Counter: 1303, today: 1, yesterday: 0

2009年長崎UBF、マルコの福音書、その7 --> 問題紙


実を結ぶ秘訣

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ4:1-20
要 節:マルコ4:20「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです」

今日の御言葉はイエス様が弟子たちに教えてくれた、人生の実を結ぶ秘訣です。しかも、イエス様は少なくつも30倍、あるいは60倍、100倍までの実を保証してくれています。私たちはだれでも、私たちの人生を通して実を結びたいです。どのようにすれば、実を結ぶことができますか。今日の御言葉を通してイエス様から実を結ぶことができますように、祈ります。

1節の御言葉をご覧ください。イエスはまた湖のほとりで教え始められました。イエス様を教えを聞くために、おびただしい数の群衆がみもとに集まってきたからでした。イエス様は人が多いから人数制限をしたり、湖のほどりで教えることを中止したりしませんでした。イエス様はその場その場で、必要な工夫をなさいました。おびただしい数の人数が集まったことを受けて、イエスは以前も効果を見ていた得意分野の海辺のステージを今日もお造りになりました。イエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地に座らせました。イエスは教え始められました。

2節をご覧ください。イエスはたとえによって多くのことを教えられました。たとえはある物事を理解させるのに大変効果があります。なんでそうなのか、質問がある場合、私たちはたとえを持って教える場合が多いです。わたしは仕事として基本的に、ホームページを作ることを教えていますが、ホームページを作りたい人が、どうすればホームページが作れるのか、聞くと、1ページだけのホームページを作成する、例を挙げて説明します。ホームページを作る技術は様々で、いろんな技術が使われます。わたしはその中でも、ホームページに地図をどのように表現するのかが、専門ですが、これらはすでに確立している技術もあれば、今もなお誕生している技術があります。すべてを教えることは不可能です。しかし、ある特定の原理と約束の下で動きますので、たとえとして「ハローわたしのホームページです。」とする、1ページのホームページを作って、地図を表現するページを作ってみると、全体の動きが一目で分かってきます。後は肉づけになり、どれだけ時間を努力を投資するかによって、良いページ、美しいページが誕生するのです。たとえはこのように、全体を理解させ、次のステップにわたしが何をすればいいのかを、直感的に理解させるとても良い方法です。

神の国はホームページを作るような世界以上に、とても複雑で深い世界です。それを理解させるにはたとえが適していることを、イエス様は良く分かっておられました。イエス様の今日の講義のテーマは「神様の御言葉とわたしたち」でした。イエス様は「神様」について、また、神様の「御言葉」について、また、それを耳にする「わたしたち」について、集まってきた人々に説明しようとした時、イエス様は一つのたとえを思い出しました。それは種をまく農夫とまかれる畑のたとえでした。

イエス様は「よく聞きなさい。」という言葉でたとえ話を始められました。その内容が何でしょうか。「種を蒔く人が種蒔きに出かけました。蒔いているとき、種が道ばたに落ちました。すると、鳥が来て食べてしまいました。また、別の種が土の薄い岩地に落ちました。土が深くなかったので、すぐに芽を出しました。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしままいました。また、別の種がいばらの中に落ちました。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結びませんでした。また、別の種が良い地に落ちました。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になりました。」そして最後にイエスは言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

このたとえ話の中で、私たちは注目すべき言葉が繰り返していることに気づかされます。ひとつは「聞く」という言葉です。イエス様はたとえ話をする前に、まず、「よく聞きなさい」「Listen!」としています。そして、たとえ話が終わった時にも、再度、「聞く耳のある者は聞きなさい。」"He who has ears to hear, let him hear." メッセージを準備するときに、このListenとHearが日本語では同じく「聞く」として解釈されているために、いろいろ調べてみましたが、結論からして、両方とも「注意深く、理解するために、神経を使って、耳を傾ける」という意味でつかわれていることが分かりました。つまり、イエス様は耳を傾けて、心をこめて、話を聞いてほしい気持ちを、「よく聞きなさい。」また、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われたのです。不思議なことですが、どんなに騒いでいる音や騒音も、耳に慣れてしまったら全然聞こえないのだと言われます。事実、わたしたち人間が住んでいる地球の一番の騒音は、地球が自転をする、つまり地球が回るときに出す音だそうです。しかし、私たち人間にはこれが慣れてしまったので、聞こえないようです。耳に慣れてしまうと聞こえない、つまり、関心がない声は聞こえない、ように作られているのです。人の話も関心を持たないと、まったくの騒音、無駄な風の音と同じなわけです。イエス様は弟子たちがたとえの話を、真剣に聞いてほしい気持ちでいっぱいであったことが分かります。また、真剣に聞いてほしいがために、たとえ話をされたことが分かります。

それでは、どのような人たちがイエス様の願いに沿った人のように、良く聞いた人たちですか。聞く耳のあるものですか。イエス様のお話を、ある人たちは湖の波の音とともに、静かに聞こえてくる子守唄だと思ったのかもしれません。ある人はイエス様の声がいつも同じテーマソングのように、神様の話ばかりつづられた、あまり聞きたくない声だったののかもしれません。しかし、マルコはイエス様がほしがっていた「聞く耳のある姿」を、次の言葉で説明しています。

10節の御言葉をご覧ください。「さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。」とあります。つまり、イエス様の弟子たちはイエス様のお話を注意深く聞いて、その意味を探っていたことが分かります。マタイの福音書を見ると、弟子たちはこのようにお尋ねしています。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエス様の弟子たちは、イエス様の言葉の意味についてはもちろんのこと、何でお話をたとえ話でされるのかも、不思議に思っていたのでした。11節、12節をご覧ください。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」ここで、私たちは大事な事実を発見します。

神の国の奥義は、神様のお言葉に耳を傾ける人に開かれるもので、ただ、聞いているだけでは何の意味もない、ということです。神様の御言葉は聞いているだけでは、何の効果も効力もないのです。神様の御言葉はListenすべきです。よく聞くべきです。聞く耳を持つために努力すべきです。その意味を探るべきです。その時に、どうなりますか。なぜ、そうすべきですか。

14節からイエス様は、その理由についてたとえをもって、詳しく説明しています。14節をご覧ください。「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。つまり、神様であり、御言葉を預かった人たち、宣教師たち、牧者たち、師牧したちにことを指します。羊たちを導く立場に立っている人々を意味します。種まくとは、御言葉を伝えることであり、御言葉を説明する行為を指します。この御言葉は様々な畑にまかれます。つまり、様々な人々にまかれるのです。イエス様はその畑の種類を、四つ上げています。

ひとつは、道端のような心畑です。

道端にまかれるとは、こういう人たちのことです、と説明しています。道端の心とはどんな心でしょうか。「みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」道端の心はつるつるの心です。つまり、御言葉と心が別々に行動する様子を指します。神様の御言葉があっても、「そんなのかんけいない」という気持ちで、受け入れない心を指します。言葉は言葉、私は私、としっかり線を引く心です。このような心には御言葉の種がまかれても、すぐにうサタンが来て、彼らにまかれた御言葉を持ち去ってしまいます。彼らに御言葉は全く影響せず、何な効果もないのです。

二つ目は、岩地のような心畑です。

16-17節をご覧ください。「岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」岩地とは岩が多い、土の層が薄い畑を指します。土があるので種はおとされ、芽を出しますが、実を結ぶための根を張ることができないのです。根を張ることができないので、水分を吸い取ることができず、日が当たると水分の供給ができず、枯れてしまうのです。風が吹くと、根がないので倒れてしまうのです。岩地とは自分の頑固な考え方を崩せない心畑です。神様の言葉を聞いて、もしかして、わたしの考えは間違っているのかもしれないと思われても、自分の考えを主張し、認めようとしない心です。神様のことばが心畑に根を張ることができないので、御言葉のために困難が訪れたり、迫害が起きたりすると、不平不満を言いだしながら、聖書勉強をやめてり、教会に通うことを辞めたり、自分の好きなようにしてしまうのです。

三つ目は、いばらのある心畑です。

18節の御言葉をご覧ください。「いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」いばらがある心畑とは、様々な気持ちがこう着する心畑を指します。信仰もありますが、世の心づかいもあり、富みたい気持ちもあり、欲望もあって、なかなか御言葉による実が結べない心畑です。このような心畑はいばらが邪魔をして、畑の状態も良く、御言葉の根もしっかり張り、芽が出ているのですが、形をしっかりしているのですが、実が結びません。このような心畑からいばらさえ取り除けば、この心畑からはすぐにでも実が沢山結べます。イバラが問題です。世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が問題です。

四つ目は、良い地を持つ心畑です。

良い地とは、上記の三つの畑の問題をクリアした心畑です。つまり、自分の考えを主張しない、柔軟な柔らかいこころ畑です。自分だけの固定概念にとらわれない、岩を持たない心畑です。素直な心であり、砕かれた心です。どんな話があっても、怒らず、焦らずの心であり、純真な心です。人の話に耳を傾ける心であり、特に、神様の御言葉に耳を傾ける心です。そのような良い地に神様の御言葉がまかれると、みことばを聞いて受け入れるのです。御言葉の意味を探り、自分の人生に適用するのです。御言葉の教えに従って人生の計画をする人です。その都度、その都度、御言葉が導いている人生の道のりに、焦らずついていく人生です。神様の関与と神様の愛と、神様の能力を信じて、生きる人生です。その人生はどうなりますか。マルコは、イエス様の言葉を引用して、次のように記録しています。「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」少なくとも30倍の人生、100倍までの人生の実を結ぶ人になると、約束しています。

詩編の記者はこのことを、次のように記録しています。「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」ガラテヤ人への手紙には、時が来ると実になることについて具体的に、高記録しています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

わたしは今日の御言葉を準備しながら、自分の心畑はどんな心畑なのか、考えてみました。私は決して良い地ではないことを、悟ることができました。特に、わたしにはいばらの畑ではないだろうか、と考えるところがありました。世の心づかいが、富の惑わしが、いろいろな欲望が、私には毎日のように飛びかかっていることに気が付きました。どうすればいいのか。何よりも、これらのいばらを取り除く作業が必要であることを、深く考えることができました。私は昨年、教育学部で安定した環境を得た時、祈りました。私がやることを一つ、選べるように、私にふさわしい世の使命を決めていただきますようにと、祈りました。しかし、一年が過ぎて今、私にはいろんな惑わし、世の心づかい、富み、欲望が素直に考える主の道を遮り、妨害していた気がしました。このメッセージを準備しながらも、わたしはいろんな考え方にさいなまれている自分自身を見つめなおすことができました。そして、一つの目標つかむことができました。

それは、良い地にふさわしい、「みことばを聞いて受け入れる生活」に専念することです。朝の時間に御言葉を聞いて、受け入れること、この習慣をこの一年間、身につけること、また、さらにはダビデが大学に入学するまで、続けることです。三年であれば体に染み付く、10年であれば財産になれる、朝の時間の習慣「みことばを聞いて受け入れる生活」を、良い地にふさわしい姿として保ちますように祈ります。

ハレルヤ

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23