様おひとりだけに頼る環境に遭遇させようとする強い目的があります。これは弟子たちに、神様以外のものに頼ってはいけない、ことを教えようとする強い意思が込められています。

また、10節を見ると、彼らにこう言われました。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」イエス様は弟子たちを受け入れる人々を、神様自らが用意されていることを教えています。どの土地に行っても、弟子たちを受け入れる人々が用意されています。神様が用意された方々です。神様に感謝する気持ちで、彼らにお世話になるべきです。しかし、福音に強い拒否反応をする人々には、しっかりと線を引くべきです。彼らにお世話になるべきではないのです。それは神様の御業が妨げにならないためです。

こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやしました。イエスの名が知れ渡りました。なんと、当時の支配者、ヘロデ王の耳にもはいりました。人々のイエス様への反応は、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」と言っていました。別の人々は、「彼はエリヤだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ。」と言っていました。しかし、当時の統治者、ヘロデはうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」と言っていました。その理由について、マルコは17節から29節までの長い文書を記録として残しています。

17節から、29節までの御言葉を見ると、当時の時代背景を読み取ることができます。勝手に自分の弟の妻を奪い取った時代、弟の妻でありながら、王の妻になろうとしたヘロデヤの腐敗した心、また、酒が伴う宴会場でした約束を守るために、人の命を軽々しく落とし、しかも、盆に載せて、人々の前に披露する残虐な様子、これが国を指導する人々の間に行われていた時代でした。バプテスマのヨハネはこのような時代を、その時代をリードする指導者たちを赦すことができませんでした。彼らに厳しいメッセージを発しました。「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」

同時代を生きていたイエス様にとって、ヨハネのメッセージは「良心の声」そのものでした。しかしながら、その時代の指導者・ヘロデはヨハネを殺しました。残虐な形で時代の光、時代の灯が落とされました。バプテスマのヨハネの無念の死は、イエス様にどう映ったのでしょうか。歴史的に見れば、バプテスマのヨハネの死は旧約の終止符であり、新約のスタートでもあります。預言者の時代が終わり、キリストの季節が訪れたことを意味します。信仰の創始者であり、完成者である「イエス・キリストの時代」が到来したのです。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたイエス様のことばが、実現したことを意味します。信仰による完璧な救い、血肉の戦いではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対する勝利の宣言でもあります。

この時代、私たちが血肉の戦いをやめて、イエス・キリストの力に頼り、悪霊と戦い、見事に勝利を手にするものとなりますように祈ります。福音の勝利者として、この時代、証人として生きる者となりますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23