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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その10 --> 問題紙


お着物にさわることでもできれば

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御言葉:マルコ5:21-43
要 節:マルコ5:28-29「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」

今日の御言葉は信仰により病気から治った二つの事件を取り扱っています。ひとつは12年間、長血を患っていた女のお話であり、もうひとつは死にかけている娘を持った会堂管理者のお話です。二つの事件は重なった形でお話が進んでいます。二つの事件は独立しているかのように見えますが、私たちに同じテーマの「信仰」そのものについて教えています。本文のメッセージを通して、信仰について学ぶことができますように祈ります。

I. 会堂管理者の祈り(5:21-24, 35-43)

21節の御言葉をご覧ください。イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まってきました。イエスは岸べにとどまっておられました。イエス様は大勢の人の群れのために前に進むことができませんでした。22節をご覧ください。すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏して、いっしょうけんめい願ってこう言いました。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」会堂管理者とはその地方の人々に親しまれる町の長老で、会堂を管理する霊的な指導者でした。イエス様は会堂を中心に御言葉を伝える活動をしていました。そこで、イエスは彼といっしょに出かけられました。会堂管理者の願いにそってその娘を助けるためでした。しかしながら、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫ってきました。イエス様の一行は全く身動きが取れない状態でした。

II. 長血を患っていた女の信仰(5:25-34)

さて、25節の御言葉をご覧ください。この間、イエス様にはまた、別の人物が近付いていました。十二年の間長血をわずらっている女がその人物でした。長血とは、長期間の出血を伴う婦人病で律法では、長血の者は汚れた者とされており、他の人に触れると触れた人までが汚れた者とされていました。(レビ記15:25) この女は、12年間も長血をわずらい続け、その間、ありとあらゆる努力をしましたが、むしろ悪くなる一方でした。彼女は病気のため苦しみ、なおかつ、汚れたものの律法の定めから来る内面的な苦しみにさいなまれていました。彼女は病気のために持物を使い果たしてしまいました。それだけでなく、彼女は人々から汚れたものとして扱われていました。彼女は自分の人生が神様に呪われたのだと思われていたに違いありません。運命的な人生のために悲しみの涙を流していたに違いありません。

しかし、27節をご覧ください。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった、とあります。想像を超える突出的な彼女の行動について、著者マルコは次のようにその根拠を記録しています。28節をご覧ください。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。彼女は悲しい運命と涙の人生を生きていたのですが、「イエスのことを耳にした」時、彼女の心の中には不思議な思いがしました。それは、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」という考えでした。

ここで私たちは信仰について、大事な原理を学びます。それは、信仰の生まれが「イエスのことを耳にした時」であることです。イエスのことを耳にした時、彼女は不思議な思いが浮かび上がります。それは想像を超えるものです。彼女としては考えにくいものです。彼女の人生の経験からして思いもよらない考えでした。それは、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」という考えでした。これは非常識的な考えでした。一般的には考えられないものでした。しかし、彼女はイエス様のことを耳にした時、考えました。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」これは聖霊が与えてくださった確信でした。それは聖霊の働きでした。

信仰はイエス様からスタートするものです。信仰の根拠はイエス様であり、信仰の力もイエス様から来るものです。この信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(へブル11章1)信仰はイエス様により得られる望みを保証しますし、それがもし、目には見えない形であっても確信し続けることがでるものです。ですから、信仰は望みのようなものが確実に現れるものですが、今すぐ目には見えなくても、その確信は動かされることがないのです。これが信仰です。この信仰には人それぞれに求められることがあります。この女には、イエスのお着物にさわること、でした。これは彼女にとって最大の壁でした。彼女は人々に紛れ込むことが許されてないものでした。しかし、彼女が心の確信を実行に移したその時、どんなことが起こりましたか。

29節をご覧ください。「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」とあります。奇跡が起こりました。彼女の思いの通り、長血から解放されました。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいておられました。そこで、イエスは群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われました。弟子たちはイエスに「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」と状況判断に鈍いイエス様を責めました。しかしながら、イエス様は信仰によりご自分の力を抜きとった人を知ろうとして、見回しておられました。

信仰はイエス様の力を抜きとる道具のようなものです。わたしたちの人生や運命を塗り替えるほどの力を持つ、イエス様の力を抜きとる道具です。それはイエス様のお話を聞いたときに生まれる思いを持ち続けることで、イエス様のお話を耳にした時に生まれる希望と確信を失わないことです。イエス様のお話を耳ににした時に生まれる、女のような不思議な確信です。イエス様により生まれた確信は、イエス様の力により実現されます。それは女の行動により実現されるものより、女が信仰し続けた行動により得られたイエス様の力です。女が恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた時、イエスは彼女にこう言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

ここで私たちは、彼女のイエスのことを耳にして生まれた不思議な確信を、持ち続けること、それにとどまらず、その確信から来る要求、つまり、お着物に触ることを実行に移すこと、これかイエス様の力を抜きとる「信仰の実態」であることを学びます。

二年前に、三回目の「星を数える会」を行っていた時、大阪センターのN牧者が「メッセージの中に3%の弟子養成」を耳にした時、私は不思議な確信をしました。3%であればわたしたちのキャンパスはきっと浄化できる、キリストの季節を迎える、ということです。その時、神様は私に、身近な人たちにイエス・キリストを紹介するよう、それを神様は3%の弟子養成の根拠として用いることを悟ることができました。私がこの確信を持ち続けるとき、イエス・キリストを身近な人たちに紹介することをやり続けるとき、わたしたちのキャンパスにはキリストの季節が必ず訪れるのです。2009年の新しい年の要節を決めようとした時、私には不思議な確信が与えられました。それは、朝、まだぐらいうちに、人里離れたところでお祈りをされたイエス様の御言葉から、私も朝の祈りをささげることができれば、イエス様のように聖霊の働きに沿う生活ができ、一年を神様の御心に沿うように生きることができる、という確信でした。私が朝の祈りをささげることで、今年、聖霊に導かれる主のものになるのです。長崎に12名の弟子が、120名の礼拝がささげられるのも、主が下さった確信を持ち続ける時に、私たちに現れる主の力なのです。

III. 会堂管理者の信仰(5:35-43)

35節をご覧ください。イエスが、まだ長血を患っていた女と話しておられるときでした。会堂管理者の家から人がやって来て言いました。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」会堂管理者がイエス様にお願いをして、祈りをしていたことが、もう駄目になったとの宣告でした。死刑宣告のようなものでした。今まではまだ、死んでいなかったので希望が持てましたが、死んでしまった報告を受けた会堂管理者の心情はどうだったことでしょうか。36節の御言葉は当時の会堂管理者の様子を推測することができます。それは、会堂管理者の恐れでした。彼はイエス様にお願いに来た時から、恐れがありました。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」と頼みながらも、もしかしたら遅れると死ぬかもしれない恐れがありました。すると、イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

ここで、私たちは恐れが信仰の敵であること、恐れが信仰の心を奪い取ろうとしている原因であることを学びます。また、イエス様は私たちが恐れと戦いながら、信仰を持ち続けることを願っていることが分かります。「恐れないで、ただ信じていなさい。」テモテへの手紙第二の1章7節には次のような言葉で、テモテを励ましています。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」ここで、臆病とは「気が小さかったり、心配性であったり、するために、必要以上に用心深くなる姿」を指します。このようなものは神様から来ていません。このようなものはわたしたちの心から信仰を奪い取ろうと一生懸命です。しかし、私たちはこのような臆病と戦うべきです。恐れを乗り越えるべきです。神様が与えて下さったものを、確信を、持ち続けるべきです。必要以上に用心深くなることをやめて、神様の力を、神様が与えて下さった確信を、神様から来た夢を、持ち続けるべきです。「信じます。不信仰な私をお助けください。」と祈るべきです。イエス様は病気から治そうとした人が死んでも、生かす力のある方であることを確信すべきです。その時、歴史は動きだします。

イエスは、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならず、会堂管理者の家に着きました。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われました。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」すると、人々はイエスをあざ笑いました。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれました。そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」と叫ばれました。すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めました。十二歳にもなっていたからでした。彼らはたちまち非常な驚きに包まれました。イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われました。

「タリタ、クミ」これは神様の力を象徴する言葉です。「タリタ、クミ」とは死亡の勢力に対するイエスさまの号令です。「タリタ、クミ」とは信仰の人に対するイエスさまの答えであり、信者にとって信仰の実を手にするお約束のことばです。「タリタ、クミ」。私たちが信仰人としてイエスさまのこの声を耳にするものとなりますように祈ります。死に至るまで忠実して、タリタ、クミの冠を得るものとなりますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23