Counter: 1207, today: 1, yesterday: 0

2009年長崎UBF、マルコの福音書、その9 --> 問題紙


おまえの名は何か

Messenger:MSN.Caleb

御言葉:マルコ4:35-5:20
要 節:マルコ5:9「それで、『おまえの名は何か。』とお尋ねになると『私の名はレギオンです。私達は大勢ですから。』と言った。」

今日の御言葉はイエス様が突風を静められた出来事とゲラサ人の地で悪霊につかれた人を助けられるという二つのテーマに構成されています。この時間、御言葉を通してイエス様が求められる信仰を学び、どんな試練や厳しい状況の中でも主の栄光を表す人生を送ることができますように祈ります。そしてイエス様の人間観について学び、私達の存在を再認識する機会となりますように祈ります。

I. イエス様が求める信仰とは(4:35-41)

4章35、36節をご覧ください。「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。」とあります。先週勉強しましたように、イエス様がからし種の例で神の国について教えられた日のことでした。夕方になってイエス様は弟子達に「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われました。弟子たちは久しぶりに群衆から離れてイエス様とともに舟に乗って、綺麗な湖と夕焼けを見ていました。景色も弟子たちの気分も最高でした。しかし、37節をご覧ください。「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。」とあります。突風とは突然吹きだす強風で、寒冷前線やなどに伴って起こることが多くガリラヤ湖によく発生したと言われています。突風による大きな波が舟に当たると舟は水でいっぱいになりました。弟子たちの中では四人がこのガリラヤ湖の漁師出身でした。最初彼らは「良くあることさ」と言いながら、今までの経験や自分たちの力によって克服しようとしました。しかし今回の突風は、彼らの経験や力を超えるものでした。舟は水でいっぱいになり、弟子達は溺れ死にそうになりました。

ここで私たちはイエス様がともにおられる弟子たちの航海や人生にも突風が起こることを学ぶことができます。人生の航海には予期せぬ突風が起こります。愛する人の死や重い病気、経済的な破綻や家庭内の不和など、突風の前では人間の知識や技術や経験やお金や社会的な地位だけでは問題を解決するのに限界があります。突風は人々に恐れと悲しみを与えます。ですから、いつも信仰によって心の武装をしなければなりません。突風に遭ったとき、「イエス様を信じているのにどうしてこんなことが起こるのか」と絶望してはなりません。むしろ神様の愛を信じて信仰によって試練を乗り越えなければなりません。

それでは、突風が起こった時イエス様は何をしておられましたか。38a節をご覧ください。「ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。」イエス様の一日はいつも忙しかったので相当疲れていたに間違いありません。イエス様はみな騒いでいる中でも枕をしてゆっくり眠っておられました。イエス様は本当に体の反応が鈍い方だったのでしょうか。いやイエス様には弟子たちにはない心の平安があったからです。一方、弟子達は突風が起こった時、何をしましたか。38b節をご覧ください。弟子たちはイエス様を起こして言いました。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」弟子達はイエス様に不満をもらしました。イエス様ご自身が「向こう岸へ渡ろう」と誘ったのに、どうして助けてくれないのかと文句を言いました。

しかし、弟子達は不満をもらしましたが、イエス様を起こしたことは、ある面で彼らの祈りでした。イエス様は突風が起こってもわざわざ弟子達が起こす時まで待っておられたかも知れません。イエス様を知らない人々は人生の突風に遭ったとき、起こす対象つまり助けを求める対象がありません。しかし、クリスチャンには突風の中で頼れる方がおられます。イエス様は私達の祈りを聞かれ、助けてくれることができる方です。ではイエス様は弟子たちをどのように助けてくださいましたか。39節をご覧ください。「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」

これはまるで映画のようなシーンです。人は突風を叱り、静めることができません。しかし、イエス様は突風をお叱りになり、静められました。イエス様の御言葉には権威があります。その権威は初めに御言葉によって天と地を創造された権威です。神様が、「光よ。あれ。」と仰せられると、光ができました。イエス様は自然界を支配する全能なる創造主神様の権威を持っておられたのです。突風を静められたイエス様は弟子たちに何と言われましたか。40節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」イエス様は彼らがこわがることと信仰がないことをお叱りになりました。」

人間が突風に会った時にこわがるのは仕方がないと思われます。しかし、イエス様は弟子たちに「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と言われました。弟子たちがこわがっていたことは信仰がなかったからでした。この恐れはサタンが植え付けるものです。神様が私達に与えるものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です(Ⅱテモテ1:7)。信仰の人は力と愛と慎みによって生きる人です。突風に遭っても揺れることなく、神様の力に頼る信仰によって生きる人です。イエス様は、「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。突風の中でも眠れるほどの平安をもって生きるためには信仰が必要です。先が見えない状況の中でもイエス様の愛と導きを信頼する信仰です。

イエス様は、ここで弟子たちに罰を与えたり、見捨てたりしておりません。むしろ、このことを通して、彼らがご自分のことを学んでほしいと願われました。41節をご覧ください。彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言いました、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」突風を静められたイエス様を見た弟子達は大きな恐怖に包まれました。彼らはイエス様を恐れ敬うようになりました。「いったいこの方はどういう方なのだろう。」彼らは今までイエス様が何をなさるのかに関心がありました。しかし、今や彼らの関心はイエス様がどんな方であるかに変わりました。突風の訓練を通してイエス様についてもっと深く知るようになりました。彼らはイエス様が自然界をも支配する創造主であることを知るようになりました。私たちが、このイエス様を信じて生きる時、主は私達の乗っている船の船長となってくださいます。突風の中でも神の国まで安全に導いてくださいます。私たちの人生には時々突風が起こります。しかし、突風そのものは問題ではありません。突風は私たちの人生の航海の中で起こるものです。問題は信仰です。主は突風を通して私たちの信仰が成長することを願っておられます。そして、多くの人々に仕える人として成長させてくださいます。

II. おまえの名は何か(5:1-20)

5章1節をご覧ください。「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。」とあります。イエス様一行は、突風を乗り越えて湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着きました。ゲラサ地方はガリラヤ湖の東南部に位置している軍事都市でした。当時そこにはローマ第14軍団が駐屯していました。兵士たちを相手にして水商売をする人々も多くいました。当然、罪の誘惑を受けやすい環境でした。

2節をご覧ください。イエス様が舟から上がられると、お迎えにしてくれたのは、ゲラサ市長さんではなく、墓場から出てきた汚れた霊につかれた人でした。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖を持ってしても、彼をつないでおくことができませんでした。彼が墓場に住みついているのは、お墓の管理のためではありません。彼は家族や村の人々から見捨てられて住まいを失いました。人と接することができなくなり、人が住まない墓場に居場所を作ったのです。

家、家庭というのは砂漠にあるオアシスのような所です。人々はにぎやかな都市生活の中でも孤独を感じ、多くのストレスを受けていますが、家に帰るとゆっくりと休めるし、安らぎを得ます。疲れている体も心も癒されて新しいエネルギーを充電する所でもあります。愛する家族と触れ合うことも大きな力になります。19節から見ると、この人にもそのような家がありました。愛する家族もいました。ところが、今は家や家族から離れて墓場に住みついています。彼が家や家族から離れて墓場に住みついているのを見ると、家庭や社会の問題によって傷つけられていたかも知りません。家庭や社会の環境が人の人格形成に与える影響は大きいものです。両親が離婚したり、父親が暴力を振るったりすると子どもは深く傷つけられます。

最近、残虐な犯罪事件が増えていますが、多くの悪霊が働いていることが分かります。犯人からは、自分の中にもう一人の自分が住んでいて制することができなかったと告白している例が多くあります。誰でも人間は罪人であり、悪の本性を持っていますが、汚れた霊、サタンがその性質を働かせます。ところが、人々はそのような問題をどのように解決しようとしましたか。3、4節をご覧ください。「この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を抑えるだけの力がなかったのである。」とあります。彼は、だれによっても押さえることはできませんでした。鎖や足かせなど、人々が考えられる手段は、何も役に立ちませんでした。人々がやれることというのは、近所の人に迷惑がかからないように鎖や足かせでつなぐことだけでした。すると、彼は鎖を引きちぎり、足かせを砕くためにあばれ、それが繰り返されて体は傷だらけになりました。

5節をご覧ください。「それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」とあります。彼は重苦しい心を押え切れず、夜昼なく、墓場や山で獣のように叫び続けました。自ら害を与えていました。現代の日本人は、年間3万人以上の人たちが自殺すると言われます。子どもから年寄りまで、一般市民から有名人まで深刻な状況です。日本はこんなに豊かになったのに、世界で最も自殺者が多い国の一つです。お隣の韓国も場合もあまり変わりません。最近は前大統領が自殺する類のない事件によって悲しみに包まれています。当時、ゲラサは栄えている所でしたが、この人の姿をみると、とても惨めです。この時代も心のケアが必要な人がたくさんいます。いやこの世にいるすべての人々はイエス様の助けが必要です。

それでは、イエス様はこの人をどのように助けられましたか。6、7節をご覧ください。ゲラサ人はイエス様を遠くから見つけ、駆け寄って来ました。そしてイエス様を拝し、大声で叫んで言いました。「いと高き神の子、イエス様。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエス様が、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからです。風も湖もイエス様のことばに従いましたが、悪霊も服従しています。ただ、悪霊は滅びることを恐れて苦しめないようにお願いしました。悪霊は人の中に入ってイエス様と関係性を結ぶことを妨げます。ゲラサ人がイエス様を遠くから見つけ、駆け寄って来たのを見ると、彼の本来の自我はイエス様と人格的な関係性を結ぶことを願っていたことがわかります。しかし、彼のうちに働いている汚れた霊がイエス様と関係性を結ぶことに対して強く妨害するのです。  

悪霊は人がイエス様と関係性を結び、新しく生まれることを妨げます。しかし、そのような時こそ、私たちはイエス様から離れて行ってはなりません。苦しいときこそ霊的な世界を体験するチャンスです。祈りによってますますイエス様に近づく必要があります。イエス様が私たちを助けてくださるからです。イエス様はどのように助けてくださいますか。イエス様は悪霊につかれた人に会うとすぐ「汚れた霊よ。その人から出て行け。」と言われました。

イエス様はその人と悪霊を分けてご覧になりました。イエス様は「汚れた人だ。汚い人間だ」と言われませんでした。約1ヶ月前に有名芸能人のKさんが酔っ払い公園で裸になった事件がありました。当時彼は、総務省関連のCMに出演していましたが、この事件を受けて総務省のトップが記者会見を行い、「最低の人間だ」という発言をして大きな問題となりました。それで急遽その言葉を撤回し、「最低の行為だ」に修正したことがあります。だいたい人々は悪霊につかれた人を見るとその人自体がだめだと思います。それは悪霊の存在を認めてないからです。しかしイエス様はその人と悪霊を分離してご覧になりました。ですから、その人を苦しめている悪霊さえ追い出せば、その人は本来の自分に戻ることができます。そこで、イエス様はその人の中で働いている悪霊と戦い、その悪霊を追い出してくださいました。すると彼は心の分裂現象が起こりました。悪霊が暴れて彼をもっと苦めました。9節をご覧ください。それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになりました。イエス様は悪霊の存在を公にするために彼の名前を尋ねられました。名前はその人の人格と存在を現わすものです。

彼は悪霊につかれて本来の自我を失っていました。イエス様は彼を哀れんでくださいました。彼と愛の関係性を回復するために尋ねられました。「おまえの名は何か。」すると、彼はイエス様の御前に真実に自分の名前を言いました。9b節をご覧ください。「私の名はレギオンです。私達は大勢ですから。」レギオンというのは6000人で構成されたローマの軍団のことです。それを見ると彼にはそれほど大勢の悪霊が働いていたと思われます。情欲の霊、高慢の霊、憎しみの霊、貪欲の霊、ねたみの霊、安逸の霊、劣等感の霊、自虐の霊など様々な悪霊が彼の中に入り、彼の考えや感情や意志や行動を支配していました。彼の告白によって正体が現われました。もう、汚れた霊はそれ以上その人の中にとどまることができなくなりました。それで、悪霊どもは自分達をこの地方から追い出さないでくださいと懇願しました。

11-13節をご覧ください。ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってありました。彼らはイエス様に願って言いました。「私達を豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエス様がお許しになると、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移りました。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまいました。すると、悪霊につかれていた人は正気に返りました。彼は着物を着て、イエス様の前に座っていました。立派な青年の姿に戻りました。彼の狂った心は完全に回復されました。イエス様は一人を救うために豚2000匹(50万円×2000匹=10億円)を犠牲にされました。ここでイエス様の価値観、人間観を見ることができます。イエス様は一人のたましいを世のどんなものより尊く思われたのです。

しかし、この驚くべきことに対する町の人々の反応はどうでしたか。彼らはイエス様のところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見ました。ところ、彼らはそれを喜ぶどころか、かえって、厄介なことを起こすイエス様に、この地方から離れてくださるよう願いました。ここに、この世の人々の価値観を見ることができます。彼らはひとりの人のたましいの価値よりも、豚につけられる経済的な価値を重視したのです。というのも、豚は彼らの財産でした。生活手段でした。反面レギオンを宿していた人は豚以下の存在でした。彼らに何の役にも立たず、豚のように売ることもできない迷惑な存在でした。そのような人のために、金になる豚をあれだけ犠牲させるなんて受け入れがたいことでした。

18節をご覧ください。イエス様が舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエス様に願いました。彼はイエス様の愛に感動され、いつまでもイエス様とともにいたいと願いました。しかし、イエス様はお許しにならないで、彼に使命を与えてくださいました。しかし、お許しになりませんでした。そして、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」と使命を与えられました。

それによって彼だけではなく彼の家族の心をも癒され、回復されるようにしてくださいました。彼はキリストの証人となりました。そこで、彼は立ち去り、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、自分の家族やデカポリスの地方で言い広め始めました。人々はみな驚きました。救われた人々の使命も同じです。それは主が私に、どんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったかを、多くの人々に知らせることです。

私は、現在の自分の状況と将来のことを考えると、心が突風に遭ったように騒ぎます。どうしてもイエス様は寝ておられるように思えるし、いつまで不安な航海が続くのか恐れおののいている自分に気づきます。しかしイエス様は言われます。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」私はイエス様から叱られて、これまでに「イエス様を信じる、主のために生きる、神の国を望んでいる」と口先ばかり言ったことが恥ずかしくなりました。信仰は大なぎの時には現れません。突風に遭った時こそ、その人の信仰が明らかになります。私が弱くなっている心、信仰のなさを悔い改めます。私がこれからは、生きておられる神様、私と常にともにおられる神様を信じて堂々と信仰によって歩むことができますように祈ります。

私は大声で叫ぶことはありませんでしたが、ゲラサの人のように悪霊につかれていたものでした。運命と情欲と劣等感の悪霊につかれて生きる意味や楽しさを感じることができませんでした。このような私の人生にイエス様が訪れ、心にある病や悪霊を追い出してくださいました。この神様を考えると恵みと感謝が湧き出ます。また、自分が今現在最も力を入れてやるべきことが何なのかはっきり見えてきます。私がイエスキリストの御名によって、恐れの悪霊、無気力の悪霊、不信仰の悪霊と戦い勝利の人生、実る人生を送ることができますように祈ります。

結論的に、私達は人生におけるどんな突風の前でも神様の愛を信頼し信仰を持つべきです。また、イエス様のような人間観に基づいて自分の命、他人の命を尊重するべきです。人の命は世のどんなものとも代えることができないものです。「おまえの名は何か」と尋ねるイエス様の声に自分の存在を改めて認識し、神様から頂いた新しい人生を感謝の気持ちをもって生きることができますように祈ります。

ハレルヤ

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23