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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その5 --> 問題紙


新しいぶどう酒は新しい皮袋に

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ2:18-3:6
要 節:マルコ2:22「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」

今日の御言葉にはイエス様が生きていた時代、伝統や習慣、先祖たちの言い伝えを大事にしてきた宗教指導者や律法学者たちと、イエス様をとても愛している弟子たちが登場します。イエスさまは弟子たちのことを、新しい皮袋であると言われます。そして、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」と言われ、ご自分が新しいぶどう酒であることを示しています。今日の御言葉を通して、この御言葉の意味とメッセージを聞き取れることができますよう祈ります。

I. 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです(18-22)

18節の御言葉をご覧ください。イエス様は取税人レビの家で食事をしていました。当時の取税人は最悪な人間でした。その姿を見るだけでも気持ち悪い人でした。彼らはユダヤ人にとって、同族の血を吸って生きているような悪魔のような存在でした。ユダヤ人にとって最悪な人間といえば、異邦人と取税人でした。

本日は、この最低の人間の家で食事会が開かれていましたが、イエス様とその弟子たちがこの食事会に参加していました。参加することだけでも、白い目で見られていましたが、その食事会に参加していたパリサイ派の律法学者たちがイエス様に言いました。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」食事会に参加していたヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは、その食事会に参加はしていましたが、食事を遠慮していました。その日は彼らが断食をする日のようでした。当時、人々によって尊敬されていたヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちは礼儀が正しく、その生活ぶりは清いものでした。ユダヤ人の伝統である安息日を守るだけでなく、彼らは月曜日と木曜日の週2回、断食していました。断食は当時、神に仕える聖なる人々の表しとして、また誇りとしていました。その上、彼らは毎日、決められた時間になると祈りをし、家に入るときにはユダヤ人の習慣である手足を清潔に洗う、模範的な生活をしていました。普通の人々にとって彼らは、ユダヤ人を代表する人々でした。それで、人々はヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちの姿を見るだけでも尊敬の念が生じました。しかし、イエス様の弟子たちは断食を守りませんでした。

本日開かれている取税人レビの家での食事会に出されたおいしい食べ物を、イエス様の弟子たちは所構わずおいしく食べつくしていました。形や伝統、習慣などにとらわれない弟子たちの姿を、パリサイ人や律法学者たちは受け入れきれず、イエス様に告訴していました。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」イエス様ご自身が告訴の対象になってないことを見ると、イエス様は彼らの断食の日を気にしていたようでした。告訴を受けた弟子たちについて、イエス様は何と答えましたか。19節と20節をご覧ください。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。」

イエス様は弟子たちの断食を正しい行為であるとは言いませんでした。彼らは断食していませんが、しかし彼らも断食について守る時が来ることを予言しました。しかし、彼らの断食しない行為について、花婿の友たちの例を上げて、弁護しました。当時、結婚式は花嫁のところで盛大に行われていたそうです。結婚式の準備は花婿の友人によって仕切られ、夕方スタートする結婚式はともしびを準備する友人たちによってスタートされ、一週間続く婚礼場は喜びに賑わっていました。しかし、花婿の友人の中にはユダヤの伝統である断食が気になる人々がいました。花婿の友人として楽しむべき婚礼場ですが、週2回の断食を守らなければいけないことが、悩みの種でした。そこで、彼らは婚礼場だけは断食の伝統が例外になるとの規定を作り、断食よりも婚礼の喜びを優先するもう一つの伝統を作り上げていました。花婿のために付き添う友たちは、週2回の断食を守らなくても良い、という伝統が出来上がりました。花婿と一緒にいるときには、断食しない、いや断食できない規定が宣布されました。彼らは結婚式場内では断食の律法を守らなくても、その律法の定めから除外されました。つまり、ユダヤ人の断食は結婚式のルールよりは効力が弱く、緩やかなものでした。断食は大事ですが、結婚式がユダヤ人にとってはもっと大事に扱われていました。

このように伝統と人々が守るしきたりは、時代によって変わったり、場所によって違ったり、決められた風習により重みが異なったりするものです。大事なのは、その伝統を生み出した精神にあり、その背景にある教えがしっかり守られることにあります。ユダヤ人が大事にしていた旧約聖書では断食のことを、贖罪の時に、つまり罪を償うために何かを犠牲にしなければいけないときに、断食が勧められていました。しかし、イエス様の時代になると、人々は週に2回断食することにより、彼らの清めの表しをしていました。断食をするだけで、彼らは贖罪の行為を果たしていると判断されました。それを守らない弟子たちは贖罪の行為を全く果たしてない人として厳しく責められていたのでした。しかし、イエス様は花婿の友人たちが断食のルールより上位に当たる花婿が取り去られる時、彼らは断食すると、言われました。弟子たちにとって断食は、週に2回、決められた時間になると何にも考えずに実行するのではなく、花婿が取り去られた時に、悲しみをもって実行するものでした。なぜなら、弟子たちにとって週2回の守るべき習慣や伝統よりも、もっとも大事なのは花婿がいるか否かであり、花婿の存在がこれらの決まり事よりも大事だったからです。

続けて、イエス様は弟子たちのことを次のように説明しています。「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。」ここで新しい布切れとはイエス様を指しており、古い着物は2回の断食を大事にするユダヤ人の伝統を指します。これは古い伝統や習慣を補うために、キリストの教えが用いられないことをコメントしています。ユダヤ人の古い伝統や習慣の穴を、キリストの教えが補えるものではないのです。ユダヤ人の伝統は長い間、固定された概念があり、背景があります。しかし、ユダヤ人の古い伝統や習慣が神様のことを背景にしていても、キリストの教えとは根本が異なることを教えています。なぜでしょうか。22節をご覧ください。「だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」古いぶどう酒は古い皮袋が最適です。熟成した味を保存させるためには、古い皮袋でないといけません。しかし、新しいぶどう酒は新しい皮袋が最適です。新しいぶどう酒は伸縮性があり、皮袋に相当の負担をかけていて、古い皮袋だと対応しきれないからです。新しいぶどう酒の伸縮性に耐えきれず、破れてしまい、新しいぶどう酒も、皮袋も駄目になってしまうからです。ですから、新しいぶどう酒は新しし皮袋を必要とします。

ここで、新しいぶどう酒はイエス・キリストの教えを指します。イエス・キリストの教えは古い伝統に収まりきれません。古い考えや伝統、習慣や風習の考えを補うためにもふさわしいものではありません。これらの伝統や習慣、風習を捨てて、新しい皮袋を用意すべきです。新しい皮袋とは聖霊により生まれ変わった姿を指します。新しく生まれ変わった弟子たちのことです。コロサイ人への手紙の3章9節から11節には次のような言葉があります。「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」新しい皮袋は生まれ変わった弟子を指しており、新しいぶどう酒はキリストの教えを指します。

新しい皮袋である弟子はギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別を超えた、生まれ変わった新しい区別を身にまとった人々です。この世においては日本人であったり、アメリカ人であったり、シンガポール人であったり、金持ちであったり、社長であったり、サラリマンであったり、学生の身分であったりしますが、信者はそれらの区別を超えた、キリストの人としての伸縮性豊かな皮袋として選ばれた人々です。それは、新しい人であり新しい皮袋として、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至ることのできるものです。しかし、このような新しい皮袋が伝統や習慣、風習にとらわれると、もったいない新しい皮袋です。新しい皮袋には、新しいぶどう酒のキリストの教えを入れて、味の濃い、おいしいぶどう酒を作り上げるべきです。新の知識を取得すべきです。イエス様は弟子たちが、新しい皮袋として、新しいぶどう酒を熟成させ、おいしいぶどう酒を作り上げる、新の知識に身をまとう人たちとして成長することを願っていたのです。習慣や伝統にとらわれることなく、イエス・キリストの教えの中で、新しい創造社として、ヒストリーメーカとして、生きていくことを願っています。弟子たちはそのために呼ばれており、伝統と習慣を受け継ぐために呼ばれたのではありません。歴史を創造し、新しいことを生み出すものとして選ばれているのです。それでイエスさまは弟子たちのことを指して、言われます。

だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。

II. 安息日は人間のために設けられたのです(23-3:6)

23節をご覧ください。ある安息日のことでした。イエスは麦畑の中を通って行かれていました。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めました。すると、これをじっと見ていたパリサイ人たちがイエスにまた弟子たちの弱点を突っ込んで告訴してきました。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」

安息日はユダヤ人が伝統的に守ってきた休みの日で、今の土曜日のことを指します。この安息日は神様が天と地を創造してお休みとなられた七日目を祈念するもので、イスラエルが奴隷から解放された日に合わせて守られてきた伝統でした。ユダヤ人にとって奴隷時代、休みがありませんでした。彼らは解放された時、六日間一生けん命働きましたが、金曜日の日は普通の日の二倍働き、土曜日の一日を休みとしていました。それは、休みを自分たちの考えに沿って作ることのできる喜びを、神様に報告し、感謝をささげる人決めていました。神様のことを忘れず、この安息日はすべてのことを休む喜びを味わいながら、神様への感謝をささげる日として決めていました。ユダヤ人たちが伝統的に守ってきたこの安息日について、古い伝統の教えとして残る、ミシュナには安息日に守るべきものとして、39の項目が定められています。その内容は、畑仕事、工事、ハンマーを使う仕事、家事、動物狩、料理、作文、火を付ける作業などで、仕事をやめて、神様のことを思い出す人して、安息日が定められていたことがうかがえるものです。しかし、イエス様の当時、人々はこれよりももっと合理的な理由をつけて禁じることを増やしていました。イエスさまの時代には、安息日に病人をいやすこと、脱穀作業などを禁じていました。

弟子たちが麦畑を通りかかる時に、道々穂を摘み始めたのは、安息日にやってはいけない脱穀作業でした。イエス様はダビデが安息日を守れなかった記録を取り上げて、ダビデが罪に定められなかった理由をこのように説明しています。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」そして、言われます。「人の子は安息日にも主です。」ここで、人の子とは、イエス・キリストを指します。安息日が人間のために設けられたように、イエス・キリストは人のために来られ、人のために十字架につけられ、人のために救いをもたらした主なのです。安息日に、古い伝統を守る土曜日が本当の安息日だと主張したり、イエス・キリスト以外の礼拝者を立てたりするのは、正しい安息日を守るものではありません。なぜなら、「人の子は安息日にも主」だからです。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23